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スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:[[1567年]][[7月29日]] - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:[[1603年]][[7月25日]] - 1625年3月27日)である。非公式には[[グレートブリテン島|グレートブリテン]]王の称号も用いた{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}。スコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]と2番目の夫であるダーンリー卿[[ヘンリー・ステュアート (ダーンリー卿)|ヘンリー・ステュアート]]の一人息子である。
 
イングランドとスコットランドの王位を初めて一身に兼ねた君主であり、各国との協調政策に尽力し「平和王」とも言われている。この後ヨーロッパで広がる「[[王権神授説]]」の基礎を作った。ただ、国王と王妃の出費から財政的には逼迫させ、議会と最終的には対立してしまう<ref name=":0">{{Cite booksfn|title=物語 イギリスの歴史(下)君塚直隆|date=2015.5.25|yearp=|publisher=中公新書|last=君塚直隆8-10}}</ref>
 
== 生涯 ==
ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることはなかった。最初の摂政はメアリーの庶出の兄で王の母方の伯父に当たる初代[[マリ伯爵]][[ジェームズ・ステュアート (初代マリ伯爵)|ジェームズ・ステュアート]]であったが、[[1570年]]にメアリーの支持者によって[[暗殺]]された。次いで、ダーンリー卿の父で王の父方の祖父に当たる{{仮リンク|レノックス伯|en|Earl of Lennox}}[[マシュー・ステュアート (第4代レノックス伯)|マシュー・ステュアート]]が摂政となったが、この祖父も[[1571年]]に国内の紛争で殺害された。マリ伯の母方の伯父で3人目の摂政となった[[マー伯爵]][[ジョン・アースキン (第18代マー伯)|ジョン・アースキン]]も[[1572年]]に死去し、王の祖母[[マーガレット・ダグラス]]の従弟に当たる[[モートン伯爵]][[ジェイムズ・ダグラス (第4代モートン伯)|ジェイムズ・ダグラス]]が最後に摂政となった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=237-239}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=360}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=41-42}}。
 
1570年にマリ伯が暗殺された後頃から、ジェームズ6世の家庭教師として{{仮リンク|ジョージ・ブキャナン|en|George Buchanan}}と{{仮リンク|ピーター・ヤング (チューター)|en|Peter Young (tutor)|label=ピーター・ヤング}}がついている。ブキャナンは政治に携わり、[[15791578年]]頃までジェームズ6世のもとにいたと言われるブキャナンは、[[カトリヨーロク教会|カトリック]]に基づくパで広まっていた王権神授説でなく、[[プロテスタント]]国王は人民から選ばれた存在とみなして、人民を王権の由来とする考えに基づく制限された世俗的論を教えようとしたとも言われている。ジェームズ6世はブキャナンから語学・天文学・数学・歴史・修辞学などを、ヤングからは歴史・神話・地理・医学などを教わり、ギリシャ・ローマの学問を重視した[[人文主義者|人文主義]]的教育を受けて、語学に堪能で博学を誇る君主へと成長した。ただしブキャナンに対する感情は複雑で、英才教育に感謝しながらも短気で教育は厳しい上、よく体罰を与えることもあり母を憎むあまり罪を吹き込むブキャナンを恐れていた(思想も世俗的王権論ではなく王権神授説を支持)。一方、自分に同情的で優しいヤングの方は気に入り、後に結婚のため[[デンマーク]]に派遣する使者に選んでいる{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=240-241}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=36-41,45,56-58,63-64}}。
 
[[1579年]]、ジェームズ6世が成人の統治者となったことを祝う式典が行われた。この時以降、主な居所をそれまでの[[スターリング城]]からエディンバラ城に移すようになった{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=241-242}}。<!--<ref name=":0">{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I|title=james Ⅵ&Ⅰ|accessdate=2020.05.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->
 
同年、13歳のジェームズ6世は[[フランス王国|フランス]]帰りのオウビーニュイ卿[[エズメ・ステュワート (初代レノックス公)|エズメ・ステュアート]](父方の従叔父に当たり、後に[[レノックス公爵]]に叙爵)に魅了され、彼を寵愛した(ジェームズ6世は男色家=ホモセクシュアルで知られている)。邪魔になったモートン伯は、レノックス公の謀略でダーンリー卿殺害に関与したとして[[1581年]]1月に処刑されたが、ジェームズ6世の[[寵臣]]政治はスコットランド貴族達の反発を招き、翌[[1582年]]8月に初代ガウリ伯{{仮リンク|ウィリアム・リヴァン (初代ガウリ伯)|en|William Ruthven, 1st Earl of Gowrie|label=ウィリアム・リヴァン}}の計略によりジェームズ6世は誘拐、{{仮リンク|リヴァン城|en|Ruthven Castle}}に軟禁された({{仮リンク|リヴァンの襲撃|en|Raid of Ruthven}})。レノックス公も逮捕され12月にフランスへ逃亡した{{#tag:ref|レノックス公はフランスのスパイとされていて、ジェームズ6世の母方の従叔父に当たる[[ギーズ公]][[アンリ1世 (ギーズ公)|アンリ1世]]への手紙で[[スペイン]]および[[教皇|ローマ教皇]]の支持と資金提供でイングランド侵略を図る計画を書き送り、スコットランド・フランスでイングランドを挟み撃ちにする計画が出来上がっていた。それを察知したエリザベス1世はスコットランド貴族にレノックス公失脚を命じたため、政変にはイングランドも一枚噛んでいた{{sfn|石井美樹子|2009|p=418-419}}。|group=注釈}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=298}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=242-245}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=42-43}}。ガウリ伯は[[プロテスタント]]貴族で、ジェームズ6世に対するフランスや[[カトリック教会|カトリック]]の影響、母のイングランドからの帰還を妨げようとしたらしい<!--<ref name=":0" />-->。
 
==== 親政 ====
[[1589年]]、カトリック教徒の[[ハントリー侯爵|ハントリー伯爵]]{{仮リンク|ジョージ・ゴードン (初代ハントリー侯爵)|label=ジョージ・ゴードン|en|George Gordon, 1st Marquess of Huntly}}にスペインと密約を交わした容疑が上がったが、寛大な処置で済ませた{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230,233,263}}。同年、[[デンマーク=ノルウェー]]の王[[フレゼリク2世 (デンマーク王)|フレゼリク2世]](フレデリク2世)の娘[[アン・オブ・デンマーク|アンナ]](アン)と結婚した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}。フレデリク2世は[[ティコ・ブラーエ]]を支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Tycho_Brahe|title=Tycho Brahe|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。翌[[1590年]]、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った[[黒魔術]]師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される[[魔女狩り]]騒動が起きている{{enlink|North Berwick witch trials|s=off}}。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学([[デモノロジー]])』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズ6世が初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという{{#tag:ref|この魔女狩りには政治性が付きまとい、ジェームズ6世は母方の従兄に当たる第5代ボスウェル伯{{仮リンク|フランシス・ステュアート (第5代ボスウェル伯爵)|en|Francis Stewart, 5th Earl of Bothwell|label=フランシス・ステュアート}}を魔女集会を開いて国王暗殺を謀った容疑で追及、ボスウェル伯を亡命に追いやった。そのため裁判は政敵排除を狙った国王謀略説があり、以後の魔女裁判にジェームズ6世があまり関わらなくなった点からも、国王の裁判の関心は魔女より政敵にあった疑いが有力視されている。また[[1591年]]にボスウェル伯が[[ホリールード宮殿]]へ侵入する事件が起こり、[[1592年]]にジェームズ6世の命令でハントリー伯がボスウェル伯の共犯として第2代マリ伯{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (第2代マリ伯爵)|en|James Stewart, 2nd Earl of Moray|label=ジェームズ・ステュアート}}を殺害している。ちなみにハントリー伯はジェームズ6世の計らいでほとぼりが冷めるまで匿われ、解放後は侯爵に昇叙された。一方、ボスウェル伯はジェームズ6世がイングランドへ移ると、亡命先のイタリアからスコットランドへ帰国している{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=247-254}}{{sfn|度会好一|1999|p=180,251-253}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=221,262}}。|group=注釈}}{{sfn|度会好一|1999|p=175-179}}。また『悪魔学』を通して、この裁判から[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が影響を受けて『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』が書かれたともいわれる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|title=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である{{#tag:ref|ジェームズ1世は、[[1609年]]の[[イギリスの議会|イングランド議会]]でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している{{sfn|大野真弓|1975|p=118-119}}。|group=注釈}}。さらに[[1599年]]には『{{仮リンク|バシリコン・ドーロン|en|Basilikon_Doron}}(古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から長男[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー・フレデリック]]に向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、スピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている{{sfn|小林麻衣子|2014|p=4,16,48-49,183-198}}。この本はその後、ヘンリー・フレデリックの弟で次男チャールズ(後の[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]にも読ませている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Basilikon_Doron|title=Basilikon Doron|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。
 
また[[1596年]]、娘の[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]が生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている(さらにその娘にも[[エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)|エリザベス]]の名が引き継がれ、この孫娘は[[ルネ・デカルト|デカルト]]の教え子になっている)。
 
[[1600年]]、処刑したガウリ伯の遺児である第3代ガウリ伯{{仮リンク|ジョン・リヴァン (第3代ガウリ伯)|en|John Ruthven, 3rd Earl of Gowrie|label=ジョン・リヴァン}}と{{仮リンク|アレクサンダー・リヴァン|en|Alexander Ruthven}}兄弟の屋敷を訪問、そこで監禁されたが家臣達に救出され、ガウリ伯兄弟はジェームズ6世と共に監禁された小姓に刺殺された。この事件については謎が多く、ガウリ伯に多額の借金を負っていたジェームズ6世が帳消しを狙った陰謀とも、政敵排除に一芝居打ったとも言われ真相ははっきりしていない{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=256-259}}。同年の[[クリスマス]]にイングランドのエセックス伯から送られた手紙で[[クーデター]]をけしかけられているが、彼が翌[[1601年]]に無謀な反乱を起こして処刑されると、政敵の{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}[[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル]]を文通相手に切り替え、彼の助言でエリザベス1世亡き後のイングランド王位に希望を持ち、将来のイングランド統治に役立つ知識を得て文通を続けていった{{sfn|塚田富治|2001|p=33-34}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=535,550-551}}。
 
=== イングランド王位継承 ===
これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドとスコットランドは、[[1707年]]に[[合同法 (1707年)|合同]]して[[グレートブリテン王国]]となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。イギリス史ではこれを[[王冠連合]]と呼ぶ。イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった{{#tag:ref|同君連合という都合上紋章を改訂する必要に迫られ、4分割した紋章の盾の左上の位置は優位の位置であり、イングランド・スコットランドどちらの紋章を置くかが問題になった。解決策として新たに2種類の紋章を改訂、イングランドではイングランドの紋章を左上に置いた紋章を、スコットランドではスコットランドの紋章を左上に置いた紋章を使い分けることにした。この伝統は現在も王室に引き継がれている{{sfn|森護|1988|p=303-307}}。|group=注釈}}。
 
即位直後に2つの陰謀事件が発覚({{仮リンク|メイン陰謀事件|en|Main Plot}}・{{仮リンク|バイ陰謀事件|en|Bye Plot}})、先代の寵臣の1人だった[[ウォルター・ローリー]]をメイン陰謀事件に連座したため投獄しているが、ソールズベリー伯と[[ノーサンプトン伯爵]][[ヘンリー・ハワード (初代ノーサンプトン伯)|ヘンリー・ハワード]]がジェームズ1世にローリーへの讒言を吹き込んだことも原因に挙げられる。ローリーは死刑判決を受けるも未執行のまま[[ロンドン塔]]で過ごし、[[1616年]]に南米[[ギアナ地方|ギアナ]]に黄金があるという話を当てにしたジェームズ1世によりロンドン塔から出され南米へ出発したが、黄金を見つけられなかった上現地でスペイン部隊と交戦、スペインに損害を与えれば死刑にするという出発前にジェームズ1世と交わした約束もあり、スペインからの抗議を受けたジェームズ1世により[[1618年]]の帰国後に処刑された{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=114}}{{sfn|森護|1986|p=394-395}}{{sfn|木村俊道|2003|p=225}}{{sfn|櫻井正一郎|2008|p=11-12,56-57,61-62}}{{sfn|今井宏|1990|p=130}}。
 
==== スコットランド遠隔支配 ====
以後スコットランドは遠隔支配することになり、複数の側近を派遣して「ロンドンに在ってスコットランドをペンで治める」旨を伝えた。権力集中を避けるため3人がスコットランドを治める体制を作り、[[イギリスの議会|議会]]で権力が制限されがちなイングランドよりは効果的な体制だったが、国王の目が届かないため圧政や腐敗が広がった{{#tag:ref|ジェームズ1世がスコットランドに戻らなかった理由はイングランドが居心地が良いから、スコットランドに比べて人口が5倍以上あり、政治・宗教制度・経済などスコットランドより進歩しているイングランドに惹かれた、何度も危機に遭遇したスコットランドよりイングランドが安全だと感じたからと諸説ある{{sfn|森護|1988|p=307-308}}。|group=注釈}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=260-262}}。
 
特に{{仮リンク|ジョージ・ヘリオット|en|George Heriot}}、{{仮リンク|トマス・ハミルトン (初代ハディントン伯爵)|en|Thomas Hamilton, 1st Earl of Haddington|label=トマス・ハミルトン}}、[[アーガイル公爵|アーガイル伯爵]]{{仮リンク|アーチボルド・キャンベル (第7代アーガイル伯爵)|en|Archibald Campbell, 7th Earl of Argyll|label=アーチボルド・キャンベル}}が権勢を振るい、ヘリオットはイングランドで浪費して金に困ったスコットランド貴族やジェームズ1世に土地と引き換えに金を工面し、スコットランド最大の地主に成り上がり{{仮リンク|ジョージ・ヘリオット学校|en|George Heriot's School}}設立など慈善事業に捧げた。ハミルトンはガウリ伯兄弟の遺体を裁判にかけ大逆罪を下したことで一族共々出世し{{仮リンク|ハディントン伯爵|en|Earl of Haddington}}も与えられた。一方アーガイル伯は対立していた{{仮リンク|グレゴール氏族|en|Clan Gregor|label=マクレガー氏族}}を大勢惨殺したり、他の[[スコットランドの氏族|氏族]]にも強引にイングランド文明を押し付けたりしていた{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=260-268}}。
 
スコットランドでは宗教問題が未解決で、ジェームズ1世がイングランドに移ってからも監督制を支持する国王と長老制を堅持する長老派教会との対立が続いていた。ジェームズ1世は[[1606年]]にアンドリュー・メルヴィルを追放、[[1618年]]には[[パース (スコットランド)|パース]]で監督制を強化した{{仮リンク|パース5箇条|en|Five Articles of Perth}}を押し付けたが、後に一部緩和してそれ以上宗教に介入しなかった。またこの間の[[1617年]]にジェームズ1世は1度スコットランドへ帰国しているが、イングランド人廷臣を大勢連れて贅沢三昧と狩猟に明け暮れたためスコットランド人に不評だった{{sfn|浜林正夫|1959|p=86-87}}{{sfn|森護|1988|p=308-309}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=268-271}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=67,74}}。
 
==== 議会に対して ====
ジェームズ1世はエリザベス体制を継続するという暗黙の条件でやってきていたため、ソールズベリー伯やベーコンを助言者として重用し続けた。ただしこの時、ソールズベリー伯などジェームズ1世によって重用されたり援助した者の多くは[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]での仕官だったため、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員だった[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]も叙爵で貴族院へ移動、庶民院で国王側の者が少なくなった。当時、貴族院と庶民院はそれぞれその院内の者しか発言権がなかったため、後々になってジェームズ1世は議会に対して不利になっていく{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=114}}<ref name{{sfn|君塚直隆|2015|p=":0" />7-8}}{{sfn|木村俊道|2003|148,165}}
 
ただ、ジェームズ1世は議会を無視して王権を振るった印象が強いが、イングランド王位継承直後は「議会との協調」を発言し、エリザベス1世に比べても議会を開催した回数は少なくなく、8(36か月)行っている<ref(1604年3月から[[1611年]]2月、[[1614年]]4月から6月、[[1621年]]1月から[[1622年]]1月、[[1624年]]2月から1625年3月)。しかし国王と議会は相互不信から協調出来ず、議会は自己権利主張と国王側近の告発が主な活動になり、国王の財政・外交政策も批判した。対するジェームズ1世は[[国王大権 name(イギリス)|国王大権]]を侵害していると議会を非難して解散、両者の対立で成果は上がらなかった{{sfn|浜林正夫|1959|p=":0" />70-72}}{{sfn|大野真弓|1975|p=121-122}}{{sfn|今井宏|1990|p=155-158}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=4-6}}
 
==== 宗教政策 ====
1604年、ジェームズ1世は[[ハンプトン・コート宮殿]]に[[イングランド国教会]]や[[ピューリタン]]など宗教界の代表者たちを招いて会議を行った({{仮リンク|ハンプトン・コート会議|en|Hampton Court Conference}})。この中でジェームズ1世は、カトリックとピューリタンの両極を排除することを宣言したが、これによりカトリックとピューリタンの両方から反感を買うことになった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=116}}{{sfn|森護|1986|p=395}}。一方でイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けたため、この会議でスコットランドでは[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた{{sfn|君塚直隆|2015|p=6-7}}。
 
翌[[1605年]]には[[ガイ・フォークス]]らカトリック教徒による、国王・重臣らを狙った爆殺未遂事件([[火薬陰謀事件]])が起こった。なお、[[1611年]]に刊行された[[欽定訳聖書]]は、ジェームズ1世の命により国教会の典礼で用いるための標準訳として翻訳されたものである(この欽定訳聖書を作るための組織メンバーに{{仮リンク|ランスロット・アンドリューズ|en|Lancelot_Andrewes}}などがおり、フランシス・ベーコンに代表される科学と宗教の両立的発展があった知的なメンバーの集いにもなった){{sfn|ベンジャミン・ファリントン|松川七郎|中村恒矩|1968|p=95-96}}{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=117}}{{sfn|森護|1986|p=395-396}}{{sfn|今井宏|1990|p=144-145,150-153}}。
 
==== 連合統一政策 ====
[[ファイル:Union flag 1606 (Kings Colors).svg|200px|thumb|{{FIAV|historical|}}ユニオン・フラッグ(1606年版)]][[ファイル:James_I_of_England_by_Daniel_Mytens.jpg|thumb|289x289px|[[1621年]]頃のジェームズ]]
1604年3月から1607年12月まで断続的に開かれた、3会期に渡る議会でジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一の必要性を訴え、国王側近で両国の統合検討委員会に入っていたベーコンも合同に賛成した。しかし庶民院議員は大勢がスコットランドの蔑視からスコットランド人のイングランド流入と両国の交易に抵抗して合同に反対、[[コモン・ロー]]法律家もイングランド法とスコットランド法融合によるコモン・ローの変質を恐れて反対、ベーコンの反論も効果なく合同は棚上げになってしまった。ただ、ベーコンの活動に注目した国王は1607年に彼を{{仮リンク|法務次官 (イギリス)|label=法務次官|en|Solicitor General for England and Wales}}に任命している{{sfn|塚田富治|1996|p=121-124}}{{sfn|木村俊道|2003|145-148,155-158}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=7}}。
ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた(そのためスコットランドでは[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた)。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に1604年[[10月20日]]の布告で「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドの[[イングランドの国旗|セント・ジョージ・クロス]]とスコットランドの[[スコットランドの国旗|セント・アンドリュー・クロス]]を重ね合せた[[ユニオン・フラッグ]]を1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
 
ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた(そのためスコットランドでは[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた)。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に1604年[[10月20日]]の布告で「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドの[[イングランドの国旗|セント・ジョージ・クロス]]とスコットランドの[[スコットランドの国旗|セント・アンドリュー・クロス]]を重ね合せた[[ユニオン・フラッグ]]を1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
また、イングランド国王就任時から[[アイルランド王国|アイルランド]]は[[植民地]]となっており、先代からの反乱({{仮リンク|アイルランド九年戦争|en|Nine Years' War (Ireland)}})の首謀者・ティロン伯[[ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)|ヒュー・オニール]]はイングランドに降伏していた([[1607年]]に逃亡)。それを踏まえてジェームズ1世は[[1608年]]から[[1610年]]まで、アイルランド北部[[アルスター]]地方へ[[ジェントリ]]を通じてイングランド人・スコットランド人の入植を行った。[[ロンドンデリー]]はそうした入植で出来た植民地都市である。植民地アイルランドの統一政策も行い、入植でカトリックの先住民から土地を奪いプロテスタントの入植者へ入れ替え、カトリックを公職に就かせず、カトリックの有力貴族の家系で幼少の[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](後の[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド伯爵]])を引き取りプロテスタントに養育、[[1613年]]の[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]庶民院の選挙介入も行い、プロテスタントがカトリックより人数を上回るようにした。特にフランシス・ベーコンは植民政策に対しての著作を残している(『随筆集』第33編「植民について」より){{sfn|ベンジャミン・ファリントン|松川七郎|中村恒矩|1968|p=63-64}}{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=127}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=771,773}}{{sfn|山本正|2002|p=127-129,137,147}}{{sfn|成田成寿|2014|p=208-213}}。
 
また、イングランド国王就任時から[[アイルランド王国|アイルランド]]は[[植民地]]となっており、先代からの反乱({{仮リンク|アイルランド九年戦争|en|Nine Years' War (Ireland)}})の首謀者・ティロン伯[[ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)|ヒュー・オニール]]はイングランドに降伏していた([[1607(1607]]に逃亡)。それを踏まえてジェームズ1世は[[1608年]]から[[1610年]]まで、アイルランド北部[[アルスター]]地方へ[[ジェントリ]]を通じてイングランド人・スコットランド人の入植を行った。[[ロンドンデリー]]はそうした入植で出来た植民地都市である。植民地アイルランドの統一政策も行い、入植でカトリックの先住民から土地を奪いプロテスタントの入植者へ入れ替え、カトリックを公職に就かせず、カトリックの有力貴族の家系で幼少の[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](後の[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド伯爵]])を引き取りプロテスタントに養育、[[1613年]]の[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]庶民院の選挙介入も行い、プロテスタント議員がカトリック議員より人数を上回るようにした。特にフランシス・ベーコンは植民政策に対しての著作を残している(『随筆集』第33編「植民について」より){{sfn|ベンジャミン・ファリントン|松川七郎|中村恒矩|1968|p=63-64}}{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=127}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=771,773}}{{sfn|山本正|2002|p=127-129,137,147}}{{sfn|成田成寿|2014|p=208-213}}。
 
==== 外交政策 ====
1606年には、[[北アメリカ]]海岸に植民地を建設する目的で、[[ジョイント・ストック・カンパニー]]の[[バージニア会社]]に[[勅許会社|勅許]]を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]の建設を進め、ロンドンからの移住者が中心になりイングランド人の植民地建設が進んだ。[[1620年]]のピューリタン([[ピルグリム・ファーザーズ]])による[[メイフラワー号]]も有名である{{sfn|今井宏|1990|p=130-131}}。
 
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとはソールズベリー伯の主導で1604年の{{仮リンク|ロンドン条約 (1604年)|label=ロンドン条約|en|Treaty of London (1604)}}で和解した。これには、スペインとフランスの調停者としての役割がジェームズ1世に期待されたからで、国王も期待に応え調停者であることをアピールした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|岩井淳|2015|p=27-28}}。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていた[[オスマン帝国]]に対しては[[キリスト教徒]]としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118}}{{sfn|竹田いさみ|2011|p=115}}。
 
ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス1世時代に[[イギリス東インド会社|東インド会社]]が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった){{sfn|竹田いさみ|2011|p=113}}。1613年には[[ジャワ島]]のバンテンに商館を持っていて、[[日本]]にいる[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていた[[ジョン・セーリス]]が日本に行き、[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]親子と交渉して、[[平戸市|平戸]]に[[イギリス商館]]を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在も[[ロンドン塔]]に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/John_Saris|title=john saris|accessdate=2020.6.3|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>--><ref>{{Cite web|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf|title=日英交流400周年|accessdate=2020.6.03|publisher=}}</ref>。日本の工芸品などで初のイングランド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど){{sfn|大江一道|1988|p=181-182}}だったため、[[1623年]]の[[アンボイナ事件]]以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された){{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=119}}{{sfn|小林幸雄|2007|p=135-136}}。
 
インド周辺のコーヒー貿易は、1606年末の東インド会社第三船団の際には計画されているが、貿易拠点作りのための商館建設交渉は長引き、[[1619年]]に東インド会社の巧みな外交によって[[モカ]]港の入港の許可に成功している。これによりコーヒーの大量買い付けが可能になっている{{sfn|竹田いさみ|2011|p=151-155}}。
 
スペインとの和睦に関係して、海軍の弱体化を招いたことは威信の失墜に繋がり、平和主義に則りスペインを苦しめた私掠船の禁止と、財政難のため海軍費用を削減して艦隊整備を怠り、水兵のリストラなど軍縮を行う一方、王立艦隊をイングランド周辺海域の警戒に当たらせた。しかし衰微した海軍では任務が失敗することが多く、[[イギリス海峡]]を渡る外国船は旗を降ろさず、外国船が海域に侵入し船を襲うこともあった。[[北アフリカ]]から[[バルバリア海賊]]も侵入、船の略奪・誘拐が続いても海軍は手も足も出ず、[[1620年]]から[[1621年]]にかけて敢行された[[アルジェ]]遠征も失敗、ジェームズ1世の理想主義的平和政策が海上で失敗したことが明らかになった。歴史家[[ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン]]はジェームズ1世が海軍を無視したことを厳しく批判している{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118-119}}{{sfn|小林幸雄|2007|p=129-134}}。
 
1613年、娘エリザベスを[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と政略結婚させた。国教会イングランド[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]・プファルツを結ぶプロテスタントの連携を目指したもので、「[[テムズ川]]と[[ライン川]]の合流」とまで言われる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Stuart,_Queen_of_Bohemia|title=elizabeth stuart|accessdate=2020.06.03|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。平和主義者のジェームズ1世はカトリックとプロテスタントの対立を和解させる調停者の立場を目指し、エリザベスの結婚と合わせて次男チャールズとスペイン王女との結婚も画策していた。また財政難で軍を集められないという事情もあり(議会の同意が簡単に得られないため戦費を調達し辛い)、1616年頃からスペインとの調停を行い、後に[[三十年戦争]]でフリードリヒ5世が危機に陥っても援助しなかった{{#tag:ref|エリザベスとフリードリヒ5世の結婚はジェームズ1世の目論見とは違い、ドイツの[[プロテスタント同盟]]にイングランドの後ろ盾を得たと思い込ませ、三十年戦争へ突入する皮肉な展開になった。フリードリヒ5世は舅の援助を当てにして戦争に参戦したが、ジェームズ1世には前述の通り援助が難しいため、援助を受けられず戦争に敗れて亡命する羽目になった{{sfn|今井宏|1990|p=160}}。|group=注釈}}{{sfn|今井宏|1990|p=159-160}}{{sfn|岩井淳|2015|p=28-30}}
 
==== 財政の逼迫と議会との関係悪化 ====
ジェームス1世は、スコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって[[イギリスの議会|議会]]に諮らずに、[[関税]]を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。[[1610年]]、ソールズベリー伯が財政再建策として[[大契約]]を議会に提出した。議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった(2年後の[[1612年]]にソールズベリー伯は死去){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|今井宏|1990|p=153-155}}{{sfn|塚田富治|2001|p=38-44}}{{sfn|木村俊道|2003|p=187-188}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=8-9}}
 
危機的な王庫の困窮を少しでも緩和するため、1611年にはアイルランド北部アルスター地方の植民者を守り、アイルランド人の反乱に備える軍隊の費用を捻出するため、購入が可能な新位階としてイングランド[[準男爵]]位を創設した。[[1619年]]にはアイルランドでも販売を開始した(ジェームズ1世の崩御後にはスコットランドでも準男爵の販売が開始される){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=57}}。
 
==== 派閥抗争と議会との抗争 ====
=== 絶対王政時代 ===
[[1614年]]からは国王の統一政策への反対の声が強くなったり、財政の逼迫にもかかわらず議会から十分な課税ができないことなど、議会を自らの首を絞める存在として強く意識するようになり、議会を7年ほど開催しなくなる<ref。これには宮廷内部の対立も尾を引き、ソールズベリー伯亡き後にノーサンプトン伯ら親スペイン・カトリック派の[[ハワード家]]と反スペイン・プロテスタント派の[[ペンブルック伯]][[ウィリアム・ハーバート name(第3代ペンブルック伯爵)|ウィリアム・ハーバート]]、[[カンタベリー大主教]]{{仮リンク|ジョージ・アボット (カンタベリー大主教)|label=":0"ジョージ・アボット|en|George />Abbot (bishop)}}らが対立、1614年の議会はノーサンプトン伯がペンブルック伯らが呼びかけた財政改革に応じないばかりか、政府が議会を抱き込もうするという噂を流したため、議会は派閥抗争で荒れた末に解散に追い込まれた{{sfn|今井宏|1990|p=158-159}}{{sfn|塚田富治|1996|p=148-149}}{{sfn|木村俊道|2003|227-228}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=9}}
 
派閥抗争は議会解散後も続き、ペンブルック伯・アボット・{{仮リンク|国王秘書長官 (イングランド)|label=国王秘書長官|en|Secretary of State (England)}}{{仮リンク|ラルフ・ウィンウッド|en|Ralph Winwood}}らプロテスタント派はノーサンプトン伯と甥の[[サフォーク伯]][[トマス・ハワード (初代サフォーク伯)|トマス・ハワード]]と[[サマセット公|サマセット伯]][[ロバート・カー (初代サマセット伯)|ロバート・カー]]らカトリック派から国王を引き離すため、[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]](後の[[バッキンガム公]])を国王に近付けさせた。国王から寵愛されたヴィリアーズは期待に応え1618年にサフォーク伯を失脚させ、サマセット伯も1615年に政略結婚に絡んだ殺人でベーコンに告発され失脚、プロテスタント派の勝利でヴィリアーズが台頭(1616年にバッキンガム子爵、1617年に伯爵、1623年に公爵に叙爵){{sfn|塚田富治|1996|p=188}}、{{仮リンク|ミドルセックス伯爵|en|Earl of Middlesex}}{{仮リンク|ライオネル・クランフィールド (初代ミドルセックス伯爵)|label=ライオネル・クランフィールド|en|Lionel Cranfield, 1st Earl of Middlesex}}が財政改革に乗り出したが、赤字を解消出来ず1621年に議会召集せざるを得なかった{{sfn|今井宏|1990|p=162-163}}{{sfn|塚田富治|2001|p=116-117}}{{sfn|木村俊道|2003|231-235}}。
[[1618年]]に勃発した[[三十年戦争]]において、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世はその当事者となったが、1621年には完全に[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]側に押され、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]に亡命する事態になっていた。そのためジェームズ1世は、娘婿を助けようと7年ぶりに議会を開き、資金を集めようとした<ref name=":0" />。このとき中心的に動いた人物としてベーコンがおり、それが故にベーコンは失脚の憂き目に会う。
 
時期は前後して、司法でコモン・ロー法律家で裁判官[[エドワード・コーク]]とも対立する。コモン・ロー信奉者のコークは1606年に{{仮リンク|民事高等裁判所首席裁判官|en|Chief Justice of the Common Pleas}}に就任してからコモン・ローを扱う裁判所を擁護、[[エクイティ]]の裁判所や王権と権限や管轄争いを引き起こした。ジェームズ1世はベーコンと共に国王大権を擁護して対抗しつつもコークとの和解の道を探り、1613年に彼を{{仮リンク|イングランド・ウェールズ首席裁判官|label=王座裁判所首席裁判官|en|Lord Chief Justice of England and Wales}}へ転任させたが、コークが一向に翻意せずコモン・ロー裁判所を拠点にして国王大権と対立し続けたため、1616年にコークを罷免した。一方、コークとの争いで一貫して国王を理論で擁護したベーコンを[[法務長官 (イギリス)|法務長官]](1613年)、枢密顧問官、[[国璽尚書]](1617年)、[[大法官]](1618年)に昇進させ、同年に[[ヴェルラム男爵]]、1621年にはセント・オールバンズ子爵に叙した{{sfn|今井宏|1990|p=158}}{{sfn|塚田富治|1996|p=131-137,149-158,168-169,186-187}}{{sfn|木村俊道|2003|193-198}}。
 
[[1618年]]に勃発した[[三十年戦争]]において、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世はその当事者となったが、1621年には完全に[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]側に押され、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]に亡命する事態になっていた。そのためジェームズ1世は婿夫婦けようとする取り組みを行い、7年ぶりに議会を開き資金を集めようとした<ref nameが、議会の強い反対によって実現しなかった{{sfn|君塚直隆|2015|p=":0" />10}}。このとき中心的に動いた人物としてベーコンがおり、それが故にベーコンは失脚の憂き目に会う{{sfn|大野真弓|1975|p=122-123}}{{sfn|木村俊道|2003|p=254-255}}
 
議会は初め14万5000ポンドの特別税徴収を認めたが、ジェームズ1世が提案したプファルツへの援軍派遣による追加予算を認めなかった。独占権の濫用による商業の専売が問題になりバッキンガム侯が独占権関与で議会から追及される恐れが出ると、ジェームズ1世は事態収拾に動き一部の業者から独占権を取り上げ、バッキンガム侯の非難をかわすため議会によるベーコンの収賄容疑の弾劾を受け入れ、彼をスケープゴートにして失脚へ追い込んだ。その後外交問題が議題に上ると、外交が国王大権のためスペインとの戦争を主張する議会に激怒して反対、[[議会の大抗議]]を発表して言論の自由を盾に尚も食い下がる議会に更に腹を立て、議会を解散して大抗議の首謀者であるコーク、[[ジョン・ピム]]らを投獄した(ピムは自宅軟禁で済んだとも){{sfn|浜林正夫|1959|p=72}}{{sfn|今井宏|1990|p=163-165}}{{sfn|塚田富治|1996|p=188-197}}{{sfn|塚田富治|2001|p=65-66,116-117}}。
 
[[1622年]]には[[ホワイトホール宮殿]]の拡張を実施し、[[イニゴ・ジョーンズ]]の設計による[[バンケティング・ハウス]]を完成させた。
 
==== 晩年 ====
[[1624年]]末頃から病気がちとなり、1625年3月27日、ロンドン北郊のシーアボールズ宮殿で崩御した。58歳だった。チャールズ1世が後を継いだ{{sfn|森護|1988|p=310}}。
議会解散後はスペインとの関係を深めて対処しようとしている。チャールズとスペイン王女[[マリア・アンナ・フォン・シュパーニエン|マリア・アナ]]との政略結婚がその一環であり、持参金としてプファルツ回復を図り、交渉が難航する中で1623年2月にチャールズとバッキンガム公が勝手にスペイン旅行へ出かけたため、交渉どころではなく息子の安全と帰国を願う日々を送った。一方チャールズとバッキンガム公はスペインと直接交渉して結婚を実現させようとしたが、半年も時間を費やした末に失敗、9月に帰国してからは反スペインと化し、2人でジェームズ1世に戦費調達のため議会召集を要求した。ジェームズ1世は病気と老齢で戦争にも議会召集にも消極的だったが、2人に押し切られ1624年2月に議会を召集した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|今井宏|1990|p=167-168}}{{sfn|塚田富治|2001|p=66-68}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=10-11}}。
 
議会では30万ポンドの課税を認められたが、使途は戦争に限ると条件を付けられ、外交にも議会の意見を受け取るという譲歩を余儀なくされた。とはいえ議会との関係はこれまでより良好で、ジェームズ1世にとってむしろ好戦的なチャールズとバッキンガム公こそが脅威となっていた。バッキンガム公は反戦派のミドルセックス伯を議会に弾劾させ失脚、スペイン包囲網形成のためフランスの同盟を計画、フランスと交渉して王女[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|アンリエット・マリー]]をチャールズと結婚させることを約束した。しかし内容はイングランド国内のカトリック教徒に寛容を与えるなどカトリックに譲歩した物だったため、当初反スペインだった議会に人気があったバッキンガム公は不信を抱かれた。同年末に成立したフランス軍事同盟に基づいてイングランドは遠征軍を派遣したが、あくまで戦争に反対するジェームズ1世は軍にスペイン領通過を禁止、それを知ったフランスが自国のイングランド軍上陸を禁止、行き場を失った軍はオランダで疫病にかかり自滅、英仏同盟は不安定になっていった。他の出来事としては、議会の反独占運動の成果として{{仮リンク|専売条例|en|Statute of Monopolies}}の成立が挙げられる{{sfn|浜林正夫|1959|p=72}}{{sfn|今井宏|1990|p=168-171}}{{sfn|塚田富治|2001|p=68-69}}{{sfn|岩井淳|2015|p=40-41}}。
 
[[1624年]]末頃から病気がちとなり、1625年3月27日、ロンドン北郊のシーアボールズ宮殿で崩御した。58歳だった。長男ヘンリー・フレデリックには1612年に先立たれたため、次男チャールズがチャールズ1世として後を継いだ{{sfn|森護|19881986|p=310397,401-402}}。
 
== ジェームズ1世の家族 ==
 
=== ハノーヴァー朝につながる娘 ===
長女[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]は、[[1613年]][[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と結婚した。陽気で美しく慈悲の心を持っていた彼女は、イングランドでも非常に人気が高かった。嫁ぎ先の[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]]でも領民たちから「慈愛の王妃」と呼ばれ慕われるほどであった。しかし、[[三十年戦争|ボヘミア・ファルツ戦争]](ベーメン・プファルツ戦争)で夫が皇帝フェルディナント2世に敗れると、全てを失って[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]への[[亡命]]を余儀なくされた。[[1661年]]にイングランドへ帰り、翌[[1662年]]ロンドンで死去した{{sfn|森護|1986|p=402-403}}。
 
ジェームズ1世は1621年に議会を開き、娘夫婦を援助する取り組みを行うが、議会の強い反対によって実現しなかった。後にはスペインとの関係を深めて対処しようとしている<ref name=":0" />。
 
エリザベスは夫との間には13人の子を儲けたが、うち五女[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]は[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]に嫁いだ。ゾフィー以外の兄姉およびその子孫はゾフィ―よりも早世またはカトリック教徒となったため、ゾフィ―が唯一の王位継承者となった。しかし、ゾフィーがステュアート朝最後の君主[[アン (イギリス女王)|アン女王]]に先立って逝去したため、長男が[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]([[ハノーヴァー朝]]の祖)として即位した。今日の[[イギリス王位継承順位|英国王位継承権を保持する人物]]は、全員がゾフィーの子孫である{{sfn|森護|1986|p=403,478-479,481-483}}。
( )はスコットランド王/女王、<>はイングランド王/女王、[ ]はグレートブリテン王/女王の即位順
 
== 人物・逸話 ==
* Lianda de Lisleの ''"After Elizabeth"'' によれば、7歳までまともに歩けなかったという。フィクションではあるがJean Plaidyの ''"The Murder in the Tower"'' でも、5歳まで歩いたことがなかったとされている(常に家臣が抱きかかえて運んだ)。チャールズ1世も歩き出すのが非常に遅かったため、何らかの遺伝病の可能性もある。
* 幼い頃、[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]の玉座に座っていた際、屋根に穴を発見し「この議会には穴がある」と言ったところ、直後に重臣の一人が暗殺され、予言者との評判を得た。
* 「ブリテンの[[ソロモン]]王」の異名をとったが、それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に、父親がダーンリーではなく母の秘書の{{仮リンク|デイヴィッド・リッチオ|en|David Rizzio}}だろう(デイヴィッド=ソロモンの父[[ダビデ]]のこと)という悪口でもあった。この発言者はフランス王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]と言われている。また、「最も賢明で愚かな王」という発言もアンリ4世、あるいは彼の側近であるシュリー公{{仮リンク|マクシミリアン・ド・ベテュヌ (シュリー公)|en|Maximilien de Béthune, Duke of Sully|label=マクシミリアン・ド・ベテュヌ}}の物とされる{{sfn|森護|1988|p=303}}{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=230}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=2}}。
* 男色の愛人をしばしば重用、スコットランド王時代ではレノックス公、イングランド王時代ではブリストル伯[[ジョン・ディグビー (初代ブリストル伯爵)|ジョン・ディグビー]]、サマセット伯、バッキンガム公が愛人に挙げられる。彼等の存在は深刻なトラブルを招き、レノックス公の場合はリヴァンの襲撃、バッキンガム公は宮廷や議会の派閥抗争、サマセット伯に至っては殺人事件を引き起こしている(ブリストル伯のみ特に問題を起こしてはいない){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|今井宏|1990|p=163,169-170}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=415,547}}{{sfn|櫻井正一郎|2008|p=20,88}}。
* 『バシリコン・ドーロン』で君主の振る舞いが人々の判断を左右させることを指摘、中庸を主とした質素な食事、テーブルマナーの礼儀正しさ、服装にも気を使うことを忠告している。反面、ジェームズ1世自身の振る舞いはそうした助言とは程遠い物で、礼儀作法が無い野蛮な言動を同時代人に記録されている。しかし人々が優雅な振る舞いに惑わされること、礼儀を人々の意識に植え付けることが秩序維持に役立つことを熟知しており、『バシリコン・ドーロン』は後世において参考にされるほど政治において重要な作品になっていった。また、服装がだらしなく、男色にふけり派手な宮廷生活に汚職とスキャンダルの噂が絶えないにも関わらず、意見を率直に語り家臣には親しみやすく信頼されていた(対するチャールズ1世は父と全く違う性格で、妻子を大切にする家庭人で、質素な宮廷生活を送り、汚職を厳しく取り締まり、寡黙で近寄りがたい人間だった){{sfn|小林麻衣子|2014|p=190-198}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=7,11}}。
* 当代随一の知識人フランシス・ベーコンをイングランド王即位直後から目にかけ、ナイト叙爵をきっかけに翌1604年の特命の学識顧問官抜擢、1607年の合同論争で注目して法務次官に任命した。以後も法務長官、枢密顧問官、国璽尚書、大法官へと昇進させ、爵位もヴェルラム男爵、セント・オールバンズ子爵を与えた。ただし1621年議会ではバッキンガム公を守るため、庶民院に弾劾されたベーコンをスケープゴートとして見放したため、完全に信頼していたとは言い難い{{sfn|木村俊道|2003|p=254-255}}{{sfn|今井宏|1990|p=166}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=48-49}}。
* [[1601年]][[4月15日]]にスコーン・ロッジの[[フリーメイソン]]に加入している<ref name="Grand Lodge">{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/biography/james_vi/james_vi.html |title= James VI of Scotland |accessdate= 2014-9-25 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。
* 1613年に[[ジョン・セーリス]]が船長を務める[[クローブ号]]がジェームズ1世からの書簡と贈呈品をもって[[日本]]の[[長崎市|長崎]]、ついで[[平戸市|平戸]]に到着した。当時、将軍職を退いて[[駿府城]]にいた[[徳川家康]]には[[望遠鏡]](アジアに望遠鏡が伝わるのはこれが初めてだったとも言われる)、[[江戸]]にいる将軍[[徳川秀忠]]には金のカップとカバーとイングランド製の布地が贈られた。セーリスには、返礼として秀忠から2組の鎧、家康から金屏風が託された。またセーリスは家康の顧問を務めていた英国人[[ウィリアム・アダムス]](三浦按針)の協力を得て、家康から朱印状(貿易許可証)を得て平戸に[[イギリス商館]]を開設している。[[1613年]]にクローブ号は帰国の途に就き、金屏風と鎧はジェームズ1世に届けられた。これをきっかけにジェームズ1世はアジアに関心を持ち、セーリスの航海日誌を5回も読んだといわれる<ref>[http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf 2013 年は日英交流 400 周年 ~JAPAN400 のご紹介~]</ref>。
 
== 著書 ==
 
== 出典 ==
* [[浜林正夫]]『イギリス市民革命史』[[未來社]]、1959年。
* [[ベンジャミン・ファリントン]]著、[[松川七郎]]・[[中村恒矩]]訳『フランシス・ベイコン <small>-産業科学の哲学者-</small>』[[岩波書店]]、1968年。
* {{Cite book|和書|author=[[ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン]]|translator=[[大野真弓]]|date=1974年(昭和49年)|title=イギリス史 2|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020363|ref=トレ(1974)}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|James I of England}}
* [[ジャコビアン時代]]
* [[国王一座]]
*[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)]]
* [[エドワードウイリアムハーベ]]
* [[ジョン・ダウランド]]
* [[特許]]
* [[特許法の歴史]]
* [[エディンバラ大学]]
* [[1701年王位継承法]]
 
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