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王方翼

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王 方翼(おう ほうよく、625年 - 687年)は、唐代官僚軍人は仲翔[1]本貫并州祁県[2][1]

経歴

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貞観年間、父の王仁表が死去すると、母の李氏が祖母の同安大長公主に排斥されたことから、方翼は母とともに鳳泉墅に住んだ。方翼はまだ幼かったが、雇われ仕事につとめ、生計に苦心した。数年で田地数十頃を開墾し、竹や木を植えて、家を富ませることができた。同安大長公主の死後、方翼は長安に帰った[2][1]

永徽年間、方翼は安定県令に累進した。豪族の皇甫氏を処断し、盗賊の活動を止めさせて、善政で知られた。瀚海都護府司馬に転じ、事件に連座して朔州尚徳府果毅に左遷された。1年あまりで召還された。母が死去したため、方翼は辞職して喪に服した。友人の趙持満が罪を犯して処刑され、遺体を城西に晒された。親戚ですらその遺体を引き取ろうとしなかったので、方翼は遺体を引き取って葬った。高宗がそのことを聞いて称賛したので、名を知られるようになった[2][1]

二度異動して粛州刺史となった。ときに酒泉県城は荒廃しており、堀がなかったため、たびたび反乱者の攻略を受けていた。方翼は兵を動員して浚渫し、多楽水を引いて城を巡らせて堀とした。また私財を出して水力による碾き臼を造り、その利益を税として飢民を養った。儀鳳年間、河西蝗害が発生して、諸州には餓死した人々の遺体が道路に散乱していたが、粛州では生き残った者が多かった。粛州の人は頌徳碑を建てて、かれの統治を称えた[2][1]

調露元年(679年)、吏部侍郎裴行倹西突厥の李遮匐を討つと、方翼はその副将をつとめ、検校安西都護を兼ねた。砕葉城を築き、西域の諸民族を来朝させた。ほどなく庭州刺史に転じた[3][4]

永淳元年(682年)、十姓の阿史那車薄が反乱を起こし、弓月城を包囲した。方翼は兵を率いて弓月城の救援に赴き、伊麗水で阿史那車薄と戦ってこれを撃破し、1000人あまりを斬首した。まもなく咽面部が10万の兵を動員して、阿史那車薄と合流し、方翼を阻んだ。方翼は熱海に兵を駐屯させ、咽面部と連戦した。流れ矢がかれのを貫いたが、方翼は佩刀で矢を斬り落として戦闘を続けたため、側近たちもかれの負傷に気づかなかった。味方の胡族兵が裏切ろうとしていることを察知した方翼は、軍資を供出すると偽ってかれらを呼び出し、7000人を斬り捨てた。騎兵を分遣して咽面部を襲撃し、咽面部と突騎施部の300人を捕らえ、西域の乱を鎮圧した。功により夏州都督に転じた[5][4]

永淳2年(683年)、方翼は洛陽に召還されると、奉天宮において血染めの衣装で高宗の謁見を受け、熱海での苦戦の様を物語り、負傷の跡を見せた。まもなく綏州の白鉄余が挙兵して反乱を起こすと、方翼は勅命を受けて程務挺の副将としてこれを討った。反乱が鎮圧されると、方翼は太原郡公に封じられた[5][4]

文明元年(684年)、武則天臨朝称制すると、方翼は廃皇后王氏の近親だったことから、ひそかに排除しようと狙っていた。光宅元年(同年)、程務挺が処刑されると、方翼は程務挺と仲が良かったため、その罪に連座して獄に下された。垂拱3年(687年)、崖州に流される道中に衡州で死去した。享年は63。神龍元年(705年)、中宗が復位すると、方翼の官爵は回復された[5][6]

家族

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  • 曾祖父:王秉汴州刺史)
  • 祖父:王裕(隋の隋州刺史)
  • 祖母:同安大長公主(高祖の同母妹)
  • 従叔父:王仁祐(王裕の弟の子で、廃皇后王氏の父)
  • 父:王仁表(岐州刺史)
  • 母:李氏[2]
  • 子:王璵(光禄寺少卿)
  • 子:王珣(秘書監)
  • 子:王瑨(中書舎人)[5]
  • 孫:王錫
  • 孫:王鉷
  • 孫:王銲

脚注

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  1. ^ a b c d e 新唐書 1975, p. 4134.
  2. ^ a b c d e 旧唐書 1975, p. 4802.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 4802–4803.
  4. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4135.
  5. ^ a b c d 旧唐書 1975, p. 4803.
  6. ^ 新唐書 1975, p. 4136.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6