「阿部信行」の版間の差分

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|親族(政治家) = [[稲田正純]](娘婿)<br />[[井上成美]](相婿)
|配偶者 = 阿部ミツ
|子女 = [[阿部信弘]](次男)
|サイン = AbeN kao.png
|国旗 = JPN
==概要==
[[ファイル:Abe Nobuyuki.jpg|thumb|left|200px|軍装を着用した阿部]]
[[石川県]][[金沢市]]生まれ。父は旧[[加賀藩|金沢藩]]士・阿部信満<ref name=":0">[[秦郁彦]] 編著 『日本陸海軍総合事典(第2版)』 p.4, 「阿部信行」</ref>。[[東京府立第一中学校|東京府尋常中学校]]を経て、[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]]に進むも中退し、陸軍士官学校に進んで陸軍[[砲兵]]将校となる。陸軍少将として[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]総務部長、[[陸軍省]][[軍務局|軍務局長]]の要職を務め、陸軍中将として陸軍[[次官]]、[[第4師団 (日本軍)|第4師団]]長、[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]]司令官を歴任して陸軍大将に親任され、[[軍事参議院|軍事参議官]]に転じた後の[[1936年]](昭和11年)3月、[[二・二六事件]]後の粛軍よりほとんどの陸軍大将が[[予備役]]に編入された際に阿部も予備役となる。[[1939年]](昭和14年)6月には[[東亜同文会]]理事長に就任している。
 
1939年(昭和14年)[[8月30日]]に[[内閣総理大臣]]に就任した。当初は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を兼任。同郷者が多い[[阿部内閣]]は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれ、また、[[畑俊六]]、[[伍堂卓雄]]、[[塩野季彦]]派の[[宮城長五郎]]の入閣等から当時の[[読売新聞]]紙上では「一中内閣」と持て囃された<ref>[[読売新聞]] 1939年(昭和14年)12月8日 朝刊7面。ちなみに、同新聞コラムでは、学歴で政治をするのではないし・・等と多少皮肉めいて論じている。</ref>。阿部内閣発足の2日後、[[9月1日]]には[[第二次世界大戦]]が勃発した。阿部は、[[ドイツ]]との[[日独伊三国軍事同盟|軍事同盟]]締結は米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げた。陸軍の反対もあり、翌[[1940年]](昭和15年)[[1月15日]]に内閣総理大臣を辞した。
 
その後、[[1942年]](昭和17年)4月30日に実施された[[翼賛選挙]]を前に結成された[[翼賛政治体制協議会]]の会長に就任。5月20日に結成された[[翼賛政治会]]でも引き続き会長を務めた。12月には東亜同文会副会長に就任する。
戦後、[[A級戦犯]]容疑で逮捕されるが、[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)開廷直前になって突如[[起訴]]予定者のリストから外されたといわれており、同裁判を巡る謎の一つとされている。[[公職追放]]となり<ref>『朝日新聞』1946年10月6日一面</ref>、[[1952年]](昭和27年)追放解除される<ref>『朝日新聞』1952年3月24日夕刊一面</ref>。翌[[1953年]](昭和28年)死去。享年77。
==朝鮮半島における誤解==
日本や中国など[[漢字圏]]では誤解しようがないが、日本統治時代の最後の朝鮮総督だった'''阿部'''信行、反日感情が強く、漢字教育を廃した[[大韓民国|韓国]]を含む朝鮮半島では学者や文化人などにまで、安倍[[平成]]・[[令和]]年間に首相を務めた'''安倍'''晋三の祖父と広く誤解されているが、漢字の通り、血縁はない<ref>{{Cite web|title=【外信コラム】ソウルからヨボセヨ 「アベ違い」の大誤解|url=https://www.sankei.com/article/20150502-AYPNMJZ4CBKEZN2LRVDN22WSAY/|website=産経ニュース|date=2015-05-02|accessdate=2021-06-21|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。なお、実際の[[安倍晋三]]の父方の祖父である[[安倍寛]]は、阿部信行が翼賛政治体制協議会会長として戦った翼賛選挙では非推薦で出馬し当選している
 
== 親類 ==

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