「川辺馬車鉄道」の版間の差分

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ところが、川辺馬車鉄道の設立者たちは1889年(明治22年)4月に神崎-伊丹-篠山-福知山-舞鶴間を結ぶ[[摂丹鉄道]]の設立を出願した。これは川辺馬車鉄道を延長し、蒸気鉄道に変更する計画であった。摂丹鉄道は同年10月に却下されるが、川辺馬車鉄道は将来の延長・蒸気化による幹線鉄道への脱皮を見越して計画の変更を行っている。まず同年6月に線路を専用路線敷を用いることにし、現在の[[福知山線]]塚口駅-伊丹駅間に見られるような直線的な線形に変更した。また「待合所」を取りやめ、すべてを「停車場」とし、全停車場に駅舎を建設することにした。さらに[[1890年]](明治23年)10月に軌間を[[私設鉄道法|私設鉄道条例]]に則って3フィート6インチ(1067mm)に変更した。これらの設備は当時の馬車鉄道としては異例のものだった。
 
[[1891年]](明治24年)2月に起工、[[7月24日]]に大物-長洲間が仮開通し、7月中には尼ヶ崎(後の[[尼崎港駅|尼崎港]])まで)-大物間も開通する。その後、運行距離を伸ばし、同年9月6日には、郡庁所在地の伊丹まで開通した。官線([[東海道本線]])との乗換駅となる長洲駅付近では、官線と直角[[平面交差]]になっていた。路線計画では、伊丹停車場から2又に分かれ、生瀬、小戸(旧:摂津鉄道の川西池田駅)へと向かう計画線となっていたが、伊丹から先は、川辺馬車鉄道時代には実現していない。
 
[[専用軌道]]で構成された贅沢な馬車鉄道であったため、後の軽便鉄道([[摂津鉄道]])への変更は容易に行うことができた。尼停車場(尼崎港)-大物間で市街地を避けるため[[尼崎城]]内に線路が敷設されたが、城内の南浜・四角堀跡・西三之丸またがって設置された尼ヶ崎停車場を出て一度カーブした後は、北東端へ向けて一直線に城内を縦断している
 
[[馬車鉄道]]は、汽車を走らせるまでの資本力が無くても設立可能なため、川辺馬車鉄道を尼崎や伊丹の地元の名士が設立することとなる。しかし、馬車鉄道では輸送力が小さく、開業当初から輸送需要に応えきれないものとなっていた。貨車も保有し貨物も取り扱っていたが、業績にムラがあり安定した営業となっておらず、馬車鉄道の形態では限界があった。結果、蒸気動力を用いた軽便鉄道としての「摂津鉄道建設願いならびに会社定款」を川辺馬車鉄道の名前で[[1892年]](明治25年)[[6月30日]]提出<ref name="itamishishi5p424">伊丹市史第5巻p424 (1970)</ref>。当時は法律整備がされていないために、川辺馬車鉄道を解散し、別会社として摂津鉄道が設立されることになったのである。摂津鉄道の認可は同年12月27日に得られた<ref name="amagasakishishi7p697">摂津鉄道敷設免許状|尼崎市史第7巻p697 (1976)</ref>。摂津鉄道は軽便鉄道で、軌間が762mmであったため、翌[[1893年]](明治26年)から改軌工事が行われた。同年10月28日より尼ヶ崎駅-賀茂(川西市)間で試運転を行っており、この時点で、川辺馬車鉄道は名実ともに廃止されたと考えられる。摂津鉄道の路線は、川辺馬車鉄道時代の路線計画にあった小戸(川西)まで延長された。川辺馬車鉄道関係者による[[摂丹鉄道]]の出願も並行して行っており、そちらは「[[阪鶴鉄道]]」への布石となる。

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