「村井顕八」の版間の差分

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'''村井 顕八'''(むらい けんぱち、或いは むらい あきらはち<ref>[http://www.kwoon.org/viewtopic.php?f=10&t=3957 フランス語サイトに於ける日本の代表的な武道家十六名]</ref>、明治22年(1889年)11月8日?‐没年不明)は、[[北海道]]出身の[[柔道家]](最終[[段級位制#柔道|段位]]は八段)、後に[[八光流柔術]]に転じ師範となった。
 
== 経歴 ==
旧制中学在学中に柔道参段を取得。[[明治]]末期、村井が[[北海道小樽商業高等商業学校]]の生徒だった時期、同校の柔道部に所属する傍ら柔道場を開き指導していた。この頃、『[[小樽新聞]]』と『[[北海タイムス]]』に掲載された[[武田惣角]]の対談記事の中で、柔道を貶す発言が記されていたのを読み、[[札幌]]の惣角の宿泊先に行って詰問した。その場でも惣角が柔道を侮る発言をしたため惣角と試合をおこない、前絞めで上から惣角を絞め落とした。惣角は顕八戦以降、肌身離さず体中に武器を携帯するようになり、家族にもみだりに体を触らせることはなかったという。
 
その後、[[講道館]]に移った村井は[[三船久蔵]](村井・三船とも当時は五段)と試合をおこない、これも首絞めで勝ったという。

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