狂つた一頁

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狂つた一頁
A Page of Madness
A Page of Madness Still.jpg
監督 衣笠貞之助
脚本 川端康成
衣笠貞之助
犬塚稔
沢田晩紅
原作 川端康成
出演者 井上正夫
中川芳江
撮影 杉山公平
製作会社 新感覚派映画聯盟
ナショナルアートフィルム社
配給 日本の旗 自主配給
アメリカ合衆国の旗 ニュー・ライン・シネマ
公開 日本の旗 1926年9月24日
アメリカ合衆国の旗 1975年1月
上映時間 70分(現存59分)
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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狂つた一頁』(くるったいっページ)は、1926年(大正15年)に公開された日本映画である。監督は衣笠貞之助、主演は井上正夫。衣笠が横光利一川端康成などの新感覚派の作家と結成した新感覚派映画聯盟の第1回作品で[1]、無字幕のサイレント映画として公開された。

激しいフラッシュバック多重露光キアロスクーロ、素早いショット繋ぎ、オーバーラップなどの技法を駆使して斬新な映像表現を試みた、日本初のアヴァンギャルド映画である[2][3]。物語は精神病院が舞台で、狂人たちの幻想と現実が交錯して描かれる。大正モダニズムの成果である本作は、ドイツ映画『カリガリ博士』(1920年)に触発されたものであるが、そこに日本人固有の家族観が入れられているところに独自の工夫がある[3][4]

あらすじ[編集]

元船員の老いた男は、自分の虐待のせいで精神に異常をきたした妻を見守るために、妻が入院している精神病院に小間使いとして働いている。ある日、男の娘が結婚の報告を母にするため病院を訪れ、父親が小間使いをしていることを知る。娘は自分の母が狂人であることを恋人に悟られないよう懸念している。娘の結婚を知った男は、縁日の福引きで一等賞の箪笥を引き当てる幻想を見る。男は妻を病院から逃がさせようとするが、錯乱した男は病院の医師や狂人を殺す幻想を見る。今度は、男は狂人の顔に次々と能面を被せていく幻想を見る。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

新感覚派映画聯盟の結成[編集]

1925年(大正14年)、衣笠貞之助マキノ・プロダクション傘下の聯合映画芸術家協会で、横光利一原作の卑弥呼を描いた『日輪』を演出し、これを機に衣笠は横光と親交をもつようになった[5][6]。翌1926年(大正15年)に満30歳を迎えた衣笠は、誰からも掣肘を受けず、自由に思いのままの映画を作ろうと決意し、マキノ・プロダクションを離れて独立した[7][8]。まずは映画製作に必要なカメラとレンズを手に入れるため、知人のドイツ人に撮影機パルボK英語版上海まで買いに行かせた[9]。このカメラは本作の撮影で用いられた[10]。衣笠が構想したのはサーカスを舞台とした老人の物語で、これを製作するため自宅の地下室に現像所を作り、近所の茶畑をロケ地として借り受け、そこに1か月間借り切りにした巡業サーカス団の天幕を張って撮影するという計画を立てた[11][12]

この新しい映画製作の相談をするため、衣笠は葉山に滞在していた横光を訪ねた[6][11]。これにすぐさま応じた横光は、4月2日に『文藝時代』の同人で新感覚派川端康成片岡鉄兵岸田国士池谷信三郎に声をかけ、この映画の計画ために共同で案を練ることになった[6][11][13]。ここに新感覚派映画聯盟が結成されたが、その名称は4月11日報知新聞がこの映画製作について報道したときに、新感覚派にちなんで勝手に命名したものであり、これがそのまま正式なプロダクション名になった[14][15]

シナリオ[編集]

狂つた一頁
A Page of Madness
作者 川端康成
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル シナリオ
発表形態 雑誌掲載
初出映画時代1926年 7月1日・7月号
収録 『川端康成全集第1巻 伊豆の踊子』 新潮社 1959年11月30日
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衣笠が構想していたサーカスと老人の物語は、新感覚派の作家と初めて顔合わせしたときに見送られ、代わりに岸田国士が『ゼンマイの戯れ』というシナリオを2日程で執筆した[11][13]。このシナリオは特許マニアのサラリーマンを主人公にしたフランス風の小喜劇だったが、あまりにも軽妙すぎるという理由で決定稿にはいたらず、新橋の烏森にある旅館に泊りこんで案が練られた[8][11][13]。そこで衣笠は、横光宅を訪ねようと駅に降りたときに見かけた高貴な方の一行の奇妙な印象から、狂気の人がドラマの大きな要素になることを考え、松沢病院を見学した[13]。この見聞から精神病院を舞台とするプロットが決まり、川端の協力でシナリオが練られた[13]

シナリオは撮影開始時も完全に出来上がらなかったが、「脚本がほんとうに完成するのは、映画ができてからである」と考える衣笠にとって別に問題ではなかった[10]。シナリオは撮影を進めながら作られ、川端と衣笠、犬塚稔沢田晩紅の4人がメモ書きでアイデアを出し合って打ち合わせをし、それを踏まえて翌日に撮影が行われた[10][16]。正式なシナリオは、5月末の撮影終了後に4人がメモを持ち寄り、川端がこれらを脚本としてまとめて6月15日の締切日ぎりぎりに入稿させ、翌7月1日刊行の『映画時代』創刊号に掲載された[1]。ただし目次では「狂へる一頁」と記され、文末には「(このシナリオは、衣笠、犬塚、澤田等の諸氏に負ふところ多し、附記して、謝意を表す。)」とある[1]。その後、シナリオは単行本収録されず、1959年(昭和34年)に初めて新潮社版の全集(全12巻)の第1巻(11月30日刊)に収録された[1]

スタッフとキャスト[編集]

シナリオのプランが固まると、衣笠はかつて舞台を共にしたことがある井上正夫に主演の老人役を依頼した。衣笠の映画製作に共鳴した井上は、5月の本郷座公演を断って無償で出演を承諾した[8][13]。さらに井上は老け役を演じるために自ら額の毛を抜いて演じた[15]。井上は一座の子役俳優である滝口新太郎と犬を連れて参加し、滝口は門衛の息子役として犬と一緒に出演した[13]。ほかの出演者では、日活向島撮影所時代に衣笠の同僚だった高勢実乗が狂人を演じ[15]、パルボKを購入するため上海まで出向いた衣笠の知人のドイツ人が、精神病院の医務室などの場面にいる外国人医師を演じた[9]。スタッフでは、杉山公平が撮影を担当し、その後彼は衣笠作品で何度もコンビを組むことになった。杉山の助手には円谷英一(後の円谷英二)が就いた。

撮影[編集]

撮影地には、松竹キネマ重役の白井信太郎から犬塚稔を通じて、当時放置されていた松竹下加茂撮影所の使用許可をもらい、まずスタッフたちで撮影所の草むしりをした[8][15][17]。撮影は5月6日に開始し、スタッフたちは撮影所の俳優部屋に合宿した[8][17]。下加茂撮影所はガラス張りのグラス・ステージで、昼夜続けて撮影するには照明が不足したため、精神病院のセットの壁に紙を下貼りし、銀粉を塗って光の反射をよくする工夫をした[15][17]。さらにこの壁に近所の銭湯からもらった油煙を塗り、壁の立体感をつけた[17]。井上正夫は率先してこの作業を行い、スタッフと変わりなく大道具作りや小道具の飾りつけをして働いた[15]。撮影は約1ヶ月で終了した[18]

6月上旬に衣笠は、妻の看病で葉山の病院にいる横光を訪ね、病院近くの映画館を借りて個人的な試写を行った[6][8]。このとき横光の意見で、題名を当初の『狂へる一頁』から『狂つた一頁』という過去形に改めた[19]。また横光は映像の純粋性を保つため、無字幕で公開するように主張し、衣笠はその助言を受けて字幕のすべてを割愛した[6]6月22日に完成した作品は内務省検閲を通過した[20]

公開[編集]

本作は自主製作映画であるため、衣笠は自分で封切り交渉をするためフィルムを携えて上京したが、作品の難解さが災いして配給先が決まらなかった[20]。7月に衣笠は東京朝日新聞社主催で特別上映を開催し、宣伝に努めた[20]。完成から4か月後となる9月にようやく洋画専門館の武蔵野館(現在の新宿武蔵野館)での上映が決まったが、これには上映作品を選定する番組委員会の森岩雄岩崎昶の強い推薦に、同委員で武蔵野館の主任弁士である徳川夢声が賛同したことが大きく働いていた[19][20]。こうして9月24日から1週間にわたり、武蔵野館で徳川の解説で封切られた[1][20]。新聞広告では衣笠を「日本のジョセフ・フォン・スタンバーグ」と紹介し、「俄然!! 日本映画界を震撼させる大芸術篇」という惹句が添えられた[20]。そのほか東京館大阪京都松竹座などでも公開され、全体で7500円(当時)の配給収入を得たが、興行的には1万円を超える赤字を計上する大失敗となった[20]。この興行的惨敗により、新感覚派映画聯盟は第2回作品を作ることなく、この作品だけで解散した[21]

衣笠が東京で奔走する間、京都にいるスタッフは本作の歩合上がりで食いつなぎながら、衣笠からの吉報を待つという状況が続き、無一文では次の映画製作にかかれないという状態となった[22]。そこに松竹キネマの大谷竹次郎社長から月2本時代劇映画を製作するという話が持ち込まれ、衣笠は本作のスタッフとともに同社と提携契約を結び、下加茂撮影所内に衣笠映画聯盟を発足した[22][23]。以後衣笠映画聯盟は、松竹配給で林長二郎主演の時代劇映画などを請負い製作するが、やがて衣笠やスタッフから本作に続く斬新な企画があってもいいのではないかという気運が強まり、本作に次ぐ実験的作品として『十字路』(1928年)を製作した[24]

フィルムの再発見[編集]

本作のフィルムは、1950年(昭和25年)に松竹下加茂撮影所のフィルム倉庫で発生した火災で焼失したと思われ、長らく現存しない作品と思われていた[25]。しかし、それから21年後の1971年(昭和46年)、衣笠の自宅の蔵にしまってあった米櫃の中から偶然ネガフィルムが発見された[26][27]。このフィルムは衣笠自らがニュー・サウンド版(59分に短縮)として再編集し、同年4月27日岩波ホールで特別試写会が行われた。この試写会には川端をはじめ、助監督を務めた小石栄一、哲学者の谷川徹三河野与一、小説家の野間宏、映画関係者では川喜多かしこと岩崎昶などが参加した[28]。上映終了後、川端は衣笠の手を取って「今見ても、恥をかかなくてすんだ。よかった」と語ったという[28]。同年10月・11月には、同ホールで49年ぶりに一般上映された(翌年3月にも)[1]

このフィルムは海外でも上映され、1972年(昭和47年)にパリシネマテーク・フランセーズ16ミリのサウンド版による上映が行われた[29]。その後リスボンロンドンでも上映され[28]1975年(昭和50年)1月にはアメリカニュー・ライン・シネマの配給で公開された。

評価[編集]

映画評論家の岩崎昶は本作を激賞し、「日本で生まれた最初の素晴らしい映画だ、と私は確信を持って断言する。そしてまた、日本で作られた、最初の世界的映画だ」と評した[30]。同年度のキネマ旬報ベスト・テンでは4位にランクインされた[31]。海外でも高評価を受けており、オブザーバー紙は『カリガリ博士』や『戦艦ポチョムキン』などと比べながらこの作品を紹介し、「衣笠貞之助はアベル・ガンスセルゲイ・エイゼンシュテインと並んで映画的創造者のパンテオンに臨席することになるだろう」と評した[28]ニューヨーク・タイムズ紙は「現代の作品のような強烈さとスマートさをもった催眠術的ファンタジー」と評した[28]。また『タイムアウト』は「今も見ることのできる最も過激で挑戦的な日本映画のひとつ」と評し[32]、『スラントマガジン英語版』が発表した「史上最高のホラー映画ベスト100」で50位にランクインした[33]

その他[編集]

川端は本作撮影時のことを題材にした掌編小説笑はぬ男」を1928年(昭和3年)に発表。この作品は掌の小説集『僕の標本室』(新潮社、1930年4月)に収録され、のちの1971年(昭和46年)の掌編小説集『掌の小説』(新潮文庫)にも収録された。

シナリオ収録刊行本[編集]

  • 『川端康成全集第1巻 伊豆の踊子』(新潮社、1959年11月30日)
    • 口絵:著者近影、野焼(羅両峰)
    • 収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「油」「葬式の名人」「篝火」「空に動く灯」「蛙往生」「白い満月」「青い海黒い海」「伊豆の踊子」「春景色」「死者の書」「文科大学挿話」「死体紹介人」「温泉宿」「狂つた一頁」
  • 『川端康成全集第1巻 伊豆の踊子』(新潮社、1969年5月25日)
    • カバー題字:松井如流。口絵:著者小影、大雅軼事(富岡鉄斎
    • 収録作品:1959年刊行全集と同じ。
  • 『川端康成全集第2巻 小説2』(新潮社、1980年10月20日)
    • カバー題字:東山魁夷
    • 収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「油」「葬式の名人」「篝火」「空に動く灯」「非常」「孤児の感情」「蛙往生」「驢馬に乗る妻」「青い海黒い海」「明日の約束」「白い満月」「伊豆の踊子」「春を見る近眼鏡」「文科大学挿話」「伊豆の帰り」「狂つた一頁」「温泉場の事」「祖母」「犠牲の花嫁」「五月の幻」「霰」「南方の火」「椿」「春景色」

脚注[編集]

[脚注の使い方]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 「解題――狂つた一頁」(小説2 1980, pp. 593-594)
  2. ^ 「第2章 無声映画の成熟1917~30 衣笠貞之助の活躍」(四方田 2014, pp. 72-74)
  3. ^ a b 栗坪良樹「作家案内―川端康成」(紅団・祭 1996, pp. 290-303)
  4. ^ 「新感覚――『文芸時代』の出発」(アルバム川端 1984, pp. 18-31)
  5. ^ 四方田 2016, p. 192
  6. ^ a b c d e 十重田 2010
  7. ^ 衣笠 1977, p. 59
  8. ^ a b c d e f 今村 1986, pp. 97-101
  9. ^ a b 衣笠 1977, pp. 52-53
  10. ^ a b c 衣笠 1977, p. 71-73
  11. ^ a b c d e 四方田 2016, p. 194
  12. ^ 衣笠 1977, pp. 60-61
  13. ^ a b c d e f g 衣笠 1977, pp. 62-66
  14. ^ 四方田 2016, pp. 197-198
  15. ^ a b c d e f 衣笠 1977, pp. 67-70
  16. ^ 四方田 2016, p. 214
  17. ^ a b c d 四方田 2016, pp. 197-198
  18. ^ 四方田 2016, pp. 200-201
  19. ^ a b 衣笠 1977, pp. 78-79
  20. ^ a b c d e f g 四方田 2016, pp. 202-203
  21. ^ 『世界映画大事典』日本図書センター、2008年、426頁。ISBN 978-4-284-20084-4
  22. ^ a b 衣笠 1977, pp. 84-85
  23. ^ 今村 1986, p. 102
  24. ^ 衣笠 1977, pp. 91-92
  25. ^ 四方田 2016, pp. 187-189
  26. ^ 大島 1984, p. 113
  27. ^ 鈴木 2001, p. 159
  28. ^ a b c d e 今村 1986, pp. 95-96
  29. ^ Une avant-garde au Japon : « une page folle ». Kurutta Tchipeiji de Kinugasa Teinosure, 1926” (フランス語). Institut Jean Vigo. 2020年6月7日閲覧。
  30. ^ キネマ 1993, p. 13
  31. ^ 85回史 2012, p. 10
  32. ^ A Page of Madness” (英語). タイムアウト. 2020年6月6日閲覧。
  33. ^ The 100 Best Horror Movies of All Time” (英語). Slant Magazine. 2020年6月6日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]