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***[[奈良華族]] - 旧[[公家]]の分家で[[興福寺]]の[[僧侶]]になったが、維新後に[[勅令]]で[[還俗]]して華族に列していた家は俗称でこう呼ばれた<ref name="daijirin">[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%8F%AF%E6%97%8F-589970#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版 奈良華族 (コトバンク)]</ref>。彼らも明治以降の華族の分家として男爵位を与えられた。旧公家華族自体貧しい家が多かったが、その分家である奈良華族はさらに貧しい家が多く、明治45年に制定された男爵華族救恤資金(年間300円の援助)の対象は主に奈良華族だった{{sfn|浅見雅男|1994|pp=57-58}}。
***:'''{{Ruby|[[粟田口家]]|あわたぐち}}'''([[葉室家|葉室伯爵家]]分家)、'''[[今園家]]'''([[芝山家|芝山子爵家]]分家)、'''{{Ruby|[[太秦家]]|うずまさ}}'''([[桜井家|桜井子爵家]]分家)、'''[[梶野家]]'''([[石井家|石井子爵家]]分家)、'''[[河辺家 (奈良華族)|河辺家]]'''([[油小路家|油小路伯爵家]]分家)、'''[[北大路家]]'''([[阿野家|阿野子爵家]]分家)、'''[[北河原家]]'''([[室町家|室町伯爵家]]分家)、'''[[小松行正|小松家]]'''([[石井家|石井子爵家]]分家)、'''{{Ruby|[[相楽家]]|さがら}}'''([[富小路家|富小路子爵家]]分家。1943年継承者欠く)、'''[[鷺原家]]'''([[甘露寺家|甘露寺伯爵家]]分家。1888年返上)、'''[[鹿園家]]'''([[三条家|三条公爵家]]分家)、'''[[芝小路家]]'''([[芝山家|芝山子爵家]]分家)、'''[[芝亭家]]'''([[裏辻家|裏辻子爵家]]分家)、'''{{Ruby|[[杉渓言長|杉渓家]]|すぎたに}}'''([[山科家|山科伯爵家]]分家)、'''[[竹園家]]'''([[甘露寺家|甘露寺伯爵家]]分家。1899年返上)、'''[[中尾家]]'''([[勧修寺家|勧修寺伯爵家]]分家)、'''[[中川興長|中川家]]'''([[甘露寺家|甘露寺伯爵家]]分家。1887年返上)、'''{{Ruby|[[西五辻文仲|西五辻家]]|にしいつつじ}}'''([[五辻家|五辻子爵家]]分家)、'''[[藤枝雅之|藤枝家]]'''([[飛鳥井家|飛鳥井伯爵家]]分家)、'''[[藤大路家]]'''([[堀河家|堀河子爵家]]分家)、'''{{Ruby|[[穂穙家]]|ほづみ}}'''([[坊城家|坊城伯爵家]]分家)、'''[[松林家]]'''([[上冷泉家|上冷泉伯爵家]]分家)、'''[[松殿家#松園家|松園家]]'''([[二条家|二条公爵家]]分家)、'''[[南光利|南家]]'''([[広橋家|広橋伯爵家]]分家)、'''[[南岩倉具威|南岩倉家]]'''([[岩倉家|岩倉公爵家]]分家)、'''{{Ruby|[[水谷川家]]|みやがわ}}'''([[近衛家|近衛公爵家]]分家)
**旧[[地下家]]だった華族(2家) - 基本的に地下家は士族になっていたが、'''[[押小路家#地下の押小路家(中原氏流)|押小路家]]'''と'''{{Ruby|[[壬生家#壬生家(小槻姓)|壬生家]]|みぶ}}'''は地下家の中でも家格が高く、他の地下の官人たちを統括し(それぞれ「大外記、官務」と呼ばれた)、官位も三位まで登る「准公卿」的存在だったため特別に華族に列していた{{sfn|浅見雅男|1994|p=43}}。しかし旧公卿の華族たちとは区別され「一新後華族二列セラレタル者」として男爵に叙された。押小路家と壬生家の華族取り立てを見て自分たちにも資格があると華族取り立て運動を行った旧地下家の士族([[地下家の一覧|藤島家や細川家]]など)もあったが、結局押小路家と壬生家以外には華族の地位は認められなかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=43}}(旧地下家で勲功によって華族になった家はある)。
**旧[[交代寄合]]だった旧大名華族(6家) - 江戸時代に交代寄合だった家のうち以下の6家は、1868年(慶応4年・明治元年)6月20日から11月20日の間に戊辰戦争で官軍に協力した功績で加増されたり、「高直し」で石高が万石以上になったことを政府に申告して認めてもらったことなどにより大名として立藩して華族に列していた{{sfn|浅見雅男|1994|p=37-38}}{{#tag:ref|交代寄合ではないが、[[高家]]旗本の[[大沢家]]も3550石(実高5485石)の家禄を1万6石に「高直し」したことを政府に申告して[[堀江藩]]を立藩し華族に列していたが、明治4年に大沢家が増えたと主張していた4521石は[[浜名湖]]の水面だったことが発覚。大沢家は「浜名湖では魚が採れる」と弁明したが、認められず同年11月29日に華族の身分を剥奪されて士族に落とされ、当主[[大沢基寿]]は禁固1年、関与した3人の家臣が禁固1年半に処された{{sfn|浅見雅男|1994|p=39}}。|group="注釈"}}。しかし彼らは江戸時代から大名だった家とは区別されて「一新後華族二列セラレタル者」として男爵位を与えられた。数字は江戸時代の交代寄合としての家禄と立藩した後の藩名と家禄である。