「天ヶ城」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
加筆
(→‎概要: 微修正)
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
(加筆)
|build_y =不明
|revamp =
|rulers =[[伊東氏]]([[野村松綱]]・野村文綱)、[[島津氏]]([[比志島国貞]])
|reject_y =[[1615年]](元和元年)
|remains = 曲輪、空堀<ref name=kenkyoui1998>宮崎県教育庁文化課 1998 p.18</ref>
 
== 概要 ==
かつて「久津良[[名 (単位)|名]](くつらみょう)」と呼ばれた旧高岡町中心街の北東に位置する[[丘陵]]上に立地し、[[遺構]]は破壊を受けているが、本丸・二の丸など大きく6つの[[曲輪]]群で構成されていた<ref name=kenkyoui1999>宮崎県教育庁文化課 1999 p.121</ref>。また[[日向伊東氏]]の[[伊東四十八城]]であった当時は「内山城」と呼ばれていた。[[1577年]]([[天正]]5年)末城主・野村氏が伊東氏から[[造反]]すると([[伊東義祐#伊東崩れ|伊東崩れ]])、[[島津氏]]が当地を掌握する。
 
[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]以後、支配地域東端部の防衛を重要視した島津氏当主・[[島津義弘]]は、当城を「天ヶ城」と改名して[[比志島国貞]]を[[地頭]]に任命し、防衛にあたらせた。また山麓に島津氏ゆかりの地域からの武士730余戸を集住させたが<ref name=kenkyoui1999/>、これが[[薩摩藩|薩摩]][[外城制]]における高岡郷の起源となった。この後、[[1615年]](元和元年)の[[一国一城令]]により廃城となり、防城の武士たちは高岡の街に移り住んだ<ref name=Miyazakicity/>。高岡の麓(ふもと)地区には現在も武家屋敷の門や石垣など、当時の街並みが残されている<ref>[https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/city/policy/landscape/673.html 「高岡天ヶ城麓地区のまちづくり」]宮崎市公式HP</ref>。

案内メニュー