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親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は[[長老派教会|長老派]]の影響が強く、[[アンドリュー・メルヴィル]]らは「聖職者の任命は国王ではなく[[長老制|長老会議]]によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制([[監督制]])を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、[[1592年]]には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、[[1598年]]には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の[[司教]]に{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|label=スコットランド議会|en|Parliament of Scotland}}議員同様の立法活動を許すこととした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=299}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230-231}}。 |
親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は[[長老派教会|長老派]]の影響が強く、[[アンドリュー・メルヴィル]]らは「聖職者の任命は国王ではなく[[長老制|長老会議]]によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制([[監督制]])を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、[[1592年]]には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、[[1598年]]には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の[[司教]]に{{仮リンク|スコットランド議会 (スコットランド王国)|label=スコットランド議会|en|Parliament of Scotland}}議員同様の立法活動を許すこととした{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=299}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230-231}}。 |
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[[1586年]]、ジェームズ6世はイングランドと{{仮リンク|ベリック条約 (1586年)|label=ベリック条約|en|Treaty_of_Berwick_(1586)}}を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、[[1588年]]にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していたスペインにも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的に[[アルマダの海戦]]でイングランドが勝利)。またエリザベス1世の寵臣・[[エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]にも接触している{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=300}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=444-445,491,549}}。 |
[[1586年]]、ジェームズ6世はイングランドと{{仮リンク|ベリック条約 (1586年)|label=ベリック条約|en|Treaty_of_Berwick_(1586)}}を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、[[1588年]]にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していた[[スペイン]]にも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的に[[アルマダの海戦]]でイングランドが勝利)。またエリザベス1世の寵臣・[[エセックス伯]][[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|ロバート・デヴァルー]]にも接触している{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}{{sfn|森護|1988|p=300}}{{sfn|石井美樹子|2009|p=444-445,491,549}}。 |
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[[1589年]]、カトリック教徒の[[ハントリー侯爵|ハントリー伯爵]]{{仮リンク|ジョージ・ゴードン (初代ハントリー侯爵)|label=ジョージ・ゴードン|en|George Gordon, 1st Marquess of Huntly}}にスペインと密約を交わした容疑が上がったが、寛大な処置で済ませた{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230,233,263}}。同年、[[デンマーク=ノルウェー]]の王[[フレゼリク2世 (デンマーク王)|フレゼリク2世]](フレデリク2世)の娘[[アン・オブ・デンマーク|アンナ]](アン)と結婚した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}。フレデリク2世は[[ティコ・ブラーエ]]を支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Tycho_Brahe|title=Tycho Brahe|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。翌[[1590年]]、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った[[黒魔術]]師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される[[魔女狩り]]騒動が起きている{{enlink|North Berwick witch trials|s=off}}。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学([[デモノロジー]])』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズ6世が初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという{{#tag:ref|この魔女狩りには政治性が付きまとい、ジェームズ6世は母方の従兄に当たる第5代ボスウェル伯{{仮リンク|フランシス・ステュアート (第5代ボスウェル伯爵)|en|Francis Stewart, 5th Earl of Bothwell|label=フランシス・ステュアート}}を魔女集会を開いて国王暗殺を謀った容疑で追及、ボスウェル伯を亡命に追いやった。そのため裁判は政敵排除を狙った国王謀略説があり、以後の魔女裁判にジェームズ6世があまり関わらなくなった点からも、国王の裁判の関心は魔女より政敵にあった疑いが有力視されている。また[[1591年]]にボスウェル伯が[[ホリールード宮殿]]へ侵入する事件が起こり、[[1592年]]にジェームズ6世の命令でハントリー伯がボスウェル伯の共犯として第2代マリ伯{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (第2代マリ伯爵)|en|James Stewart, 2nd Earl of Moray|label=ジェームズ・ステュアート}}を殺害している。ちなみにハントリー伯はジェームズ6世の計らいでほとぼりが冷めるまで匿われ、解放後は侯爵に昇叙された。一方、ボスウェル伯はジェームズ6世がイングランドへ移ると、亡命先のイタリアからスコットランドへ帰国している{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=247-254}}{{sfn|度会好一|1999|p=180,251-253}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=221,262}}。|group=注釈}}{{sfn|度会好一|1999|p=175-179}}。また『悪魔学』を通して、この裁判から[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が影響を受けて『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』が書かれたともいわれる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|title=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。 |
[[1589年]]、カトリック教徒の[[ハントリー侯爵|ハントリー伯爵]]{{仮リンク|ジョージ・ゴードン (初代ハントリー侯爵)|label=ジョージ・ゴードン|en|George Gordon, 1st Marquess of Huntly}}にスペインと密約を交わした容疑が上がったが、寛大な処置で済ませた{{sfn|小林麻衣子|2014|p=230,233,263}}。同年、[[デンマーク=ノルウェー]]の王[[フレゼリク2世 (デンマーク王)|フレゼリク2世]](フレデリク2世)の娘[[アン・オブ・デンマーク|アンナ]](アン)と結婚した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=369}}。フレデリク2世は[[ティコ・ブラーエ]]を支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Tycho_Brahe|title=Tycho Brahe|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。翌[[1590年]]、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った[[黒魔術]]師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される[[魔女狩り]]騒動が起きている{{enlink|North Berwick witch trials|s=off}}。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学([[デモノロジー]])』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズ6世が初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという{{#tag:ref|この魔女狩りには政治性が付きまとい、ジェームズ6世は母方の従兄に当たる第5代ボスウェル伯{{仮リンク|フランシス・ステュアート (第5代ボスウェル伯爵)|en|Francis Stewart, 5th Earl of Bothwell|label=フランシス・ステュアート}}を魔女集会を開いて国王暗殺を謀った容疑で追及、ボスウェル伯を亡命に追いやった。そのため裁判は政敵排除を狙った国王謀略説があり、以後の魔女裁判にジェームズ6世があまり関わらなくなった点からも、国王の裁判の関心は魔女より政敵にあった疑いが有力視されている。また[[1591年]]にボスウェル伯が[[ホリールード宮殿]]へ侵入する事件が起こり、[[1592年]]にジェームズ6世の命令でハントリー伯がボスウェル伯の共犯として第2代マリ伯{{仮リンク|ジェームズ・ステュアート (第2代マリ伯爵)|en|James Stewart, 2nd Earl of Moray|label=ジェームズ・ステュアート}}を殺害している。ちなみにハントリー伯はジェームズ6世の計らいでほとぼりが冷めるまで匿われ、解放後は侯爵に昇叙された。一方、ボスウェル伯はジェームズ6世がイングランドへ移ると、亡命先のイタリアからスコットランドへ帰国している{{sfn|ナイジェル・トランター|杉本優|1997|p=247-254}}{{sfn|度会好一|1999|p=180,251-253}}{{sfn|小林麻衣子|2014|p=221,262}}。|group=注釈}}{{sfn|度会好一|1999|p=175-179}}。また『悪魔学』を通して、この裁判から[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が影響を受けて『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』が書かれたともいわれる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|title=https://en.wikipedia.org/wiki/Macbeth|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。 |
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ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である{{#tag:ref|ジェームズ1世は、1609年の[[イギリスの議会|イングランド議会]]でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している{{sfn|大野真弓|1975|p= |
ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である{{#tag:ref|ジェームズ1世は、1609年の[[イギリスの議会|イングランド議会]]でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している{{sfn|大野真弓|1975|p=118-119}}。|group=注釈}}。さらに[[1599年]]には『{{仮リンク|バシリコン・ドーロン|en|Basilikon_Doron}}(古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から長男[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー]]に向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、スピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている{{sfn|小林麻衣子|2014|p=4,16,48-49,183-198}}。この本はその後、ヘンリーの弟で次男[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]にも読ませている<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Basilikon_Doron|title=Basilikon Doron|accessdate=2020.5.24|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。 |
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また[[1596年]]、娘の[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]が生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている(さらにその娘にも[[エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)|エリザベス]]の名が引き継がれ、この孫娘は[[ルネ・デカルト|デカルト]]の教え子になっている)。 |
また[[1596年]]、娘の[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]が生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている(さらにその娘にも[[エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)|エリザベス]]の名が引き継がれ、この孫娘は[[ルネ・デカルト|デカルト]]の教え子になっている)。 |
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ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた(そのためスコットランドでは[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた)。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に1604年[[10月20日]]の布告で「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドの[[イングランドの国旗|セント・ジョージ・クロス]]とスコットランドの[[スコットランドの国旗|セント・アンドリュー・クロス]]を重ね合せた[[ユニオン・フラッグ]]を1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。 |
ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた(そのためスコットランドでは[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた)。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に1604年[[10月20日]]の布告で「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し{{sfn|木村俊道|2003|p=143}}、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドの[[イングランドの国旗|セント・ジョージ・クロス]]とスコットランドの[[スコットランドの国旗|セント・アンドリュー・クロス]]を重ね合せた[[ユニオン・フラッグ]]を1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。 |
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また、イングランド国王就任時から[[アイルランド王国|アイルランド]]は植民地となっており、植民地アイルランドの統一政策も行い、特にフランシス・ベーコンは植民政策に対しての著作を残している(『随筆集』第33編「植民について」より){{sfn|ベンジャミン・ファリントン|松川七郎|中村恒矩|1968|p=63-64}}{{sfn|成田成寿|2014|p=208-213}}。 |
また、イングランド国王就任時から[[アイルランド王国|アイルランド]]は[[植民地]]となっており、先代からの反乱({{仮リンク|アイルランド九年戦争|en|Nine Years' War (Ireland)}})の首謀者・ティロン伯[[ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)|ヒュー・オニール]]はイングランドに降伏していた([[1607年]]に逃亡)。それを踏まえてジェームズ1世は[[1608年]]から[[1610年]]まで、アイルランド北部[[アルスター]]地方へ[[ジェントリ]]を通じてイングランド人・スコットランド人の入植を行った。[[ロンドンデリー]]はそうした入植で出来た植民地都市である。植民地アイルランドの統一政策も行い、入植でカトリックの先住民から土地を奪いプロテスタントの入植者へ入れ替え、カトリックを公職に就かせず、カトリックの有力貴族の家系で幼少の[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]](後の[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド伯爵]])を引き取りプロテスタントに養育、[[1613年]]の[[アイルランド議会 (1297-1800)|アイルランド議会]]庶民院の選挙介入も行い、プロテスタントがカトリックより人数を上回るようにした。特にフランシス・ベーコンは植民政策に対しての著作を残している(『随筆集』第33編「植民について」より){{sfn|ベンジャミン・ファリントン|松川七郎|中村恒矩|1968|p=63-64}}{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=127}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=771,773}}{{sfn|山本正|2002|p=127-129,137,147}}{{sfn|成田成寿|2014|p=208-213}}。 |
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==== 外交政策 ==== |
==== 外交政策 ==== |
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1606年には、[[北アメリカ]]海岸に |
1606年には、[[北アメリカ]]海岸に植民地を建設する目的で、[[ジョイント・ストック・カンパニー]]の[[バージニア会社]]に[[勅許会社|勅許]]を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]の建設を進め、ロンドンからの移住者が中心になりイングランド人の植民地建設が進んだ。[[1620年]]のピューリタン([[ピルグリム・ファーザーズ]])による[[メイフラワー号]]も有名である{{sfn|今井宏|1990|p=130-131}}。 |
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エリザベス1世時代に敵対していたスペインとは1604年の{{仮リンク|ロンドン条約 (1604年)|label=ロンドン条約|en|Treaty of London (1604)}}で和解した。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていた[[オスマン帝国]]に対しては[[キリスト教徒]]としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118}}{{sfn|竹田いさみ|2011|p=115}}。 |
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとはソールズベリー伯の主導で1604年の{{仮リンク|ロンドン条約 (1604年)|label=ロンドン条約|en|Treaty of London (1604)}}で和解した。これには、スペインとフランスの調停者としての役割がジェームズ1世に期待されたからで、国王も期待に応え調停者であることをアピールした{{sfn|岩井淳|2015|p=27-28}}。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていた[[オスマン帝国]]に対しては[[キリスト教徒]]としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118}}{{sfn|竹田いさみ|2011|p=115}}。 |
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ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス1世時代に[[イギリス東インド会社|東インド会社]]が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった){{sfn|竹田いさみ|2011|p=113}}。1613年には[[ジャワ島]]のバンテンに商館を持っていて、日本にいる[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていた[[ジョン・セーリス]]が日本に行き、[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]親子と交渉して、[[平戸市|平戸]]に[[イギリス商館]]を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在も[[ロンドン塔]]に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/John_Saris|title=john saris|accessdate=2020.6.3|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>--><ref>{{Cite web|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf|title=日英交流400周年|accessdate=2020.6.03|publisher=}}</ref>。日本の工芸品などで初のイングランド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど){{sfn|大江一道|1988|p=181-182}}だったため、[[1623年]]の[[アンボイナ事件]]以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された){{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=119}}。 |
ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス1世時代に[[イギリス東インド会社|東インド会社]]が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった){{sfn|竹田いさみ|2011|p=113}}。1613年には[[ジャワ島]]のバンテンに商館を持っていて、日本にいる[[ウィリアム・アダムス|三浦按針]]から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていた[[ジョン・セーリス]]が日本に行き、[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]親子と交渉して、[[平戸市|平戸]]に[[イギリス商館]]を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在も[[ロンドン塔]]に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/John_Saris|title=john saris|accessdate=2020.6.3|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>--><ref>{{Cite web|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/c_mailmagazine/201302_2/2-4.pdf|title=日英交流400周年|accessdate=2020.6.03|publisher=}}</ref>。日本の工芸品などで初のイングランド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど){{sfn|大江一道|1988|p=181-182}}だったため、[[1623年]]の[[アンボイナ事件]]以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された){{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=119}}{{sfn|小林幸雄|2007|p=135-136}}。 |
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インド周辺のコーヒー貿易は、1606年末の東インド会社第三船団の際には計画されているが、貿易拠点作りのための商館建設交渉は長引き、[[1619年]]に東インド会社の巧みな外交によって[[モカ]]港の入港の許可に成功している。これによりコーヒーの大量買い付けが可能になっている{{sfn|竹田いさみ|2011|p=151-155}}。 |
インド周辺のコーヒー貿易は、1606年末の東インド会社第三船団の際には計画されているが、貿易拠点作りのための商館建設交渉は長引き、[[1619年]]に東インド会社の巧みな外交によって[[モカ]]港の入港の許可に成功している。これによりコーヒーの大量買い付けが可能になっている{{sfn|竹田いさみ|2011|p=151-155}}。 |
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スペインとの和睦に関係して、海軍の弱体化を招いたことは威信の失墜に繋がり、平和主義に則りスペインを苦しめた私掠船の禁止と、財政難のため海軍費用を削減して艦隊整備を怠り、水兵のリストラなど軍縮を行う一方、王立艦隊をイングランド周辺海域の警戒に当たらせた。しかし衰微した海軍では任務が失敗することが多く、[[イギリス海峡]]を渡る外国船は旗を降ろさず、外国船が海域に侵入し船を襲うこともあった。[[北アフリカ]]から[[バルバリア海賊]]も侵入、船の略奪・誘拐が続いても海軍は手も足も出ず、1620年から[[1621年]]にかけて敢行された[[アルジェ]]遠征も失敗、ジェームズ1世の理想主義的平和政策が海上で失敗したことが明らかになった。歴史家[[ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン]]はジェームズ1世が海軍を無視したことを厳しく批判している{{sfn|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|大野真弓|1974|p=118-119}}{{sfn|小林幸雄|2007|p=129-134}}。 |
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1613年、娘エリザベスを[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と政略結婚させた。国教会とプロテスタントの連携を目指したもので、「[[テムズ川]]と[[ライン川]]の合流」とまで言われる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Stuart,_Queen_of_Bohemia|title=elizabeth stuart|accessdate=2020.06.03|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。 |
1613年、娘エリザベスを[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と政略結婚させた。国教会とプロテスタントの連携を目指したもので、「[[テムズ川]]と[[ライン川]]の合流」とまで言われる<!--<ref>{{Cite web|url=https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Stuart,_Queen_of_Bohemia|title=elizabeth stuart|accessdate=2020.06.03|publisher=英語版ウィキペディア}}</ref>-->。 |
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ジェームス1世は、スコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって[[イギリスの議会|議会]]に諮らずに、[[関税]]を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。[[1610年]]、ソールズベリー伯が財政再建策として[[大契約]]を議会に提出した。議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった。 |
ジェームス1世は、スコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって[[イギリスの議会|議会]]に諮らずに、[[関税]]を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。[[1610年]]、ソールズベリー伯が財政再建策として[[大契約]]を議会に提出した。議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった。 |
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危機的な王庫の困窮を少しでも緩和するため、1611年にはアイルランド北部 |
危機的な王庫の困窮を少しでも緩和するため、1611年にはアイルランド北部アルスター地方の植民者を守り、アイルランド人の反乱に備える軍隊の費用を捻出するため、購入が可能な新位階としてイングランド[[準男爵]]位を創設した。[[1619年]]にはアイルランドでも販売を開始した(ジェームズ1世の崩御後にはスコットランドでも準男爵の販売が開始される){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=57}}。 |
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=== 絶対王政時代 === |
=== 絶対王政時代 === |
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[[1614年]]からは国王の統一政策への反対の声が強くなったり、財政の逼迫にもかかわらず議会から十分な課税ができないことなど、議会を自らの首を絞める存在として強く意識するようになり、議会を7年ほど開催しなくなる<ref name=":0" />。 |
[[1614年]]からは国王の統一政策への反対の声が強くなったり、財政の逼迫にもかかわらず議会から十分な課税ができないことなど、議会を自らの首を絞める存在として強く意識するようになり、議会を7年ほど開催しなくなる<ref name=":0" />。 |
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[[1618年]]に勃発した[[三十年戦争]]において、プファルツ選帝侯[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]はその当事者となったが、 |
[[1618年]]に勃発した[[三十年戦争]]において、プファルツ選帝侯[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]はその当事者となったが、1621年には完全に[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]側に押され、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]に亡命する事態になっていた。そのためジェームズ1世は、娘婿を助けようと7年ぶりに議会を開き、資金を集めようとした<ref name=":0" />。このとき中心的に動いた人物としてベーコンがおり、それが故にベーコンは失脚の憂き目に会う。 |
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[[1622年]]には[[ホワイトホール宮殿]]の拡張を実施し、[[イニゴ・ジョーンズ]]の設計による[[バンケティング・ハウス]]を完成させた。 |
[[1622年]]には[[ホワイトホール宮殿]]の拡張を実施し、[[イニゴ・ジョーンズ]]の設計による[[バンケティング・ハウス]]を完成させた。 |
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* 森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。 |
* 森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。 |
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* [[大江一道]]『世界と日本の歴史⑥』[[大月書店]]、1988年。 |
* [[大江一道]]『世界と日本の歴史⑥』[[大月書店]]、1988年。 |
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* [[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』[[山川出版社]]、1990年。 |
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* [[塚田富治]]『イギリス思想叢書2 ベイコン』[[研究社|研究社出版]]、1996年。 |
* [[塚田富治]]『イギリス思想叢書2 ベイコン』[[研究社|研究社出版]]、1996年。 |
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* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。 |
* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。 |
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* [[度会好一]]『魔女幻想 <small>呪術から読み解くヨーロッパ</small>』中央公論新社([[中公新書]])、1999年。 |
* [[度会好一]]『魔女幻想 <small>呪術から読み解くヨーロッパ</small>』中央公論新社([[中公新書]])、1999年。 |
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* {{Cite book|和書|author=[[青木道彦]]|date=2000年|title=エリザベス一世 大英帝国の幕開け|series=[[講談社現代新書]]1486|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4120040290|ref=青木(2000)}} |
* {{Cite book|和書|author=[[青木道彦]]|date=2000年|title=エリザベス一世 大英帝国の幕開け|series=[[講談社現代新書]]1486|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4120040290|ref=青木(2000)}} |
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* {{Cite book|和書|author1=[[松村赳]] |author2=[[富田虎男]]|date=2000年|title=英米史辞典|publisher= |
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* 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 <small>かれらは我らの同時代人</small>』[[みすず書房]]、2001年。 |
* 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 <small>かれらは我らの同時代人</small>』[[みすず書房]]、2001年。 |
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* [[山本正 (歴史学者)|山本正]]『「王国」と「植民地」 <small>近世イギリス帝国のなかのアイルランド</small>』[[思文閣出版]]、2002年。 |
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* [[木村俊道]]『顧問官の政治学 <small>フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド</small>』[[木鐸社]]、2003年。 |
* [[木村俊道]]『顧問官の政治学 <small>フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド</small>』[[木鐸社]]、2003年。 |
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* 小林幸雄『図説イングランド海軍の歴史』[[原書房]]、2007年。 |
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* [[石井美樹子]]『エリザベス <small>華麗なる孤独</small>』中央公論新社、2009年。 |
* [[石井美樹子]]『エリザベス <small>華麗なる孤独</small>』中央公論新社、2009年。 |
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* [[竹田いさみ]]『世界史をつくった海賊』[[筑摩書房]]([[ちくま新書]])、2011年。 |
* [[竹田いさみ]]『世界史をつくった海賊』[[筑摩書房]]([[ちくま新書]])、2011年。 |
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* 『ベーコン 随筆集』[[成田成寿]]訳、中央公論新社([[中公クラシックス]])、2014年。 |
* 『ベーコン 随筆集』[[成田成寿]]訳、中央公論新社([[中公クラシックス]])、2014年。 |
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* [[小林麻衣子]]『近世スコットランドの王権 <small>-ジェイムズ六世と「君主の鑑」-</small>』[[ミネルヴァ書房]]、2014年。 |
* [[小林麻衣子]]『近世スコットランドの王権 <small>-ジェイムズ六世と「君主の鑑」-</small>』[[ミネルヴァ書房]]、2014年。 |
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* [[岩井淳 (歴史学者)|岩井淳]]『ピューリタン革命の世界史 <small>―国際関係のなかの千年王国論―</small>』ミネルヴァ書房、2015年。 |
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* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(下) <small>清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで</small>』中央公論新社(中公新書)、2015年。 |
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(下) <small>清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで</small>』中央公論新社(中公新書)、2015年。 |
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2021年3月7日 (日) 09:44時点における版
ジェームズ6世 / ジェームズ1世 James VI / James I | |
---|---|
スコットランド王 / イングランド王 | |
| |
在位 |
1567年7月24日 - 1625年3月27日(スコットランド王) 1603年7月24日 - 1625年3月27日(イングランド王) |
戴冠式 |
1567年7月29日(スコットランド王) 1603年7月25日(イングランド王) |
別号 |
アイルランド王 グレートブリテン王(非公式) |
全名 | チャールズ・ジェームズ・ステュアート |
出生 |
1566年6月19日 スコットランド王国、エディンバラ城 |
死去 |
1625年3月27日 イングランド王国、シーアボールズ宮殿 |
埋葬 |
1625年5月7日 イングランド王国、ウェストミンスター寺院 |
王太子 | チャールズ1世 |
配偶者 | アン・オブ・デンマーク |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ステュアート家 |
王朝 | ステュアート朝 |
父親 | ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート |
母親 | スコットランド女王メアリー1世 |
ジェームズ6世(James VI)およびジェームズ1世(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James Stuart, 1566年6月19日 - 1625年3月27日)は、ステュアート朝のスコットランド、イングランド、アイルランドの王。
スコットランド王としてはジェームズ6世(在位:1567年7月29日 - 1625年3月27日)であり、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年7月25日 - 1625年3月27日)である。非公式にはグレートブリテン王の称号も用いた[1]。スコットランド女王メアリーと2番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの一人息子である。
イングランドとスコットランドの王位を初めて一身に兼ねた君主であり、各国との協調政策に尽力し「平和王」とも言われている。この後ヨーロッパで広がる「王権神授説」の基礎を作った。ただ、国王と王妃の出費から財政的には逼迫させ、議会と最終的には対立してしまう[2]。
生涯
出生と血筋
チャールズ・ジェームズは1566年6月19日、スコットランド女王メアリーの第1子としてエディンバラ城で生まれた。名付け親はイングランド女王エリザベス1世である。メアリー女王の最初の男子であり、誕生後間もなくロスシー公に叙され、正式にスコットランド王位継承者とされた。女系継承ではあるが、ジェームズの父親でメアリーの2番目の夫であるオールバニ公ヘンリー・ステュアート(ダーンリー卿)もまたステュアート家の一族であり、ジェームズ以降の家系もそれまでと区別なくステュアート家と呼ばれる。
ダーンリー卿の家系はステュアート・オブ・ダーンリー家と呼ばれ、男系ではステュアート朝以前に後の王家と分かれており、ロバート2世の祖父である第5代王室執事長ジェームズ・ステュアートの弟の子孫であった。ダーンリー卿は生得の権利として有力な王位継承権を持っていたが、これは父方の曾祖母エリザベス・ハミルトン(Elizabeth Hamilton)がジェームズ2世の外孫であったことによる。
またジェームズは有力なイングランド王位継承権者でもあったが、これは母方の祖父ジェームズ5世がヘンリー8世の姉マーガレット・テューダー(エリザベス1世の伯母)の息子であったことによる。さらに、マーガレット・テューダーはダーンリー卿の母方の祖母でもあった[3][4]。
スコットランド時代
相次ぐ摂政の死と誘拐
1567年2月10日、ジェームズが1歳の誕生日を迎える以前に、父ダーンリー卿は不審な死を遂げ、母メアリーとは引き離された。母は父の殺害事件の首謀者と疑われた第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと同年5月15日に再々婚したことでスコットランド貴族の怒りを買い、7月24日に母は廃位されボスウェル伯は亡命、ジェームズは5日後の7月29日に1歳1か月でスコットランド王位に就いた。メアリーは翌1568年に再起を図ったが失敗しイングランドへ亡命、以後1587年に処刑されるまでジェームズ6世と会うことはなかった。即位後、メアリー側の勢力とジェームズ6世を擁した勢力との間で、内戦が5年ほどの間続いた(メアリアン内戦)。この内戦は1573年にイングランドがスコットランドへ援軍を派遣して介入、メアリー派が籠城するエディンバラ城をジェームズ6世派が落とし残党を処刑することによって終息した[5][6][7][8][9]。
ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることはなかった。最初の摂政はメアリーの庶出の兄で王の母方の伯父に当たる初代マリ伯爵ジェームズ・ステュアートであったが、1570年にメアリーの支持者によって暗殺された。次いで、ダーンリー卿の父で王の父方の祖父に当たるレノックス伯マシュー・ステュアートが摂政となったが、この祖父も1571年に国内の紛争で殺害された。マリ伯の母方の伯父で3人目の摂政となったマー伯爵ジョン・アースキンも1572年に死去し、王の祖母マーガレット・ダグラスの従弟に当たるモートン伯爵ジェイムズ・ダグラスが最後に摂政となった[7][10][11][12]。
1570年にマリ伯が暗殺された後頃から、ジェームズ6世の家庭教師としてジョージ・ブキャナンとピーター・ヤングがついている。ブキャナンは政治に携わり、1579年頃までジェームズ6世のもとにいたと言われるブキャナンは、カトリックに基づく王権神授説でなく、プロテスタントに基づく制限された国王論を教えようとしたとも言われている。ジェームズ6世はブキャナンから語学・天文学・数学・歴史・修辞学などを、ヤングからは歴史・神話・地理・医学などを教わり、ギリシャ・ローマの学問を重視した人文主義的教育を受けて、語学に堪能で博学を誇る君主へと成長した。ただしブキャナンに対する感情は複雑で、英才教育に感謝しながらも短気で教育は厳しい上、よく体罰を与えることもあり母を憎むあまり罪を吹き込むブキャナンを恐れていた。一方、自分に同情的で優しいヤングの方は気に入り、後に結婚のためデンマークに派遣する使者に選んでいる[13][14]。
1579年、ジェームズ6世が成人の統治者となったことを祝う式典が行われた。この時以降、主な居所をそれまでのスターリング城からエディンバラ城に移すようになった[15]。
同年、13歳のジェームズ6世はフランス帰りのオウビーニュイ卿エズメ・ステュアート(父方の従叔父に当たり、後にレノックス公爵に叙爵)に魅了され、彼を寵愛した(ジェームズ6世は男色家=ホモセクシュアルで知られている)。邪魔になったモートン伯は、レノックス公の謀略でダーンリー卿殺害に関与したとして1581年1月に処刑されたが、ジェームズ6世の寵臣政治はスコットランド貴族達の反発を招き、翌1582年8月に初代ガウリ伯ウィリアム・リヴァンの計略によりジェームズ6世は誘拐、リヴァン城に軟禁された(リヴァンの襲撃)。レノックス公も逮捕され12月にフランスへ逃亡した[注釈 1][7][17][18][19]。ガウリ伯はプロテスタント貴族で、ジェームズ6世に対するフランスやカトリックの影響、母のイングランドからの帰還を妨げようとしたらしい。
親政
翌1583年6月、別の側近のアラン伯爵ジェイムズ・ステュアートやパトリック・グレイらの支援でリヴァン城からの脱走に成功したジェームズ6世は、1584年にガウリ伯を処刑し、直接統治を行うこととした(アラン伯も1585年に政争に敗れジョン・メイトランドやグレイがジェームズ6世の側近に収まる)[20][21][22]。
親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は長老派の影響が強く、アンドリュー・メルヴィルらは「聖職者の任命は国王ではなく長老会議によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アクト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制(監督制)を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることとした。さらに、1598年には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の司教にスコットランド議会議員同様の立法活動を許すこととした[7][23][24]。
1586年、ジェームズ6世はイングランドとベリック条約を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、1588年にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)。一方でイングランドと対立していたスペインにも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的にアルマダの海戦でイングランドが勝利)。またエリザベス1世の寵臣・エセックス伯ロバート・デヴァルーにも接触している[7][25][26]。
1589年、カトリック教徒のハントリー伯爵ジョージ・ゴードンにスペインと密約を交わした容疑が上がったが、寛大な処置で済ませた[27]。同年、デンマーク=ノルウェーの王フレゼリク2世(フレデリク2世)の娘アンナ(アン)と結婚した[7]。フレデリク2世はティコ・ブラーエを支援した国王で、当時は亡くなっていたが、ジェームズ6世はデンマークでブラーエと会っている。翌1590年、国王の乗船が嵐に巻き込まれて沈没寸前になる出来事が起きたが、これに関して国王に反対する勢力が雇った黒魔術師による国王暗殺計画があったとして、70名の女性が逮捕される魔女狩り騒動が起きている (North Berwick witch trials) 。国王自ら参加し、後に自身の著書『悪魔学(デモノロジー)』の冒頭にこの事件を記述している。この裁判は、デンマークで行われていたものをジェームズ6世が初めてスコットランドに持って来て行った裁判で、魔女に「国王はサタンが相手する世界最大の強敵」「かの人は神の人」と証言させることで、国王の神性を高めるための目的もあったという[注釈 2][31]。また『悪魔学』を通して、この裁判からシェイクスピアが影響を受けて『マクベス』が書かれたともいわれる。
ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』(1598年)という論文を書いて王権神授説を唱えた。ここでいう「自由なる君主国」とは、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である[注釈 3]。さらに1599年には『バシリコン・ドーロン(古代ギリシア語で「王からの贈り物」の意味)』を著述し、国王から長男ヘンリーに向けた手紙という形式で君主論を論じている。国王は政治の主題とするテーマに精通しているべきや、世界史・数学・軍事についての教養の必要性、スピーチは分かりやすい表現でなど、良き君主になるための自身の経験や教訓によって書かれている[33]。この本はその後、ヘンリーの弟で次男チャールズ1世にも読ませている。
また1596年、娘のエリザベスが生まれるが、この頃にはエリザベス1世後のイングランド王位継承を意識しており、敬意をこめて女王の名を取って娘に付けている(さらにその娘にもエリザベスの名が引き継がれ、この孫娘はデカルトの教え子になっている)。
1600年、処刑したガウリ伯の遺児である第3代ガウリ伯ジョン・リヴァンとアレクサンダー・リヴァン兄弟の屋敷を訪問、そこで監禁されたが家臣達に救出され、ガウリ伯兄弟はジェームズ6世と共に監禁された小姓に刺殺された。この事件については謎が多く、ガウリ伯に多額の借金を負っていたジェームズ6世が帳消しを狙った陰謀とも、政敵排除に一芝居打ったとも言われ真相ははっきりしていない[7][34]。同年のクリスマスにイングランドのエセックス伯から送られた手紙でクーデターをけしかけられているが、彼が翌1601年に無謀な反乱を起こして処刑されると、政敵の国王秘書長官ロバート・セシルを文通相手に切り替え、彼の助言でエリザベス1世亡き後のイングランド王位に希望を持ち、将来のイングランド統治に役立つ知識を得て文通を続けていった[35][36]。
イングランド王位継承
イングランド王即位
1603年3月に入るとエリザベス1世が重体となり、セシルは女王崩御に備え、3月19日にジェームズ6世に彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて、王位継承準備を整えた(エリザベス1世がジェームズ6世への王位継承を認めていたかどうかは不明)。5日後の3月24日にエリザベス1世は崩御し、ジェームズ6世は4月にエディンバラを出発、ロンドンで熱狂的な歓迎を受け7月25日に戴冠、同君連合でイングランド王ジェームズ1世となった。平穏な王位継承を迎えるための政治工作に尽力したセシルには翌1604年にソールズベリー伯爵を叙爵、1608年に大蔵卿に任命して報い、ソールズベリー伯の従兄のフランシス・ベーコンもナイト叙爵と特命の学識顧問官任命で助言者に迎え入れた[37][38][39][40][41]。
これがイングランドにおけるステュアート朝の幕開けとなり、以後イングランドとスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国となるまで、共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとることとなる。イギリス史ではこれを王冠連合と呼ぶ。イングランドの宮廷生活に満足したジェームズ1世は、その後スコットランドには1度しか帰ることがなかった[注釈 4]。
スコットランド遠隔支配
以後スコットランドは遠隔支配することになり、複数の側近を派遣して「ロンドンに在ってスコットランドをペンで治める」旨を伝えた。権力集中を避けるため3人がスコットランドを治める体制を作り、議会で権力が制限されがちなイングランドよりは効果的な体制だったが、国王の目が届かないため圧政や腐敗が広がった[注釈 5][44]。
特にジョージ・ヘリオット、トマス・ハミルトン、アーガイル伯爵アーチボルド・キャンベルが権勢を振るい、ヘリオットはイングランドで浪費して金に困ったスコットランド貴族やジェームズ1世に土地と引き換えに金を工面し、スコットランド最大の地主に成り上がりジョージ・ヘリオット学校設立など慈善事業に捧げた。ハミルトンはガウリ伯兄弟の遺体を裁判にかけ大逆罪を下したことで一族共々出世しハディントン伯爵も与えられた。一方アーガイル伯は対立していたマクレガー氏族を大勢惨殺したり、他の氏族にも強引にイングランド文明を押し付けたりしていた[45]。
スコットランドでは宗教問題が未解決で、ジェームズ1世がイングランドに移ってからも監督制を支持する国王と長老制を堅持する長老派教会との対立が続いていた。ジェームズ1世は1606年にアンドリュー・メルヴィルを追放、1618年にはパースで監督制を強化したパース5箇条を押し付けたが、後に一部緩和してそれ以上宗教に介入しなかった。またこの間の1617年にジェームズ1世は1度スコットランドへ帰国しているが、イングランド人廷臣を大勢連れて贅沢三昧と狩猟に明け暮れたためスコットランド人に不評だった[46][47][48]。
議会に対して
ジェームズ1世はエリザベス体制を継続するという暗黙の条件でやってきていたため、ソールズベリー伯やベーコンを助言者として重用し続けた一方、先代の寵臣の1人だったウォルター・ローリーは特権を取り上げて投獄している[37]。ただしこの時、ソールズベリー伯などジェームズ1世によって重用されたり援助した者の多くは貴族院での仕官だったため、庶民院で国王側の者が少なくなった。当時、貴族院と庶民院はそれぞれその院内の者しか発言権がなかったため、後々になってジェームズ1世は議会に対して不利になっていく[2]。
ただ、ジェームズ1世は議会を無視して王権を振るった印象が強いが、イングランド王位継承直後は「議会との協調」を発言し、エリザベス1世に比べても議会を開催した回数は少なくなく、8期会(36か月)行っている[2]。
宗教政策
1604年、ジェームズ1世はハンプトン・コート宮殿にイングランド国教会やピューリタンなど宗教界の代表者たちを招いて会議を行った(ハンプトン・コート会議)。この中でジェームズ1世は、カトリックとピューリタンの両極を排除することを宣言したが、これによりカトリックとピューリタンの両方から反感を買うことになった[49][50]。
翌1605年にはガイ・フォークスらカトリック教徒による、国王・重臣らを狙った爆殺未遂事件(火薬陰謀事件)が起こった。なお、1611年に刊行された欽定訳聖書は、ジェームズ1世の命により国教会の典礼で用いるための標準訳として翻訳されたものである(この欽定訳聖書を作るための組織メンバーにランスロット・アンドリューズなどがおり、フランシス・ベーコンに代表される科学と宗教の両立的発展があった知的なメンバーの集いにもなった)[51][52]。
連合統一政策
ジェームズ1世はイングランドとスコットランドの統一を熱望したが、両政府は強硬に反対し続けた(そのためスコットランドではカルヴァン派の長老派、イングランドでは国教会とそれぞれ違う宗教を認めた)。一方でジェームズ1世は、統一に向けて自分が影響を与えられることは行った。第一に1604年10月20日の布告で「グレートブリテン王」(King of Great Britain)と自称し[1]、第二に新しい硬貨「ユナイト」(the Unite)を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用させた。最も重要なことは、イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを1606年4月12日に制定したことである。新しい旗の意匠は他にも5種類ほど提案されたが、他の案は重ね合せではなく組合わせたものであったり、イングランド旗部分が大きいものであったりしたため、ジェームズ1世は「統一を象徴しない」として却下した。
また、イングランド国王就任時からアイルランドは植民地となっており、先代からの反乱(アイルランド九年戦争)の首謀者・ティロン伯ヒュー・オニールはイングランドに降伏していた(1607年に逃亡)。それを踏まえてジェームズ1世は1608年から1610年まで、アイルランド北部アルスター地方へジェントリを通じてイングランド人・スコットランド人の入植を行った。ロンドンデリーはそうした入植で出来た植民地都市である。植民地アイルランドの統一政策も行い、入植でカトリックの先住民から土地を奪いプロテスタントの入植者へ入れ替え、カトリックを公職に就かせず、カトリックの有力貴族の家系で幼少のジェームズ・バトラー(後のオーモンド伯爵)を引き取りプロテスタントに養育、1613年のアイルランド議会庶民院の選挙介入も行い、プロテスタントがカトリックより人数を上回るようにした。特にフランシス・ベーコンは植民政策に対しての著作を残している(『随筆集』第33編「植民について」より)[53][54][55][56][57]。
外交政策
1606年には、北アメリカ海岸に植民地を建設する目的で、ジョイント・ストック・カンパニーのバージニア会社に勅許を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。ジェームズタウンの建設を進め、ロンドンからの移住者が中心になりイングランド人の植民地建設が進んだ。1620年のピューリタン(ピルグリム・ファーザーズ)によるメイフラワー号も有名である[58]。
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとはソールズベリー伯の主導で1604年のロンドン条約で和解した。これには、スペインとフランスの調停者としての役割がジェームズ1世に期待されたからで、国王も期待に応え調停者であることをアピールした[59]。だが、その一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国に対してはキリスト教徒としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームス1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった[60][61]。
ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス1世時代に東インド会社が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった)[62]。1613年にはジャワ島のバンテンに商館を持っていて、日本にいる三浦按針から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていたジョン・セーリスが日本に行き、徳川家康・秀忠親子と交渉して、平戸にイギリス商館を築いている。また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在もロンドン塔に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい[63]。日本の工芸品などで初のイングランド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど)[64]だったため、1623年のアンボイナ事件以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された)[65][66]。
インド周辺のコーヒー貿易は、1606年末の東インド会社第三船団の際には計画されているが、貿易拠点作りのための商館建設交渉は長引き、1619年に東インド会社の巧みな外交によってモカ港の入港の許可に成功している。これによりコーヒーの大量買い付けが可能になっている[67]。
スペインとの和睦に関係して、海軍の弱体化を招いたことは威信の失墜に繋がり、平和主義に則りスペインを苦しめた私掠船の禁止と、財政難のため海軍費用を削減して艦隊整備を怠り、水兵のリストラなど軍縮を行う一方、王立艦隊をイングランド周辺海域の警戒に当たらせた。しかし衰微した海軍では任務が失敗することが多く、イギリス海峡を渡る外国船は旗を降ろさず、外国船が海域に侵入し船を襲うこともあった。北アフリカからバルバリア海賊も侵入、船の略奪・誘拐が続いても海軍は手も足も出ず、1620年から1621年にかけて敢行されたアルジェ遠征も失敗、ジェームズ1世の理想主義的平和政策が海上で失敗したことが明らかになった。歴史家ジョージ・マコーリー・トレヴェリアンはジェームズ1世が海軍を無視したことを厳しく批判している[68][69]。
1613年、娘エリザベスをプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と政略結婚させた。国教会とプロテスタントの連携を目指したもので、「テムズ川とライン川の合流」とまで言われる。
財政の逼迫と議会との関係悪化
ジェームス1世は、スコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出した。さらに王妃アンの浪費(後述)によって国家財政は逼迫してしまうことになった。このため、国王大権をもって議会に諮らずに、関税を大商人たちに請け負わせる契約(「大請負」)を締結して、議会との対立を深めた。1610年、ソールズベリー伯が財政再建策として大契約を議会に提出した。議会は1度は同意したが、議会側は国王が絶対王政に走るのではないかとの疑いから、廃案となった。
危機的な王庫の困窮を少しでも緩和するため、1611年にはアイルランド北部アルスター地方の植民者を守り、アイルランド人の反乱に備える軍隊の費用を捻出するため、購入が可能な新位階としてイングランド準男爵位を創設した。1619年にはアイルランドでも販売を開始した(ジェームズ1世の崩御後にはスコットランドでも準男爵の販売が開始される)[70]。
絶対王政時代
1614年からは国王の統一政策への反対の声が強くなったり、財政の逼迫にもかかわらず議会から十分な課税ができないことなど、議会を自らの首を絞める存在として強く意識するようになり、議会を7年ほど開催しなくなる[2]。
1618年に勃発した三十年戦争において、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世はその当事者となったが、1621年には完全に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世側に押され、オランダ共和国に亡命する事態になっていた。そのためジェームズ1世は、娘婿を助けようと7年ぶりに議会を開き、資金を集めようとした[2]。このとき中心的に動いた人物としてベーコンがおり、それが故にベーコンは失脚の憂き目に会う。
1622年にはホワイトホール宮殿の拡張を実施し、イニゴ・ジョーンズの設計によるバンケティング・ハウスを完成させた。
1624年末頃から病気がちとなり、1625年3月27日、ロンドン北郊のシーアボールズ宮殿で崩御した。58歳だった。チャールズ1世が後を継いだ[71]。
ジェームズ1世の家族
子女
デンマーク=ノルウェー王フレゼリク2世の王女アンとの間に3男4女があるが、成人したのは3人であり、さらに子孫を残したのは2人である。
- ヘンリー・フレデリック(1594年 - 1612年) - 王太子(ロスシー公、コーンウォール公、プリンス・オブ・ウェールズ)のまま早世
- エリザベス(1596年 - 1662年) - プファルツ選帝侯フリードリヒ5世妃
- マーガレット(1598年 - 1600年)
- チャールズ(1600年 - 1649年) - イングランド王およびスコットランド王チャールズ1世
- ロバート(1602年)
- メアリー(1605年 - 1607年)
- ソフィア(1607年)
空っぽの頭と言われた王妃
先代のエリザベス1世は倹約家であったことに加えて、本人以外に「王族」を持たなかったために宮廷経費が最低限であったのに対して、ジェームズ1世には既に王妃アンの他に7人の子供たちがおり、宮廷経費の増大は避けられなかった[72]。
特に王妃アンは、金髪が美しい美女であったが、お祭り好きの浪費家で知られた。その浪費癖は既にスコットランド時代から知られており、元々裕福とは言えないスコットランド王室の財政を脅かすほどだった。それはイングランドに移ってからも変わることなく、パーティに舞踏会、そしてイングランド南西部のバースへの大旅行など、その浪費ぶりは凄まじいものがあった。そのため、1619年に王妃が他界すると莫大な負債が残され、ジェームズ1世は悩まされることになった。彼女については「空っぽの頭」(Empty Headed)と言う者までいた[73]。
宮廷経費の増大は国家財政をさらに逼迫させて、清教徒革命(イングランド内戦)に至る国王と議会の対立の最大の原因となる。
ただし最近の研究では、ジェームズ1世の時代はシェイクスピアなど文化的発展の特色がみられた時代で、そのような文化的サロンなどを活発に開き、文化に貢献したと再評価もされている。
ハノーヴァー朝につながる娘
長女エリザベスは、1613年にプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚した。陽気で美しく慈悲の心を持っていた彼女は、イングランドでも非常に人気が高かった。嫁ぎ先のプファルツでも領民たちから「慈愛の王妃」と呼ばれ慕われるほどであった。しかし、ボヘミア・ファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争)で夫が皇帝フェルディナント2世に敗れると、全てを失ってオランダ共和国への亡命を余儀なくされた。1661年にイングランドへ帰り、翌1662年ロンドンで死去した[74]。
ジェームズ1世は1621年に議会を開き、娘夫婦を援助する取り組みを行うが、議会の強い反対によって実現しなかった。後にはスペインとの関係を深めて対処しようとしている[2]。
エリザベスは夫との間には13人の子を儲けたが、うち五女ゾフィーはハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストに嫁いだ。ゾフィー以外の兄姉およびその子孫はゾフィ―よりも早世またはカトリック教徒となったため、ゾフィ―が唯一の王位継承者となった。しかし、ゾフィーがステュアート朝最後の君主アン女王に先立って逝去したため、長男がジョージ1世(ハノーヴァー朝の祖)として即位した。今日の英国王位継承権を保持する人物は、全員がゾフィーの子孫である[75]。
系図
アレグザンダー・ステュアート 王室執事長 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ・ステュアート 王室執事長 | ジョン・ステュアート・オブ・ボンキル | ジョン・オブ・ゴーント ランカスター公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ1世 (1) | ジョーン・ボーフォート | ジョン・ステュアート ローンの黒騎士 | ジョン・ボーフォート サマセット公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
メアリー・オブ・グエルダース | ジェームズ2世 (2) | ジョン・ステュアート アサル伯 | マーガレット・ボーフォート | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マーガレット・オブ・デンマーク | ジェームズ3世 (3) | メアリー・ステュアート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリザベス・ハミルトン | マシュー・ステュアート レノックス伯 | ヘンリー7世 <1> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アントワネット・ド・ブルボン=ヴァンドーム | クロード・ド・ロレーヌ ギーズ公 | ジェームズ4世 (4) | マーガレット・テューダー | アーチボルド・ダグラス アンガス伯 | エリザベス・ステュアート | ジョン・ステュアート レノックス伯 | ジョージ・ダグラス | ヘンリー8世 <2> | メアリー・テューダー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
メアリー・オブ・ギーズ | ジェームズ5世 (5) | マーガレット・ダグラス | マシュー・ステュアート レノックス伯 | ジョン・ステュアート オウビーニュイ卿 | ジェームズ・ダグラス モートン伯 | メアリー1世 <5> | エリザベス1世 <6> | エドワード6世 <3> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ・ステュアート マリ伯 | フランソワ2世 フランス王 | メアリー (6) | ヘンリー・ステュアート ダーンリー卿 | チャールズ・ステュアート レノックス伯 | エズメ・ステュアート レノックス公 | ジェーン・グレイ <4> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジェームズ6世/1世 (7)<7> | アン・オブ・デンマーク | アラベラ・ステュアート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリー・フレデリック ウェールズ公 | フリードリヒ5世 プファルツ選帝侯 | エリザベス | チャールズ1世 (8)<8> | ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール1世ルートヴィヒ プファルツ選帝侯 | ルパート カンバーランド公 | モーリス | ゾフィー | チャールズ2世 (9)<9> | メアリー・ヘンリエッタ | ジェームズ7世/2世 (10)<10> | ヘンリー グロスター公 | ヘンリエッタ・アン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョージ1世 [2] | ウィリアム2世/3世 (11)<11> | メアリー2世 (11)<11> | アン (12)<12>[1] | ジェームズ (大僭称者) | ルイーザ・マリア・テレーザ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
( )はスコットランド王/女王、<>はイングランド王/女王、[ ]はグレートブリテン王/女王の即位順
逸話
- Lianda de Lisleの "After Elizabeth" によれば、7歳までまともに歩けなかったという。フィクションではあるがJean Plaidyの "The Murder in the Tower" でも、5歳まで歩いたことがなかったとされている(常に家臣が抱きかかえて運んだ)。チャールズ1世も歩き出すのが非常に遅かったため、何らかの遺伝病の可能性もある。
- 幼い頃、枢密院の玉座に座っていた際、屋根に穴を発見し「この議会には穴がある」と言ったところ、直後に重臣の一人が暗殺され、予言者との評判を得た。
- 「ブリテンのソロモン王」の異名をとったが、それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に、父親がダーンリーではなく母の秘書のデイヴィッド・リッチオだろう(デイヴィッド=ソロモンの父ダビデのこと)という悪口でもあった。この発言者はフランス王アンリ4世と言われている。また、「最も賢明で愚かな王」という発言もアンリ4世、あるいは彼の側近であるシュリー公マクシミリアン・ド・ベテュヌの物とされる[76][77][78]。
- 男色の愛人をしばしば重用、スコットランド王時代ではレノックス公、イングランド王時代ではブリストル伯、サマセット伯、バッキンガム公が愛人に挙げられる。彼等の存在は深刻なトラブルを招き、レノックス公の場合はリヴァンの襲撃、バッキンガム公は宮廷や議会の派閥抗争、サマセット伯に至っては殺人事件を引き起こしている[7]。
- 『バシリコン・ドーロン』で君主の振る舞いが人々の判断を左右させることを指摘、中庸を主とした質素な食事、テーブルマナーの礼儀正しさ、服装にも気を使うことを忠告している。反面、ジェームズ1世自身の振る舞いはそうした助言とは程遠い物で、礼儀作法が無い野蛮な言動を同時代人に記録されている。しかし人々が優雅な振る舞いに惑わされること、礼儀を人々の意識に植え付けることが秩序維持に役立つことを熟知しており、『バシリコン・ドーロン』は後世において参考にされるほど政治において重要な作品になっていった。また、服装がだらしなく、男色にふけり派手な宮廷生活に汚職とスキャンダルの噂が絶えないにも関わらず、意見を率直に語り家臣には親しみやすく信頼されていた(対するチャールズ1世は父と全く違う性格で、妻子を大切にする家庭人で、質素な宮廷生活を送り、汚職を厳しく取り締まり、寡黙で近寄りがたい人間だった)[79][80]。
- 1601年4月15日にスコーン・ロッジのフリーメイソンに加入している[81]。
- 1613年にジョン・セーリスが船長を務めるクローブ号がジェームズ1世からの書簡と贈呈品をもって日本の長崎、ついで平戸に到着した。当時、将軍職を退いて駿府城にいた徳川家康には望遠鏡(アジアに望遠鏡が伝わるのはこれが初めてだったとも言われる)、江戸にいる将軍徳川秀忠には金のカップとカバーとイングランド製の布地が贈られた。セーリスには、返礼として秀忠から2組の鎧、家康から金屏風が託された。またセーリスは家康の顧問を務めていた英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)の協力を得て、家康から朱印状(貿易許可証)を得て平戸にイギリス商館を開設している。1613年にクローブ号は帰国の途に就き、金屏風と鎧はジェームズ1世に届けられた。これをきっかけにジェームズ1世はアジアに関心を持ち、セーリスの航海日誌を5回も読んだといわれる[82]。
著書
- 『デモノロジー』(1597年)
- 『自由なる君主国の真の法』(1598年)
- 『バシリコン・ドーロン』(1599年)
注釈
- ^ レノックス公はフランスのスパイとされていて、ジェームズ6世の母方の従叔父に当たるギーズ公アンリ1世への手紙でスペインおよびローマ教皇の支持と資金提供でイングランド侵略を図る計画を書き送り、スコットランド・フランスでイングランドを挟み撃ちにする計画が出来上がっていた。それを察知したエリザベス1世はスコットランド貴族にレノックス公失脚を命じたため、政変にはイングランドも一枚噛んでいた[16]。
- ^ この魔女狩りには政治性が付きまとい、ジェームズ6世は母方の従兄に当たる第5代ボスウェル伯フランシス・ステュアートを魔女集会を開いて国王暗殺を謀った容疑で追及、ボスウェル伯を亡命に追いやった。そのため裁判は政敵排除を狙った国王謀略説があり、以後の魔女裁判にジェームズ6世があまり関わらなくなった点からも、国王の裁判の関心は魔女より政敵にあった疑いが有力視されている。また1591年にボスウェル伯がホリールード宮殿へ侵入する事件が起こり、1592年にジェームズ6世の命令でハントリー伯がボスウェル伯の共犯として第2代マリ伯ジェームズ・ステュアートを殺害している。ちなみにハントリー伯はジェームズ6世の計らいでほとぼりが冷めるまで匿われ、解放後は侯爵に昇叙された。一方、ボスウェル伯はジェームズ6世がイングランドへ移ると、亡命先のイタリアからスコットランドへ帰国している[28][29][30]。
- ^ ジェームズ1世は、1609年のイングランド議会でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している[32]。
- ^ 同君連合という都合上紋章を改訂する必要に迫られ、4分割した紋章の盾の左上の位置は優位の位置であり、イングランド・スコットランドどちらの紋章を置くかが問題になった。解決策として新たに2種類の紋章を改訂、イングランドではイングランドの紋章を左上に置いた紋章を、スコットランドではスコットランドの紋章を左上に置いた紋章を使い分けることにした。この伝統は現在も王室に引き継がれている[42]。
- ^ ジェームズ1世がスコットランドに戻らなかった理由はイングランドが居心地が良いから、スコットランドに比べて人口が5倍以上あり、政治・宗教制度・経済などスコットランドより進歩しているイングランドに惹かれた、何度も危機に遭遇したスコットランドよりイングランドが安全だと感じたからと諸説ある[43]。
脚注
- ^ a b 木村俊道 2003, p. 143.
- ^ a b c d e f 君塚直隆 (2015.5.25). 物語 イギリスの歴史(下). 中公新書
- ^ 森護 1988, p. 282.
- ^ 石井美樹子 2009, p. 288,572.
- ^ 森護 1988, p. 285-290,297.
- ^ ナイジェル・トランター & 杉本優 1997, p. 230-235.
- ^ a b c d e f g h 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 369.
- ^ 石井美樹子 2009, p. 336-337,386-387.
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- ^ ナイジェル・トランター & 杉本優 1997, p. 237-239.
- ^ 石井美樹子 2009, p. 360.
- ^ 小林麻衣子 2014, p. 41-42.
- ^ ナイジェル・トランター & 杉本優 1997, p. 240-241.
- ^ 小林麻衣子 2014, p. 36-41,56-58.
- ^ ナイジェル・トランター & 杉本優 1997, p. 241-242.
- ^ 石井美樹子 2009, p. 418-419.
- ^ 森護 1988, p. 298.
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- ^ 小林麻衣子 2014, p. 230-231.
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- ^ 石井美樹子 2009, p. 444-445,491,549.
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- ^ ナイジェル・トランター & 杉本優 1997, p. 247-254.
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- ^ 塚田富治 2001, p. 33-34.
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- ^ a b ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン & 大野真弓 1974, p. 114.
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出典
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- 石井美樹子『エリザベス 華麗なる孤独』中央公論新社、2009年。
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- 岩井淳『ピューリタン革命の世界史 ―国際関係のなかの千年王国論―』ミネルヴァ書房、2015年。
- 君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下) 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで』中央公論新社(中公新書)、2015年。
関連項目
先代 メアリー1世 |
スコットランド王 1567年 - 1625年 |
次代 チャールズ1世 |
先代 エリザベス1世 |
イングランド王 アイルランド王 1603年 - 1625年 |