「阿部正弘」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
m (Botによる: {{Normdaten}}を追加)
[[安政]]2年([[1855年]])、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の[[松平乗全]]、[[松平忠固|松平忠優]]を[[8月4日_(旧暦)|8月4日]]([[9月14日]])に老中より罷免したことが、開国派であった[[井伊直弼]]らの怒りを買い(ただし、その原因を正弘の人事・政策に対する親藩・譜代大名の反発と見る考えもある)、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の[[堀田正睦]]を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。
 
こうした中、正弘は江川英龍、[[勝海舟]]、[[大久保一翁|大久保忠寛]]、[[永井尚志]]、[[高島秋帆]]らを登用して海防の強化に努め、[[講武所]]や[[長崎海軍伝習所]]、[[蕃書調所|洋学所]]などを創設した。後に[[講武所]]は[[日本陸軍]]、[[長崎海軍伝習所]]は[[日本海軍]]、[[蕃書調所|洋学所]]は[[東京大学]]の前身となる。また、西洋砲術の推進、[[大船建造の禁]]の緩和など幕政改革([[安政の改革]])に取り組んだ。
 
安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま[[江戸]]で急死した。[[享年]]39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の[[阿部正教|正教]]が継いだ。

案内メニュー