「ジョージ・アダムス・リーランド」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
m
編集の要約なし
m
'''ジョージ・アダムス・リーランド'''(George Adams Leland、[[1850年]]-[[1924年]])は[[アメリカ]]の[[医師]]、[[教育者]]。[[1878年]]([[明治]]11年)9月日本政府の招聘によって来日し、[[1881年]](明治14年)7月の離日まで[[体操伝習所]]教授として学校体操の指導者養成に尽力した。
 
1850年[[ボストン]]に生まれる。[[アマースト大学]]を経て[[1874年]][[ハーバード大学]]医学部に入学。[[1878年]]医学博士となった。しかしここで一旦医学を離れることとなる。
 
これより先の[[1872年]]、札幌農学校の[[ウィリアム・スミス・クラーク|クラーク博士]]の紹介でアマースト大学を訪れた日本の文部大丞[[田中不二麿]]が体操場を見学した。[[エドワード・ヒッチコック]]博士、[[ユリウス・ハーレー・シーリー]]博士と面談した田中はここでの体操教育に深く感銘し、日本の学校でもアマースト式の体操を課そうと決意する。[[1876年]]、[[フィラデルフィア]]での博覧会視察のため再度訪米すると、学長となっていたシーリーに対し体操教師招聘の交渉を行った。その結果適任者として推薦されたのがリーランドだった。
 
リーランドは1878年(明治11年)9月6日に来日するとまず各地の学校を視察し、日本の学校体操は軍隊式の操錬の影響が強いと指摘した。同年10月には体操伝習所の開設が決裁され、初代主幹に[[伊沢修二]]が任命される。教授内容については当時アマースト大学で行われていた2種類の体操、器械を使った[[ドイツ体操]]いわゆる「重体操」と、[[ダイオ・ルイス]]が1860年に発表した女性・少年向けの「軽体操」のうち、日本の学校には軽体操が適すると判断した。翌年には軽体操で用いられる唖鈴([[鉄アレイ]])・球竿・棍棒・木環のほか、[[クロッケー]]・[[クリケット]]・[[ベースボール]]用具1式、握力器・胸囲巻尺・身長測器なども準備された。[[1879年]](明治12年)4月7日、体操伝習所に第1期給費生25名が入学。そのうちの21名が2年後の1881年(明治14年)7月24日に卒業した。主に財政上の理由で契約が更新されなかったため、リーランドは同年7月31日付けで離職。日本を後にした。
 
その後の体操伝習所は[[1886年]](明治19年)4月に廃止され、[[高等師範学校]]体操専修科に引き継がれた。軽体操はリーランドの通訳を努め自ら体操家となった[[坪井玄道]]によりその理論が構築され、「[[兵式体操]]」に対して「[[普通体操]]」と呼ばれるようになる。普通体操は1900年頃の[[スウェーデン体操]]の登場まで、学校体育の主たる形式としての地位を保った。
 
離日後のリーランドはヨーロッパで咽喉学、耳学の研究に専念した。1882年10月帰国。翌年のボストン[[YMCA]]体育館の医務責任者から医学の道を着実に進み、1912年米国咽喉学会会長就任。1914年ダートマス医学校咽喉科名誉教授となる。1919年日本政府から勲四等章を受章。1924年没。
898

回編集

案内メニュー