「レオン・ブルム」の版間の差分

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=== 統一社会党の成立 ===
[[1905年]]、[[急進社会党]]が中産階級との接近を強めて社会主義諸勢力の抑圧を図ったことを背景として、諸勢力の結集が促され[[フランス社会党 (SFIO)|統一社会党]](社会党)が成立した。当初よりブルムは社会党に加わり、社会党屈指の論客として活躍した。大戦勃発直前の[[1914年]]、反戦を訴えていたジョレスが狂信的右翼に殺害されるという悲劇を受け、ブルムは社会党内でより主導的な役割を担うようになった。1914年から1916年にかけては、公共事業相となったマルセル・サンバの首席補佐房長を務めた。[[1919年]]の総選挙にパリ東部の選挙区から出馬して当選し、[[1920年]]末のトゥール党大会での社会党分裂とフランス共産党の結党の際には社会党に留まり、以後党のリーダーと目されるようになる。左派が躍進した[[1924年]]の総選挙では再選されるも、[[1928年]]の総選挙では右派が議席を伸ばす中落選。翌29年の補選でフランス南部のオード県[[ナルボンヌ]]から出馬し、下院議員に返り咲いた。以後、1932年と1936年の選挙ではナルボンヌで当選を重ね、[[1940年]]に第3共和制が崩壊するまで下院議員を務めた。
 
[[1917年]]、[[ロシア革命]]によって[[ソビエト連邦|ソ連]]が成立すると、この評価をめぐって社会党は分裂を余儀なくされた。ブルムは[[社会主義]]的な理念を尊重するものの、[[レーニン主義]]、[[ボリシェヴィキ]]独裁を否定する姿勢をとった。一方、ロシア革命を評価してレーニン主義に基づく革命路線を志向する勢力は党を離れ、[[フランス共産党]]を組織することになった。
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