「了法寺 (山口県田布施町)」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1657年]]([[明暦]]3年)、[[周防国]][[大島郡 (山口県)|大嶋郡]][[久賀町|久賀村]]にあった寺が買い取られ<ref name="周防國風土記">{{Cite book|和書|title=周防国風土記 273巻|publisher=[[国立国会図書館]]|volume=[73]|doi=10.11501/2560872||chapter=熊毛宰判周防国熊毛郡風土記 拾六 熊毛郡熊毛御宰判之内 宿井吉井両村|page=131}}</ref>、かつての周防国吉井村<ref>{{Cite book|和書|author=山口県地方史学会|title=防長地下上申|date=1978-12-01|publisher=[[マツノ書店]]|volume=第1巻|ncid=BN01696868|oclc=674168109|doi=10.11501/9574198|page=572}}</ref>、現在の地に建てられた。引寺前の[[開山_(仏教)#開基|開基]]、二世は不祥とされるが、三世は了休、四世は了慶である<ref name="防長寺社由来">{{Cite book|和書|author=[[山口県文書館]]|title=防長寺社由来|date=1982-10-20|publisher=山口県文書館|volume=第2巻|ncid=BN0810014X|oclc=33584993|pages=124頁,173頁}}</ref>。しかし、防長寺社由来に記された4世の了慶が、周防國風土記では開基と記載されている<ref name="周防國風土記" /><ref name="防長寺社由来" />。久賀村から吉井村に移築したことに因んだ縁起のようである。了慶の俗姓は、橘家の一門、簾坂又三郎重行である<ref name="了法寺蔵書">了法寺蔵書{{要ページ番号|date=2021年4月}}</ref>。十世・仁諦の時、[[明治維新|明治新政府]]の発した[[平民苗字必称義務令]]により、仁諦は了慶の俗姓である簾坂姓を名乗り、簾坂仁諦と届け出た<ref name="了法寺蔵書" />。その後、簾坂仁済、簾坂鐵洲、簾坂蘇法、簾坂妙光、田中法子(旧姓・簾坂法子)ら子孫が、了慶以降のあとを継ぎ、現代まで代を重ねている。
 
了慶は、[[1629年]]([[寛永]]6年)11月、京都の[[西本願寺|龍谷山本願寺]]十二世門主・[[准如|准如上人]]の元へ年若くして弟子入りした<ref name="了法寺蔵書" />。そこで周防国波野村から上京していた[[専福寺 (山口県田布施町)|専福寺]]の跡取り、後の二世・宗順と知己を得て、修行後、専福寺の修行僧となるべく、周防国へ下向した<ref name="専福寺蔵書">専福寺蔵書{{要ページ番号|date=2021年4月}}</ref>。
 
その頃を知る近隣住民の家内の話が周防国風土記に残されている<ref name="周防國風土記" />。この古書は、[[1832年]]の頃、定められた雛型に沿って村の明細を庄屋が申告し、藩が編纂したものであり、社寺についても記されている。それによると、開基の俗姓は簾坂孫三郎、引寺された年は[[1703年]]([[元禄]]16年)とある。また同書に専福寺についての記載もある。専福寺の開基である宗慶の俗名は簾坂何某と記されている<ref name="周防國風土記" /><ref>{{Cite book|和書|author=山口県文書館|title=防長風土注進案|date=1962-12-10|publisher=[[山口県立山口図書館]]|volume=第5巻 上関宰判 上|ncid=BN04036129|oclc=673804868|doi=10.11501/2990891|page=235}}</ref>。専福寺の修行僧であった了慶と専福寺住職の宗慶の俗姓を取り違えた記載のようである。開基了慶の俗姓を簾坂孫三郎と誤り、了法寺の買い取られた年も50年近く誤って記載されている。伝聞による調査が100年以上の時を経て行われたことによる瑕疵のようである。しかし、了慶と隣村の専福寺開基宗慶や二世宗順との関係を裏付ける史料でもある。専福寺の院主宗慶の下で了慶が過ごしたとされる期間は、寛永年間から明暦3年までの20数年と比定され<ref name="防長寺社由来" />、この間、了慶は、宗慶、後の二世宗順、後の三世玄知、後の四世賢秀らと共に専福寺の僧房で過ごしている。その後、了慶は、専福寺の宗慶が亡くなった年の1657年(明暦3年)に長門國萩町城下の草刈り重郎エ門の娘、後の妙勝大姉と縁付き、佛照山了法寺を買い取り、相続している<ref name="了法寺蔵書" />。因みに、その翌年の1658年(明暦4年)に専福寺二世の宗順が遷化、1661年(寛文元年)には専福寺三世の玄知、1670年(寛文10年)には専福寺の四世賢秀が遷化している<ref name="防長寺社由来" />。了慶は1679年(延宝7年)に了法寺の開基として遷化、その後、1667年(寛文7年)に生誕した但髄が二世として寺の跡を継いでいる<ref name="了法寺蔵書" />。
 
江戸時代における了法寺と専福寺の関係は、了法寺の開基である了慶が専福寺の修行僧であったこと、また宗慶遷化の前年に了法寺が大嶋郡から専福寺に近い隣村の吉井村へ買い取って相続されたこと、さらには了法寺六世湛水の代に専福寺六世宗碵の娘オウタが湛水のもとへ嫁いでいることなどから、両寺の関係は密なものであり、また縁続きでもあった<ref name="了法寺蔵書" /><ref name="専福寺蔵書" />。

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