王則 (宋)

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王 則(おう そく、? - 1048年)は、北宋仁宗の時代、河北で反乱を起こした指導者である。涿州の出身。

生涯[編集]

王則はもともと涿州の農民であったが、飢饉が続いたので貝州に逃げ、雇われて羊飼いをしていた。後に宣毅軍に入り、下士官になった。しばらくして、弥勒教に参加した。慶暦7年(1047年)、教首の李教とともに、翌年の正月に反乱を起こすことを計画した。そのため、一度涿州に戻り母親に別れを告げている。信者の潘方浄は、刃物をもって北京(大名府)に行き、留守の賈昌朝に会い、投降を迫ったが、逆に捕らわれてしまった。そのために秘密が漏れ、王則は慶暦7年11月の冬至に反乱を始めた。その時、「釈迦仏は衰え、弥勒仏の世が来た」をスローガンにした。さらに貝州知州の張得一を逮捕した。王則は、推されて東平郡王となり、張巒宰相卜吉枢密使とし、胡永児を皇后とした。国号を安陽とし、年号を得聖(徳聖)とし、12月を正月とした。戦士の顔に「義軍破趙得勝」(義軍は趙を破り、勝を得る)[1]と入れ墨させて、反抗の決意を示した。

参知政事文彦博は鎮圧を奏上し、慶暦8年(1048年)正月に河北宣撫使に任命され、明鎬を副使として、貝州を包囲した。しかしなかなか落ちず、地下道を掘って場内に潜入し、王則・張巒・卜吉などは東門を突破したが、捕らえられた。残りの者は「余党保邨舎、皆焚死」とあるように、死亡した。王則は、東京(開封府)で斬首された。この反乱は前後65日であった。この反乱は、『三遂平妖伝』のもとになった。

脚注[編集]

  1. ^ 「趙」とは、宋の皇帝の姓で、ここでは宋朝を破るの意味である。

参考文献[編集]

  • 中村健寿「宋代の王則の乱と弥勒教に関する一考察」、『静岡県立大学短期大学部研究紀要』第10号、1996年度