王経
王経 | |
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![]() 王経 (清代『三国志演義』より) | |
魏 司隷校尉・尚書令 | |
出生 |
生年不詳 冀州清河郡清河県 |
死去 |
甘露5年(260年) 洛陽 |
拼音 | Wáng Jīng |
字 | 彦緯 |
主君 | 曹叡→曹芳→曹髦 |
王 経(おう けい、? - 260年)は、中国三国時代の軍人・政治家。魏に仕えた。字は彦緯。冀州清河郡清河県の人。
経歴[編集]
農家の出身であったが、同郷の崔林に才能を見出された。後、許允と共に名士として知られるようになり、中央に出て官職に就くことになった。一度、官を退いて故郷に戻ったが、間もなく江夏太守に任じられた(太守への出世の挿話は『三国志』管輅伝にみえる)。在職中、曹爽が絹を送り付け、呉の国境で交易させようとしたことがあった。王経は添えられた手紙も開かず、官を棄て再び帰郷した。母は息子が勝手に職務を放棄したため、部下の前において棒で50回叩いた。これを聞いた曹爽はそれ以上何も咎めなかったという。母が「お前は農家の子から太守にまで出世しましたが、分に過ぎた官位は災いの元です。出仕するのはもうやめておきなさい」と言ったが、王経はその言葉に従わなかった。その後、雍州刺史に昇進した。
255年、蜀漢の姜維が隴西郡に侵攻すると、陳泰は蜀軍に備えて王経を狄道に駐屯させた。しかし、王経は洮西で蜀軍と戦うも大敗し数万の兵を失ったため、狄道城で蜀軍に包囲される窮地に陥った。また、陳泰の援軍が来るまで城を守り通した。王経は嘆息し「兵糧は旬(10日分)にも足りず、救援が無ければ城は陥落し、一州(雍州)は失われていました」と言った。その後、中央に召還され、司隷校尉・尚書令に任じられた。陳泰は「王経は蜀軍と交戦せずに、狄道の守りを固めるべきであった」と批判している(狄道の戦い)。
260年、司馬氏の専横に耐えかねた曹髦(高貴郷公)は、王経ら大臣を呼び、自ら兵を率い司馬昭を除くことを告げた(甘露の変)。王経はその無謀を懸命に諌めたが、聞き入れられなかった。王沈や王業が司馬昭に挙兵の計画を知らせたのに対し、王経は曹髦への忠義を貫き、司馬昭に注進しなかった。そのため事件の後、反逆罪と見做され、家族諸共東市で処刑された。『漢晋春秋』などによると、処刑される前に王経が母に不孝を詫び「母上の言葉に従わず、このようなことになってしまいました」と言ったが、母は微笑んで「昔、お前を引き留めようとしたのは、相応しい死に場所を得られないのではと心配したからです。今ここで死ぬことをどうして恨むでしょうか」と答えたという。
元部下の向雄は東市で哭泣して王経を弔った。また、同じく部下であった皇甫晏は家財を売り払って葬儀の費用を工面し、王経とその家族を埋葬した。
上記の『漢晋春秋』によると、王経の孫は処刑を免れている。265年(泰始元年)に西晋が成立すると、司馬炎(武帝)は「故の尚書王経は法によって処罰されたが、その志は評価するべきである」として、孫を郎中に取り立てたとある。東晋の袁宏の「三国名臣序賛」(『文選』所収)では魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛されており、その中に名を挙げられている[1][2]。