劉義慶

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劉 義慶(りゅう ぎけい、元興2年(403年)- 元嘉21年1月22日[1]444年2月26日))は、南朝宋皇族。臨川康王。武帝劉裕の甥にあたる。『世説新語』の撰者として知られる。

経歴[編集]

長沙景王劉道憐の次男として生まれた。幼くして劉裕に愛され、「これはわが家の豊城である」と評された。義熙11年(415年)、叔父の劉道規の後を嗣いで南郡公に封じられた。給事に任じられたが、受けなかった。義熙12年(416年)、劉裕の北伐に従軍した。凱旋すると輔国将軍・北青州刺史に任じられたが、赴任しないうちに都督豫州諸軍事・豫州刺史に転じた。豫州刺史のまま都督淮北諸軍事に改められた。

永初元年(420年)、劉裕が帝位につくと、義慶は臨川王に封じられた。建康に召還されて侍中となった。元嘉元年(424年)、散騎常侍・秘書監に任じられた。度支尚書に転じ、丹陽尹となった。

元嘉6年(429年)4月、尚書左僕射に任じられた。元嘉8年(431年)、左僕射からの解任を求めて許され、中書令に転じ、前将軍の号を受けた。元嘉9年(432年)6月、使持節・都督荊雍益寧梁南北秦七州諸軍事・平西将軍・荊州刺史として出向した。荊州にあること8年、荊州統治は比較的安定をみた。元嘉16年(439年)4月、散騎常侍・都督江州豫州之西陽晋熙新蔡三郡諸軍事・衛将軍・江州刺史に任じられた。

元嘉17年(440年)10月、都督南兗徐兗青冀幽六州諸軍事・南兗州刺史に転じた。元嘉18年(441年)5月、開府儀同三司の位を加えられた。

義慶は文学を愛好して、文学の士を招集し、当時有名であった太尉袁淑を衛軍諮議参軍として江州に招いた。そのほか陸展何長瑜鮑照らがかれのもとに集った。病にかかり、建康への帰還を強く請願した。文帝はこれを許して義慶の州刺史の任を解き、ほかの官位を保持したまま朝廷に帰参させた。

元嘉21年正月戊午(444年2月26日)、義慶は建康で死去した。享年は42。侍中・司空の位を追贈され、は康王といった。

編著[編集]

  • 世説新語』3巻 - 当初は『世説』8巻だったとされる(『隋書』経籍志)。
  • 『集林』200巻
  • 幽明録中国語版』 - 孫鍾孫堅の父)などを描いた作品。
  • 『宣験記』
  • 『徐州先賢伝』10巻
  • 『典叙』

子女[編集]

  • 劉燁(臨川哀王、は景舒、通直郎、劉劭に殺害された)
  • 劉衍(太子舎人)
  • 劉鏡(宣城郡太守)
  • 劉穎(前将軍)
  • 劉倩(南新蔡郡太守)

脚注[編集]

  1. ^ 『宋書』巻5, 文帝紀 元嘉二十一年正月戊午条による。

伝記資料[編集]

関連項目[編集]