「アルクィン」の版間の差分

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小見出し変更、xl加筆などと、61.22.97.179さんの2017年9月23日 (土) 13:13(UTC)の編集を戻す。(理由)アルクィンが学問を施した782-790年に、カール・マルテルの子である小ピピン(714-768年)は、存命していないので、リンクの通りカール大帝の子のイタリアのピピンと判断する。なお、異母兄の傴僂のピピン(c. 768-811年)の可能性は、次の資料を参照して除く。https://www.bartleby.com/library/prose/132.html, https://www.bartleby.com/library/prose/134.html
(小見出し変更、xl加筆などと、61.22.97.179さんの2017年9月23日 (土) 13:13(UTC)の編集を戻す。(理由)アルクィンが学問を施した782-790年に、カール・マルテルの子である小ピピン(714-768年)は、存命していないので、リンクの通りカール大帝の子のイタリアのピピンと判断する。なお、異母兄の傴僂のピピン(c. 768-811年)の可能性は、次の資料を参照して除く。https://www.bartleby.com/library/prose/132.html, https://www.bartleby.com/library/prose/134.html)
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'''アルクィン'''('''Alcuin'''、[[735年]]? - [[804年]][[5月19日]])は、[[イングランド]][[ブリテン島]]の[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]出身の[[修道士]]、[[神学者]]。長年ヨークにある学校の教師として勤めたのち、[[カール大帝]]の[[フランク王国]]の教会制度と教育制度の相談役を務めた。[[769年]]からはトゥールの司教となり、聖[[トゥールのマルティヌス|マルティヌス]](サン・マルタン)修道院院長で、[[カロリング朝ルネサンス]]を代表する人物である<ref>カロリング朝ルネサンスは主に3つの期間に分けられる。第1期は、宮廷にアルクィンが到来するまでの、イタリア人が枢要な地位を占めた期間。第2期は、アルクィンおよび[[アングロ・サクソン人]]が支配的な期間。第3期は、[[804年]]から始まる[[西ゴート族]]のテオドゥルフ(Theodulf)の影響が優勢だった期間である。</ref>。
 
== 略歴人物・生涯 ==
アルクィンは[[アングロ・サクソン人]]である。
 
また、彼は[[イタリア]]北部の[[パルマ]]で[[カール大帝]]と会った。カール大帝はアルクィンを説得してアーヘンの宮廷に招き、彼に[[フェリエール]](Ferrieres)とフランス北部の[[トロワ]](Troyes)の聖ループの修道院を与えた。
 
=== フランク王国にて ===
[[782年]]から[[790年]]まで、アルクィンは[[フランク王国]]の宮廷学校で、王や家族、学問のため集まった若者、および宮廷礼拝堂の若い聖職者に教えた。[[ピピン (イタリア王)|ピピン]](カール・マルテル大帝の子)とアルクィンの対話の中に、彼らが行った学問の例が見られる。教育改良運動に関して残っている1つの資料は、アルクィンが書いたカール大帝の回状''De Litteris Colendis''(''On the Study of Letters'')である。
 
[[790年]]、アルクィンはイングランドへ戻ったが、カール大帝は北スペインに勢力を持っている[[養子的キリスト論]](養子論)に対抗するため、再びアルクィンを招いた。その頃、トレド大司教のエリバントゥスと[[ウルヘル]](Urgel)の司教フェリックスが、イエスは人間で神の養子になったという、[[異端]]説を唱えていた。[[794年]]の[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]教会会議では、アルクィンが正統の主張により勝利した。<!--正統の主張を支持したのでスペインの都市[[ウルヘル]](''Urgel'')の異端派指導者フェリックスの非難を受けた。--->
 
=== 晩年 ===
その後、再びイングランドへ戻ったが、[[エゼルレッド (ウェセックス王)|エゼルレッド王]]の死([[796年]])につながることとなった騒乱のために、イングランドを離れる。カール大帝はトゥールにあるサン・マルタン修道院を与え、アルクィンは晩年までそこで過ごした。
 
アルクィンは修道院学校(abbey school)を優れたモデルにし、多くの学生がそこに集まった。そして、彼は非常に美しい多数の写本を書いた。さらに、彼は修道院で多くの畏敬な修道士を育て上げた。こうした仕事の最中に亡くなった。
 
== カール大帝とアルクイン ==
[[アルクイン]]はカール大帝の宗教政策を中心とした問題についての、最も有力な助言者の一人であった。
 
[[799年]]にアルクインがカール大帝にあてた有名な書簡では、教皇・ビザンツ皇帝がいずれも堕落しているのに対し、カール大帝のフランク王国のみが正しいキリスト教君主であるとした。そのすぐあとに出された書簡では、アルクインはカールのフランク王国を「キリスト教帝国 ("''Imperium Christianum''")」と呼び、カールの王権を全キリスト教共同体を覆うものとしている。このアルクインのいう「キリスト教帝国」は[[800年]]のカール大帝の戴冠で劇的に現実化した。アルクインは[[両剣論]]を取り上げ、カール大帝が世俗の剣も霊的な剣もともに神から授かったとして教権に対する帝権の優位を説いた<ref>ハンス・シュルツェ『西欧中世史事典II』p.248。</ref>。
 
== 著作 ==
アルクィンは[[ラテン語]]の知識をフランク王国に伝えた。彼の多くの業績は''De Litteris Colendis''をはじめとして現在も残されている。
 
=== 教育書 ===
その他の業績として、彼が仕事で使用していた[[文法]]および[[修辞]]と[[論理的推論]]の教育におけるいくつかの手引き書がある。それらは、対話の形式で書かれており、最後の対話者はカール大帝とアルクィンである。
 
=== 神学書 ===
また、彼は''treatise de Fide Trinitatis''、[[聖書]]の注釈など、いくつかの神学の論文を書いた。
 
=== 書簡 ===
彼は、イングランドの友人や、ザルツブルクの司教のアルノー(彼もまたカール大帝の助言者の一人であった。)、またカール大帝に多くの手紙を書いた。手紙は311通は現存している。主に敬虔な黙想録で満たされるが、当時の文学と社会状況がよくうかがえるもので、[[カロリング朝]]の人文主義の歴史に対する最も信頼できる資料である。
 
カール大帝が[[795年]]教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]が選出された際に送った外交書簡はアルクインの手になるものと考えられている<ref>ハンス・シュルツェ『西欧中世史事典II』p.136、{{Harvnb|五十嵐修|2001|pp=151-153}}</ref>。この書簡は、キリスト教のための戦争、信仰の擁護などをフランク国王の職務と述べ、ローマ教皇の職務は祈りを通じて国王を補佐することであると述べている。
 
=== ===
''Fortunatus''様式で書かれたいくつかの優雅な手紙に加えて、彼はいくつかの長編詩およびヨークの教会の詩の全体の歴史を書いた。例えば、''Versus de patribus''や''regibus et sanctis Eboracensis ecclesiae''である。
 
== その他 ==
なお、[[ヨーク大学]]のアルクィン・カレッジは彼に由来する。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
*[[鈴木宣明 ]]『福音に生きる』 聖母の騎士社<聖母文庫>、1994年。
*[[ハンス・K・シュルツェ ]]著、[[五十嵐修 ]]ほか訳『西欧中世史事典II』ミネルヴァ書房、2003年。
*五十嵐修 『地上の夢キリスト教帝国 : カール大帝の「ヨーロッパ」』 講談社〈講談社選書メチエ, 224〉、2001年
 
== 外部リンク ==
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*{{kotobank}}
*[https://www.bartleby.com/library/prose/132.html Alcuin (735-804). Critical and Biographical Introduction by William Henry Carpenter (1853-1936). Warner, et al., comp. 1917. The Library of the World's Best Literature]{{en icon}}
 
{{Normdaten}}

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