「ウクライナの歴史」の版間の差分

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第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」といわれた。
第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」といわれた。


=== 戦後 ===
ソ連とは別に[[国際連合総会|国連総会]]の議席を持っていたが、スターリン政権下では「ロシア化」が押し進められた。ソ連が[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]政権となると大粛清の犠牲となったウクライナ人の名誉回復がされ、1954年にクリミア半島がロシアからウクライナへ移管されウクライナ的な文学も登場した。しかし、[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]政権となると再び知識人への弾圧が行われた。また、1986年の[[チェルノブイリ原発事故]]は国内外に大きな被害を与えた。[[東欧革命]]やウクライナ語の公用化によりウクライナの民族運動は激化し、1991年8月にはウクライナの独立が宣言された。

=== ソ連からの独立後 ===

2004年の[[オレンジ革命]]、2014年の[[マイダン革命]]、[[2014年クリミア危機|クリミア危機]]、[[2014年ウクライナでの親ロシア派騒乱|親ロシア派騒乱]]など親欧米派と親ロシア派の対立が高まり2022年には[[ロシアのウクライナ侵攻 (2022年)|ロシアによる全面侵攻]]に発展した。
==地図==
==地図==


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*[[1932年]]12月‐[[1933年]]3月:ソビエトのウクライナ全域とウクライナ人在住地域で人工的な大飢饉([[ホロドモール]])。
*[[1932年]]12月‐[[1933年]]3月:ソビエトのウクライナ全域とウクライナ人在住地域で人工的な大飢饉([[ホロドモール]])。
*[[1934年]][[6月24日]]:ソビエトのウクライナの首都は[[ハルキウ]]から[[キエフ]]へ移る。
*[[1934年]][[6月24日]]:ソビエトのウクライナの首都は[[ハルキウ]]から[[キエフ]]へ移る。
*[[2022年]][[2月24日]]:ロシアによるウクライナ侵攻
*[[1954年]][[2月19日]]:クリミア半島がロシアからウクライナへ移管される
*[[1986年]][[4月26日]]:[[チェルノブイリ原発事故]]発生。
*[[1991年]][[8月24日]]:ソ連より独立宣言。
*[[2004年]]11月-[[2005年]]1月:[[オレンジ革命]]。
*[[2014年]][[2月18日]]-[[2月23日|23日]]:[[マイダン革命]]による親ロシア政権打倒。
*2014年[[3月18日]]:ロシアの[[ロシアによるクリミアの併合|クリミア併合]]。
*2014年[[5月12日]]:[[ドネツク人民共和国]]・[[ルガンスク人民共和国]]の独立宣言。
*[[2021年]]3月:[[ロシア・ウクライナ危機 (2021年-2022年)|ロシア・ウクライナ危機]]の発生。
*[[2022年]][[2月21日]]:上記の二カ国をロシアが承認。
*[[2022年]][[2月24日]]:ロシアによるウクライナ侵攻開始。


==地域史==
==地域史==

2022年3月16日 (水) 09:08時点における版

この項目では、ウクライナの歴史(ウクライナのれきし)について詳述する。

先史時代・古代

先史時代

  縄文土器文化
  竪穴墓文化

現在のウクライナ人類が現れたのは旧石器時代初期、約30万年前である。原人段階の人類は中東からカフカス山脈バルカン半島を経て、黒海北岸へ移動したと考えられる。12万年前から旧人ネアンデルタール人)が登場し、4万年前に新人クロマニョン人)が出現した。ウクライナで発見された旧石器時代後期の新人遺跡は約800があり、新人の人口は約2万であったと推測される。1万年前以後、中石器時代において欧州気候が定まり、ウクライナでは北部の森林地帯、中部の森林草原地帯、南部の草原地帯といった気候地帯が成立した。それぞれの地帯において異なる文化圏も形成された。人類は弓矢を使い、動物を飼育することができた。紀元前6千年期から人類は農業を始め、土器などを作成するようになり、新石器時代に入った。ウクライナで見られる新石器時代の農耕集落跡は、東欧最古であると考えられている[1]

紀元前4千年期後半、ドニステル川ドニプロ川の間の地域では、トルィピーリャ文化Трипільська культура)が発展した。トルィピーリャ人は、定住して農耕・畜産を営み、数百人の人口を持つ大きな集落で暮らしていた。彼らがウクライナで初めてドリル加工技術を用いた人々であった。トルィピーリャ文化は東地中海文化圏に属していたと思われる。紀元前3千年期末になると、トルィピーリャ文化に変わって、青銅器時代縄文土器文化Культура шнуркової кераміки)と竪穴墓文化Ямна культура)という新たな文化が誕生した。前者は農耕文化で、中央・東ヨーロッパにも広がり、ウクライナの森林地帯・森林草原地帯までに及んでいた。後者は畜産文化で、草原地帯を中心に黒海北部から裏海北部まで拡大していた。縄文土器文化の人々はインド・ヨーロッパ語族ゲルマン人バルト人スラヴ人の祖先になったが、竪穴墓文化の担い手のウクライナ南部の遊牧民の祖先となったと推測される[1][2]

紀元前2千年期末から紀元前1千年期に、ウクライナにおける縄文土器文化はトシーネツィ・コマリーウ文化Тшинецько-комарівська культура)とビロフルーディウカ文化(Білогрудівська культура)へ移行したが、竪穴墓文化は校倉造墓文化Зрубна культура)によって入れ替わった。校倉造墓文化の人々は畜産の遊牧民で、インド・ヨーロッパ語族のイラン語派に属していた。紀元前15世紀以後、彼らからキンメリア人スキタイ人、サルマタイ人などが分かれたと考えられる[2]

キンメリア人は、ホメーロスの『オデュッセイア』を初めとする古記録・古史料で見られるウクライナの最初の民族である。ホメーロスは黒海北岸の地を「キンメリア人の地」と呼んでいる[3]。 キンメリア人は伝統的な牧蓄を行いながら、紀元前10世紀から生産技術を発展させ、周辺の地域を自らの支配下においた。紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけて、力を蓄えたキンメリア人は、小アジア半島の都市を略奪するため度々に遠征に出兵した。しかし、紀元前7世紀末期になると、キンメリア人の東に住んでいたスキタイ人はキンメリア人を黒海北岸から西方へ追い出した[1][2]

スキタイ・サルマタイ

スキタイ(ウクライナ語:Скіфи)は、紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家。 スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。 ギリシャに由来するカッリピダイの他、農耕スキタイ、農民スキタイ、遊牧スキタイ、王族スキタイ、別種スキタイ等の民族が暮らしていた。 「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、 スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けた。

中世

キエフ大公国

キエフ大公国は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。 正式な国号はルーシ(ウクライナ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。 11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。 1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ウクライナ語: алицько-Волинське князівство)は、1199年から1349年の間に現在の西ウクライナを中心として存在したリューリク朝のルーシ系国家である。 13世紀の半ば、その大公国はモンゴルの侵略を受けたキエフの公朝の後継者となり、キエフ・ルーシの政治、伝統、文化などを受け継いだ主な国家となった。その国家は、ローマ教皇をはじめ、中世ヨーロッパの諸国の援助の元に反モンゴルの先陣の役割を果たしていた。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はルーシ系の諸公国の中でもっとも大きい公国の一つであった。その領土は、現在の西ウクライナ、西ベラルーシ、東ポーランド、北東ハンガリー、モルドヴァを含めていたが、政治的・経済的・文化的中心はヴォロディームィル、ハールィチそしてリヴィウという西ウクライナの3つの都市にあった。君主の力が弱く、ボヤーレと呼ばれた貴族の影響力が非常に強かったため、国家は常に内乱に陥りやすい状態にあった。1340年に大公朝が絶えると、貴族は一時的に国を支配するようになったが、隣国の圧力に対してうまく抗することができなかった。

その後、ポーランド王国とリトアニアの諸公の軍勢によって侵略され、分割された(ハールィチ・ヴォルィーニ戦争)。 領土の帰属問題は半世紀にわたって東ヨーロッパ情勢の不安定要因だったが、1392年、最終的にハールィチ公国はポーランド王国領となり、ヴォルィーニ公国はリトアニア大公国の支配下に置かれた。

近世

近代・現代

ウクライナ人民共和国・ウクライナ国・西ウクライナ人民共和国

1917年ロシア革命を機にウクライナはいくつもの勢力が独自の政府を組織して独立を宣言したが、いずれの勢力も互いに、またペトログラートボリシェヴィキ革命政府と対立し、特に十月革命以降激しい内戦状態に陥った。これをロシア側ではロシア内戦と呼ぶ「ロシアの内戦」に包含しており、「ロシア内戦のウクライナ戦線」などと呼ばれているが、ウクライナではウクライナ内戦と呼ぶ。同時に、ボリシェヴィキとの戦闘をウクライナ・ソビエト戦争と呼ぶ。また、1918年からはポーランド・ソビエト戦争と呼ばれる戦争が始められたが、その主戦場となったのはウクライナ地方であり、第一次世界大戦時の連合国各国派遣軍やドイツ帝国軍なども加わって激しい戦闘が繰り返された。

主要な国家としては、中部ウクライナから東ウクライナにかけてウクライナ人民共和国西ウクライナ西ウクライナ人民共和国が成立した。

十月革命時の最大勢力はキエフを首都とするウクライナ中央ラーダのウクライナ人民共和国で、臨時政府派、ボリシェヴィキが続いた。第三勢力のボリシェヴィキと共同して第二勢力の臨時政府派を潰した中央ラーダは、その後ボリシェヴィキの宣戦布告を受け戦争状態に入った。1918年1月には中央ラーダは首都を追われジトーミルで体勢を立て直した。2月に中央同盟国ブレスト=リトフスク条約を締結したウクライナ人民共和国は、軍と共同してボリシェヴィキを一挙に壊滅し、クリミア半島に至る広大な領土を手にした。

4月にドイツの軍事力を背景としたヘーチマンの政変が起こされ、国号はウクライナ国に改められた。同国は安定した発展を見せたが、ドイツの連合国への降伏により自体は一転、ウクライナ国政府はディレクトーリヤ勢力に敗れ、ディレクトーリヤはウクライナ人民共和国を復活させた。

一方、西ウクライナでは、ウクライナ国民ラーダリヴィウを首都とする西ウクライナ人民共和国を成立させた。しかし、右岸ウクライナの併合を目論むポーランドとの戦争に敗れ、同共和国領はポーランドに併合された。

一方のウクライナ人民共和国もかつての勢いを取り戻すことができず、その後ウクライナは全土で内戦状態に陥った。主な勢力としては、「不可分の大ロシア」を標榜した帝政派の南ロシア軍など白軍白衛軍)、黒海より侵入し「不可分のロシア」への支持から白軍を支援したフランス軍やイギリス軍、アナキストのネストル・マフノ率いるマフノ運動と呼ばれる農民アナキズムウクライナ革命蜂起軍ベッサラビア方面に侵攻したルーマニア軍、西部より侵攻したポーランド軍、そしてロシア・ボリシェヴィキとボロチビストなどのウクライナ・ボリシェヴィキがあった。

マフノ運動は一時期、ボリシェヴィキの赤軍や白軍を放逐した。ウクライナ人民共和国は、マフノ軍や白軍との戦いで消耗し、赤軍に対抗するためポーランドと連合した。ポーランド参戦以降のウクライナの戦いをポーランド・ソビエト戦争と呼ぶことがある。しかし、ポーランドの裏切りや軍隊内での伝染病の発生によりウクライナの命運は尽きた。中央ラーダ・ディレクトーリヤの残存勢力は、国外へ逃れ亡命ウクライナ人民共和国政府を立ち上げた。

一方、ウクライナ・ボリシェヴィキは、当初はモスクワのボリシェヴィキからは独立した組織であったが、次第にモスクワの支配下に置かれるようになっていった。白軍は一時はモスクワに迫るほどの勢力を持ったが、マフノ軍との戦いによる消耗と英仏軍の干渉の失敗により赤軍に敗れた。

ウクライナの独立勢力のすべてが「反ボリシェヴィキ」で一致していたにも拘らず、互いに協力せず潰し合いとなった最大の原因は、白軍の掲げた「不可分のロシア」という政策と反社会主義思想が原因であったとされる。また、マフノ軍はアナキストでありながら主に赤軍に協力して強大な白軍勢力を漸減したことも、赤軍勝利の大きな要因であった。マフノ運動賛同者は、最終的には赤軍によって老若男女ほぼ皆殺しにされた。

1922年にかけて共産主義のロシアに対して強く抵抗したので、ソ連の政権が「ウクライナ人の問題」を解決するために、ウクライナ人が住む地域において人工的な大飢饉を促した。1933年に「ヨーロッパの穀倉」といわれたウクライナではホロドモールによって数百万人が餓死した。

内戦は最終的には1921年の白軍の壊滅により終結したが、ウクライナでは1919年ウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を結成した。当初はウクライナ政府にもある程度の意思決定権が与えられていたが、それは徐々に制限されるようになり、結局ソ連の結成によりまたもやウクライナの独立は失われることとなった。ロシアにとってウクライナはすべての産業の中心地であり、手放すわけにはいかなかった。また、内戦の終結後西部のハルィチナー地方など一部地域はポーランド領となった。ルーマニアはウクライナの一部の併合により「大ルーマニア」の夢を達成した。

ウクライナ社会主義共和国

第二次世界大戦

第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れた。その中で一時カルパト・ウクライナの独立が宣言されたが、ドイツは同盟国であるハンガリーへその領土を組み込んだ。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。

1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになった。ドイツ軍は当初「解放者」として歓迎された面もあり、ウクライナ人の警察部隊が結成された。独ソ戦では、ウクライナも激戦地となり、500万以上の死者を出した(ソ連の内務人民委員部(NKVD)はウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。

しかし、彼らの目的であるウクライナの政治的・文化的独立は、ソ連のみならずドイツ側からも弾圧された。かねてより独立活動を行ってきたウクライナ民族主義者組織 (OUN) が1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは武力でこれを押さえ込もうとした。ドイツは、「帝国管区ウクライナ」を設置しナチス親衛隊が直接統治を行うこととした。

ウクライナ人は「劣等人種」とみなされ数百万の人々が、「東方労働者」としてドイツへ送られて強制労働に従事させられた。またウクライナに住むユダヤ人はすべて絶滅の対象になった。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。なお、ユダヤ人虐殺に関しては現地の住民の協力があったことが知られている。人だけでなく、穀物や木材などの物的資源も略奪され、ウクライナは荒廃した。このドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗し、やがて1942年10月、ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成されるに至る。おもに西ウクライナにおいて、テロ活動などでドイツ軍と戦った。UPAが活動を活発化させればさせるほど、ドイツ軍もウクライナ人迫害の手を強めた。

一方でドイツ軍は、1943年春にスターリングラード攻防戦で決定的な大敗北を喫すると、自らの軍隊に「東方人」を編入させようとして、武装親衛隊(武装SS)にウクライナ人部隊「ガリツィエン師団」を創設した(この時期、武装親衛隊はウクライナ人だけでなく、多数の外国人を採用している)。ウクライナ人たちも、ドイツ支配下のウクライナの待遇が改善されること(自治・独立)を希望し、約8万人のウクライナ人が応募、そのうち1万3千人が採用された。1917年~1921年の独立革命の挫折の経験から、ウクライナ人は自分たちに、よく訓練された正規の軍隊が不足しているということを痛感していたのである。彼等はまさに「ウクライナ人」として、スターリンのソ連軍と戦う機会を与えられることになった(その一方でユダヤ人虐殺にも荷担した)。ガリツィエン師団以外にも、多くのウクライナ人が「元ソ連軍捕虜」としてドイツ軍に参加している。しかしそれらを圧倒的に上回る数のウクライナ人が「ソ連兵」としてナチス・ドイツと戦い、死んでいった。当時のソ連軍兵士1100万人のうち、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。

やがて、ドイツが敗走して再びソ連軍がやってくると、ウクライナ蜂起軍(UPA)は破滅的な運命をたどる。彼等は今度はソ連軍に対するテロ活動を開始し、それだけでなくガリツィア地方のポーランド人、ユダヤ人の大量虐殺を行った。家は次々に焼き討ちにし、ときには虐殺に反対した同朋のウクライナ人をもいっしょに殺害した(出典?)。このようなUPAのテロ活動は1950年代まで続いた。戦後、ソ連はポーランドやチェコスロヴァキアと共同軍事行動をUPAにたいして起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。戦後まもなくの東欧は、新しく引きなおされた国境線にしたがって大量の人々が無理やり移住させられる時期だった。ウクライナでも、ポーランドなどから追い出されたウクライナ人が大量に国内へ流入する一方で、多くの国内のポーランド人、ユダヤ人は国外へ強制退去させられ、国内からほとんど姿を消してしまったのだった。

ウクライナは第二次世界大戦において最も激しい戦場になったとされ、その傷跡は今日にまで各地に残されている。ドイツ空軍機による破壊は文化財にもおよび、多くの歴史的建造物が失われた。ソ連政府は、ウクライナ人への懐柔策として「南方戦線」と呼ばれていたこの地域の戦線を「ウクライナ戦線」と命名し、ウクライナ人を前線へ投入した。

第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は旧ポーランド領であったハリチナー地方などを併合して西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」といわれた。

戦後 

ソ連とは別に国連総会の議席を持っていたが、スターリン政権下では「ロシア化」が押し進められた。ソ連がフルシチョフ政権となると大粛清の犠牲となったウクライナ人の名誉回復がされ、1954年にクリミア半島がロシアからウクライナへ移管されウクライナ的な文学も登場した。しかし、ブレジネフ政権となると再び知識人への弾圧が行われた。また、1986年のチェルノブイリ原発事故は国内外に大きな被害を与えた。東欧革命やウクライナ語の公用化によりウクライナの民族運動は激化し、1991年8月にはウクライナの独立が宣言された。

ソ連からの独立後

2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命クリミア危機親ロシア派騒乱など親欧米派と親ロシア派の対立が高まり2022年にはロシアによる全面侵攻に発展した。

地図

年表

現代

地域史

西部 中部 東部・南部
ザカルパッチャ ブコビナ ガリツィア ヴォルィーニ ポジーリャ キエフ チェルニーヒウ シヴェーリア ポルターヴァ ザポロージャ スロボダ アゾフ海沿岸 オデーサ ブジャク クリミア
8 BC トラキア人 スキタイ ギリシア人
5 BC サルマタイ人
100 ゴート人 ボスポロス
200 フン人 ギリシア人
400 スラヴ人 アヴァール人
800 東スラヴ人 カザール人
900 キエフ・ルーシ(キエフ大公国) ペチェネグ人
1000
1100 ハンガリー チェルニーヒウ公国 ペレヤースラウ公国 クマン人
1200 ハールィチ・ヴォルィーニ大公国 キエフ公国
1250 金帳汗国
1300
1350 ハンガリー
1400 モルドヴァ ポーランド リトアニア モスクワ ゴート公国
1450 クリミア汗国
1500 モスクワ
1550 七城国 ポーランド・リトアニア共和国
1600
1650 コサック人(ヘーチマン国家 オスマン帝国
1700
1775
1800 オーストリア=ハンガリー帝国 ロシア帝国
1900
1917 ČSR 西ウクライナ共和国 ウクライナ人民共和国 (1917 — 1920), ウクライナ国 (1918) クリミア
1922 ソ連 (ウクライナ社会主義共和国)
1939
1991 ウクライナ

脚注

  1. ^ a b c Subtelny O. Ukraine : a history. - Toronto ; London : University of Toronto Press in association with the Canadian Institute of Ukrainian Studies, 1988.
  2. ^ a b c Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця XVIII століття. - Київ: Генеза, 1997.
  3. ^ 黒川祐次 2002年 2ページ

参考文献

  • (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
  • (日本語) 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
  • (ウクライナ語) Яковенко Н. Нарис історії України з найдавніших часів до кінця XVIII століття. - Київ: Генеза, 1997. - ISBN 9665040219
  • (英語) Subtelny O. Ukraine : a history. - Toronto ; London : University of Toronto Press in association with the Canadian Institute of Ukrainian Studies, 1988. ISBN 0802067751

外部リンク