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セリム3世は[[1761年]]にアブデュルハミト1世とジョージア出身の女性との間にうまれた。[[オスマン家]]には、長らく30年以上も男子が誕生してこなかったため、その誕生は盛大に祝われた。セリムの誕生日は[[木星]]と[[金星]]が重なる吉兆に当たるとされたため、「天運の主」であると予言された。天運の主はかつて[[スレイマン1世]]らに与えられた称号である。セリムは5歳の頃から英才教育をうけ、父[[ムスタファ3世]]が外国の大使を出迎える時には、幼いセリムをともなった。のちに叔父のアブデュル・ハミトが即位したあとも、当初は親切に振る舞われていた。
セリム3世は[[1761年]]に[[ムスタファ3]]とジョージア出身の女性との間にうまれた。[[オスマン家]]には、長らく30年以上も男子が誕生してこなかったため、その誕生は盛大に祝われた。セリムの誕生日は[[木星]]と[[金星]]が重なる吉兆に当たるとされたため、「天運の主」であると予言された。天運の主はかつて[[スレイマン1世]]らに与えられた称号である。セリムは5歳の頃から英才教育をうけ、父[[ムスタファ3世]]が外国の大使を出迎える時には、幼いセリムをともなった。のちに叔父のアブデュル・ハミトが即位したあとも、当初は親切に振る舞われていた。


事態が変わったのは、[[1785年]]で、ロシアがクリミアを併合した責任を問うべく、[[大宰相]]のハリル・ハミト・パシャらが[[アブデュルハミト1世]]を廃してセリムを即位させようとした計画が発覚した。この事件ののちセリムへの監視は厳しくなり、[[窓]]を閉鎖されるという仕打ちを受けた。さらにはセリムへの[[暗殺]]を命じられたられたという女奴隷が送り込まれたという真偽不明の逸話もある。結局女奴隷はセリムに愛情を抱き暗殺できなかったという。この頃のセリムは音楽と芸術にも深く興味を持っており、即位後は積極的に作詞をすることになる。また、1786年頃からフランス王ルイ16世と文通を始めている。
事態が変わったのは、[[1785年]]で、ロシアがクリミアを併合した責任を問うべく、[[大宰相]]のハリル・ハミト・パシャらが[[アブデュルハミト1世]]を廃してセリムを即位させようとした計画が発覚した。この事件ののちセリムへの監視は厳しくなり、[[窓]]を閉鎖されるという仕打ちを受けた。さらにはセリムへの[[暗殺]]を命じられたられたという女奴隷が送り込まれたという真偽不明の逸話もある。結局女奴隷はセリムに愛情を抱き暗殺できなかったという。この頃のセリムは音楽と芸術にも深く興味を持っており、即位後は積極的に作詞をすることになる。また、1786年頃からフランス王ルイ16世と文通を始めている。

2021年2月13日 (土) 01:16時点における版

セリム3世
オスマン帝国第28代皇帝
在位 1789年4月7日 - 1807年5月29日

出生 1762年12月24日
死去 1808年7月28日
家名 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 ムスタファ3世
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セリム3世

セリム3世(Selim III、1762年12月24日 - 1808年7月28日)は、オスマン帝国の第28代皇帝(在位:1789年4月7日 - 1807年5月29日)。第26代皇帝・ムスタファ3世の子。

生涯

即位前

セリム3世は1761年ムスタファ3世とジョージア出身の女性との間にうまれた。オスマン家には、長らく30年以上も男子が誕生してこなかったため、その誕生は盛大に祝われた。セリムの誕生日は木星金星が重なる吉兆に当たるとされたため、「天運の主」であると予言された。天運の主はかつてスレイマン1世らに与えられた称号である。セリムは5歳の頃から英才教育をうけ、父ムスタファ3世が外国の大使を出迎える時には、幼いセリムをともなった。のちに叔父のアブデュル・ハミトが即位したあとも、当初は親切に振る舞われていた。

事態が変わったのは、1785年で、ロシアがクリミアを併合した責任を問うべく、大宰相のハリル・ハミト・パシャらがアブデュルハミト1世を廃してセリムを即位させようとした計画が発覚した。この事件ののちセリムへの監視は厳しくなり、を閉鎖されるという仕打ちを受けた。さらにはセリムへの暗殺を命じられたられたという女奴隷が送り込まれたという真偽不明の逸話もある。結局女奴隷はセリムに愛情を抱き暗殺できなかったという。この頃のセリムは音楽と芸術にも深く興味を持っており、即位後は積極的に作詞をすることになる。また、1786年頃からフランス王ルイ16世と文通を始めている。

即位

1789年、叔父に当たる第27代皇帝・アブデュルハミト1世が死去したため、その跡を継いで皇帝として即位する。

内政改革と外圧

衰退していた王朝の勢力を盛り返すために国家体制の刷新事業に着手した。

内政においては西洋文明を取り入れることでの近代化を目指し、多くの成果を挙げた。しかしロシア帝国ロマノフ朝)との戦いに敗れて1792年ヤッシーの講和を締結することで和睦したが、その代償としてクリミアグルジアにおける領土を割譲せざるを得なくなった。1796年フランスナポレオンエジプト遠征を開始すると、イギリスやロシアと対仏同盟を結んで戦うが、1806年にロシアと再び戦争を開始した。ロシアとの蜜月は結局、ナポレオンという脅威があって結ばれたものであって、領土をめぐって争う両国との間で完全な和睦が成立するわけが無かったのである。[独自研究?]

セリムは満を持して改革に乗り出す。まずセリムは、臣下及び外国の識者に、帝国をいかにして改革するべきかの意見書の提出を求めた。上奏された多くは、スレイマン1世時代への回帰を主張する復古的な物が多かったが中にはロシアを模範にした軍事改革やティマール地の接収や貨幣鋳造など後の帝国の近代改革を先取りした意見もあった。

そして1807年、イェニチェリを廃して西洋式の軍制である「ニザーム・ジェディード」を創設しようとしたため、イェニチェリの反乱によりセリム3世は廃位されてしまい、従弟のムスタファ4世が即位した。

暗殺

しかし、セリム3世の退位によってイスタンブールから退避したセリム3世派の人々は、ブルガリア北部のルーセを支配するアーヤーン(地方名士)・アレムダル・ムスタファ・パシャを頼っていた。彼らの要請を受け入れたアレムダルはセリム3世の復位を掲げて挙兵し、1808年7月にイスタンブールに迫った。

ムスタファ4世はセリム3世の復位によって自身の帝位や命が脅かされることを怖れ、幽閉中のセリム3世を殺害させた。

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