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== 来歴 ==
== 来歴 ==
ケリーはティーンエイジャーのとき [[リズム・アンド・ブルース|R&B]] グループのメンバーとしてプロのキャリアを開始した。レイ・エイブラムズ Ray Abrams 、[[セシル・ペイン]] Cecil Payne 、[[ダイナ・ワシントン]]、[[ディジー・ガレスピー]] <ref>[http://www.downbeat.com/artists/window.asp?action=new&aid=572&aname=Wynton+Kelly ''Wynton Kelly''] - [[w:en:Down Beat|DOWNBEAT]].COM (英語)</ref> と働いた後、[[1959年]]から[[1963年]]には[[マイルス・デイヴィス]]のクインテットのメンバーとなった。彼はデイヴィスの1959年の影響力のあるアルバム『[[カインド・オブ・ブルー]]』のトラック「フレディ・フリーローダー」 "Freddie Freeloader" に[[ビル・エヴァンス]]に替わり(デイヴィスがケリーに、より[[アーマッド・ジャマル]] Ahmad Jamal のようなサウンドを要求し)参加した。同様に[[ジョン・コルトレーン]]の『[[ジャイアント・ステップス]]』のトラック「ネイマ」 "Naima" には[[トミー・フラナガン (ミュージシャン)|トミー・フラナガン]]に替わり参加している。
ケリーはティーンエイジャーのとき [[リズム・アンド・ブルース|R&B]] グループのメンバーとしてプロのキャリアを開始した。[[レイ・エイブラムズ]]、[[セシル・ペイン]]、[[ダイナ・ワシントン]]、[[ディジー・ガレスピー]]<ref>[http://www.downbeat.com/artists/window.asp?action=new&aid=572&aname=Wynton+Kelly ''Wynton Kelly''] - [[w:en:Down Beat|DOWNBEAT]].COM (英語)</ref>と働いた後、[[1959年]]から[[1963年]]には[[マイルス・デイヴィス]]のクインテットのメンバーとなった。彼はデイヴィスの1959年の影響力のあるアルバム『[[カインド・オブ・ブルー]]』収録楽曲「フレディ・フリーローダー」にて、[[ビル・エヴァンス]]に替わり(デイヴィスがケリーに、より[[アーマッド・ジャマル]]のようなサウンドを要求し)参加した。同様に[[ジョン・コルトレーン]]の『[[ジャイアント・ステップス]]』収録楽曲「ネイマ」には[[トミー・フラナガン (ミュージシャン)|トミー・フラナガン]]に替わり参加している。


マイルス・デイヴィスはケリーを、[[レッド・ガーランド]]とビル・エヴァンスの「ハイブリッド」と評した。これは彼のかつてのバンドリーダーによるケリーについての非常に的確な説明で、ケリーは(ガーランドのような)リズム感をベースにしつつ、エヴァンス風に抑制された表現で演奏を行った。
マイルス・デイヴィスはケリーを、[[レッド・ガーランド]]とビル・エヴァンスの「ハイブリッド」と評した。これは彼のかつてのバンドリーダーによるケリーについての非常に的確な説明で、ケリーは(ガーランドのような)リズム感をベースにしつつ、エヴァンス風に抑制された表現で演奏を行った。


大部分のジャズピアニストは、ウイントン・ケリーがこれまでで最もスウィングするジャズピアニストであると見なしている。彼の[[8分音符]]の分析は、彼がスウィングの幅を広く変化させていたことを明らかにしている。時には伝統的なスウィングする8分音符よりも、むしろよりストレートな8分音符に演奏する傾向があり、更には[[ビート (音楽)|ビート]]の「オントップ」で、初期のピアニストの習慣であった「レイドバック」をより少なく演奏した。ケリーはまた、明確な[[演奏記号#アーティキュレーションを示す記号|スタッカート]]のタッチによる均等な8分音符のラインで演奏する傾向がある。この様式上の特徴は、より「モダンな」サウンドのためにこのコンセプトを採用し拡大した[[マッコイ・タイナー]]、[[チック・コリア]]、[[ハービー・ハンコック]]のようなピアニストの方法論を生んだ。
大部分のジャズピアニストは、ウイントン・ケリーがこれまでで最もスウィングするジャズピアニストであると見なしている。彼の[[8分音符]]の分析は、彼がスウィングの幅を広く変化させていたことを明らかにしている。時には伝統的なスウィングする8分音符よりも、むしろよりストレートな8分音符に演奏する傾向があり、更には[[ビート (音楽)|ビート]]の「オントップ」で、初期のピアニストの習慣であった「レイドバック」をより少なく演奏した。ケリーはまた、明確な[[演奏記号#アーティキュレーションを示す記号|スタッカート]]のタッチによる均等な8分音符のラインで演奏する傾向がある。この様式上の特徴は、より「モダンな」サウンドのためにこのコンセプトを採用し拡大した[[マッコイ・タイナー]]、[[チック・コリア]]、[[ハービー・ハンコック]]のようなピアニストの方法論を生んだ。


素晴らしい伴奏者、ウイントン・ケリーは特徴的なソリストでもあった。彼はトリオで[[ブルーノート・レコード|ブルーノート]]のためにレコーディングし([[1951年]])、1951~[[1952年]]の間にダイナ・ワシントン、ディジー・ガレスピー、[[レスター・ヤング]]と働いた。兵役後、ダイナ・ワシントン([[1955年|1955]][[1957年]])、[[チャールズ・ミンガス]]([[1956年|1956]]~1957年)、ディジー・ガレスピー・ビッグバンド(1957年)とともに働いたが、マイルス・デイヴィス(1959~1963年)との期間が最も有名であり、マイルスと『カインド・オブ・ブルー』、『ブラックホークのマイルス・デイビス』 ''At The Blackhawk'' 、『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』 ''Someday My Prince Will Come'' といったアルバムをレコーディングした。ケリーは自身のトリオを結成するために、残りの[[リズム体|リズムセクション]]([[ベーシスト]]: [[ポール・チェンバース]]、[[ドラマー]]: [[ジミー・コブ]])とともにデイヴィスのもとを去った。このトリオは後に[[ウェス・モンゴメリー]]との共演ですばらしい演奏を聴かせた。
素晴らしい伴奏者、ウイントン・ケリーは特徴的なソリストでもあった。彼はトリオで[[ブルーノート・レコード|ブルーノート]]のためにレコーディングし([[1951年]])、1951年から[[1952年]]の間にダイナ・ワシントン、ディジー・ガレスピー、[[レスター・ヤング]]と働いた。兵役後、ダイナ・ワシントン([[1955年]]-[[1957年]])、[[チャールズ・ミンガス]]([[1956年]]-1957年)、ディジー・ガレスピー・ビッグバンド(1957年)とともに働いたが、マイルス・デイヴィス(1959年-1963年)との期間が最も有名であり、マイルスと『カインド・オブ・ブルー』、『ブラックホークのマイルス・デイビス』、『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』といったアルバムをレコーディングした。ケリーは自身のトリオを結成するために、残りの[[リズム体|リズムセクション]]([[ベーシスト]]: [[ポール・チェンバース]]、[[ドラマー]]: [[ジミー・コブ]])とともにデイヴィスのもとを去った。このトリオは後に[[ウェス・モンゴメリー]]との共演ですばらしい演奏を聴かせた。


ケリーは、てんかんの発作によって、1971年4月12日にカナダのトロントにて亡くなった<ref name="Coda">Gardner, Mark (June 1971) "Wynton Kelly". ''Coda''. Volume 10. p. 37.</ref>。
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ケリーのまたいとこシス[[カスミラー]][[1980年代|80年代]][[1990年代|90年代]]マイルス・ヴィスと演奏した。
早世する前にケリーブルーノート[[リバサイドレコド|リバーサイド]][[ヴィージェイ・レコード|ヴィージェイ]][[ヴァーヴ・レコード|ヴァーヴ]]、[[マイルストーンレコード|マトーン]]へ、リーダーしてレコーディングした。

== 私生活 ==
パートナーのアンとケリーには、1963年に娘トレイシーが生まれた。[[レコード#レコードの諸形態|LP]] 『カミン・イン・ザ・バック・ドア』の楽曲「リトル・トレイシー」は、ケリーの娘の名をとって名づけられている。現在トレイシー・マティサックと名乗る彼女は、フィラデルフィア・テレビのパーソナリティを務めている。

ケリーのまたいとこ、ベーシストの[[マーカス・ミラー]]も[[1980年代]]と[[1990年代]]にマイルス・デイヴィスと演奏した。


ピアニストのエリス・マルサリスはケリーに敬意を表し、自分の息子をウィントンと名づけた。その息子は後に活躍するトランペット奏者[[ウィントン・マルサリス]]である。
ピアニストのエリス・マルサリスはケリーに敬意を表し、自分の息子をウィントンと名づけた。その息子は後に活躍するトランペット奏者[[ウィントン・マルサリス]]である。


==ディスコグラフィ==
== ディスコグラフィ ==
=== リーダー・アルバム ===
* 1951 - ''Piano Interpretations By Wynton Kelly'' (Blue Note)
*『ピアノ・インタープリテーションズ・バイ・ウィントン・ケリー』 - ''Piano Interpretations By Wynton Kelly'' (1951年、Blue Note)
* 1951 - Sonny Clark / Wynton Kelly: ''The Immortal Session From Blue Note'' (Blue Note)
* 1958 - ''Wynton Kelly Piano'' (Riverside)
*『ウィスパー・ノット』 - ''Piano'' (1958年、Riverside)
* 1959 - ''Kelly Blue'' (Riverside)
*『ケリー・ブルー』 - ''Kelly Blue'' (1959年、Riverside)
* 1959 - ''Kelly Great'' (Vee-Jay)
*『ケリー・グレイト』 - ''Kelly Great'' (1959年、Vee-Jay)
* 1960 - ''Kelly At Midnight'' (Vee-Jay)
*『ケリー・アット・ミッドナイト』 - ''Kelly at Midnight'' (1960年、Vee-Jay)
* 1960 - ''Alternate Takes Of Fantastic And The Others'' (Vee-Jay)
*『枯葉』 - ''Wynton Kelly!'' (1961年、Vee-Jay)
* 1961 - ''Wynton Kelly!'' (Vee-Jay)
* ''Someday My Prince Will Come'' (1961年、Vee-Jay)
*『カミン・イン・ザ・バック・ドア』 - ''Comin' in the Back Door'' (1963年、Verve)
* 1961 - ''Someday My Prince Will Come'' (Vee-Jay)
*『イッツ・オール・ライト』 - ''It's All Right!'' (1964年、Verve)
* 1961 - ''Alternate Takes Of Wynton Kelly!'' (Vee-Jay)
*『アンダイルーテッド』 - ''Undiluted'' (1965年、Verve)
* 1961 - ''The Complete Vee-Jay Paul Chambers And Wynton Kelly Sessions 1959-61'' (Mosaic)
*『ハーフ・ノートのウェス・モンゴメリーとウィントン・ケリー』 - ''Smokin' at the Half Note'' (1965年、Verve) ※with [[ウェス・モンゴメリー]]
* 1963 - ''Comin' In The Back Door'' (Verve)
*『ブルース・オン・パーパス』 - ''Blues on Purpose'' (1965年、Xanadu)
* 1964 - ''It's All Right!'' (Verve)
*『フル・ヴュー』 - ''Full View'' (1966年、Milestone)
* 1965 - ''Undiluted'' (Verve)
*『インタープリテイションズ』 - ''Interpretations'' (1967年、Vee-Jay)
* 1965 - Wynton Kelly / Wes Montgomery: ''Smokin' At The Half Note'' (Verve)
* ''In Concert'' (1977年、Vee-Jay) ※1968年録音
* 1965 - ''Blues On Purpose'' (Xanadu)
*『イモータル・セッション』 - ''The Immortal Session From Blue Note'' (1980年、Blue Note) ※1958年録音。[[ソニー・クラーク]]とのスプリット・アルバム
* 1965 - Wynton Kelly / Wes Montgomery: ''Smokin' At The Half Note, Vol. 2'' (Verve)
*『枯葉II』 - ''Alternate Takes Of Wynton Kelly!'' (1987年、Vee-Jay) ※1961年録音
* 1966 - ''Full View'' (Milestone)
*『ラスト・トリオ・セッション』 - ''Last Trio Session'' (1988年、Delmark) ※1968年録音
* 1967 - ''Interpretation's By The Wynton Kelly Quartet'' (Vee-Jay)

* 1968 - ''Wynton Kelly On Powertree'' (Delmark)
== 脚注 ==
* 1968 - ''Final Notes'' (Vee-Jay)
{{Reflist}}
* 1968 - ''Wynton Kelly In Concert'' (Vee-Jay)

== 外部リンク ==
* [http://www.jazzdisco.org/wynton-kelly/ Discography at jazzdisco.org]
* [https://web.archive.org/web/20120415175628/http://www1.icnet.ne.jp/au_discography/wk.htm Discography with cover photos]
* [http://www.wyntonkelly.com/ Wynton Kelly at Icons of Jazz]
* {{Discogs artist|252308-Wynton-Kelly}}


==参考文献==
<references/>
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{{DEFAULTSORT:けりい ういんとん}}
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2021年1月19日 (火) 02:52時点における版

ウィントン・ケリー
Wynton Kelly
ウィントン・ケリー(1957年頃)
基本情報
出生名 Wynton Charles Kelly
生誕 (1931-12-02) 1931年12月2日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブルックリン
死没 (1971-04-12) 1971年4月12日(39歳没)
カナダの旗 カナダ
オンタリオ州
トロント
ジャンル ジャズ
担当楽器 ピアノ
レーベル ブルーノート・レコード
ヴァーヴ・レコード
ヴィージェイ・レコード
マイルストーン・レコード
リバーサイド・レコード
共同作業者 マイルス・デイヴィス
ダイナ・ワシントン
ディジー・ガレスピー

ウィントン・ケリーWynton Kelly1931年12月2日 - 1971年4月12日)は、アメリカ合衆国ジャズピアニストジャマイカ移民の息子で、ニューヨーク市ブルックリン生まれ。カナダオンタリオ州トロントにて39歳で死去した。

来歴

ケリーはティーンエイジャーのとき R&B グループのメンバーとしてプロのキャリアを開始した。レイ・エイブラムズセシル・ペインダイナ・ワシントンディジー・ガレスピー[1]と働いた後、1959年から1963年にはマイルス・デイヴィスのクインテットのメンバーとなった。彼はデイヴィスの1959年の影響力のあるアルバム『カインド・オブ・ブルー』収録の楽曲「フレディ・フリーローダー」にて、ビル・エヴァンスに替わり(デイヴィスがケリーに、よりアーマッド・ジャマルのようなサウンドを要求し)参加した。同様にジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』収録の楽曲「ネイマ」にはトミー・フラナガンに替わり参加している。

マイルス・デイヴィスはケリーを、レッド・ガーランドとビル・エヴァンスの「ハイブリッド」と評した。これは彼のかつてのバンドリーダーによるケリーについての非常に的確な説明で、ケリーは(ガーランドのような)リズム感をベースにしつつ、エヴァンス風に抑制された表現で演奏を行った。

大部分のジャズ・ピアニストは、ウイントン・ケリーがこれまでで最もスウィングするジャズピアニストであると見なしている。彼の8分音符の分析は、彼がスウィングの幅を広く変化させていたことを明らかにしている。時には伝統的なスウィングする8分音符よりも、むしろよりストレートな8分音符に演奏する傾向があり、更にはビートの「オントップ」で、初期のピアニストの習慣であった「レイドバック」をより少なく演奏した。ケリーはまた、明確なスタッカートのタッチによる均等な8分音符のラインで演奏する傾向がある。この様式上の特徴は、より「モダンな」サウンドのためにこのコンセプトを採用し拡大したマッコイ・タイナーチック・コリアハービー・ハンコックのようなピアニストの方法論を生んだ。

素晴らしい伴奏者、ウイントン・ケリーは特徴的なソリストでもあった。彼はトリオでブルーノートのためにレコーディングし(1951年)、1951年から1952年の間にダイナ・ワシントン、ディジー・ガレスピー、レスター・ヤングと働いた。兵役後、ダイナ・ワシントン(1955年-1957年)、チャールズ・ミンガス1956年-1957年)、ディジー・ガレスピー・ビッグバンド(1957年)とともに働いたが、マイルス・デイヴィス(1959年-1963年)との期間が最も有名であり、マイルスと『カインド・オブ・ブルー』、『ブラックホークのマイルス・デイビス』、『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』といったアルバムをレコーディングした。ケリーは自身のトリオを結成するために、残りのリズムセクションベーシストポール・チェンバースドラマージミー・コブ)とともにデイヴィスのもとを去った。このトリオは後にウェス・モンゴメリーとの共演ですばらしい演奏を聴かせた。

ケリーは、てんかんの発作によって、1971年4月12日にカナダのトロントにて亡くなった[2]

早世する前にケリーは、ブルーノート、リバーサイドヴィージェイヴァーヴマイルストーンへ、リーダーとしてレコーディングした。

私生活

パートナーのアンとケリーには、1963年に娘トレイシーが生まれた。LP 『カミン・イン・ザ・バック・ドア』の楽曲「リトル・トレイシー」は、ケリーの娘の名をとって名づけられている。現在、トレイシー・マティサックと名乗る彼女は、フィラデルフィア・テレビのパーソナリティを務めている。

ケリーのまたいとこ、ベーシストのマーカス・ミラー1980年代1990年代にマイルス・デイヴィスと演奏した。

ピアニストのエリス・マルサリスはケリーに敬意を表し、自分の息子をウィントンと名づけた。その息子は後に活躍するトランペット奏者ウィントン・マルサリスである。

ディスコグラフィ

リーダー・アルバム

  • 『ピアノ・インタープリテーションズ・バイ・ウィントン・ケリー』 - Piano Interpretations By Wynton Kelly (1951年、Blue Note)
  • 『ウィスパー・ノット』 - Piano (1958年、Riverside)
  • 『ケリー・ブルー』 - Kelly Blue (1959年、Riverside)
  • 『ケリー・グレイト』 - Kelly Great (1959年、Vee-Jay)
  • 『ケリー・アット・ミッドナイト』 - Kelly at Midnight (1960年、Vee-Jay)
  • 『枯葉』 - Wynton Kelly! (1961年、Vee-Jay)
  • Someday My Prince Will Come (1961年、Vee-Jay)
  • 『カミン・イン・ザ・バック・ドア』 - Comin' in the Back Door (1963年、Verve)
  • 『イッツ・オール・ライト』 - It's All Right! (1964年、Verve)
  • 『アンダイルーテッド』 - Undiluted (1965年、Verve)
  • 『ハーフ・ノートのウェス・モンゴメリーとウィントン・ケリー』 - Smokin' at the Half Note (1965年、Verve) ※with ウェス・モンゴメリー
  • 『ブルース・オン・パーパス』 - Blues on Purpose (1965年、Xanadu)
  • 『フル・ヴュー』 - Full View (1966年、Milestone)
  • 『インタープリテイションズ』 - Interpretations (1967年、Vee-Jay)
  • In Concert (1977年、Vee-Jay) ※1968年録音
  • 『イモータル・セッション』 - The Immortal Session From Blue Note (1980年、Blue Note) ※1958年録音。ソニー・クラークとのスプリット・アルバム
  • 『枯葉II』 - Alternate Takes Of Wynton Kelly! (1987年、Vee-Jay) ※1961年録音
  • 『ラスト・トリオ・セッション』 - Last Trio Session (1988年、Delmark) ※1968年録音

脚注

  1. ^ Wynton Kelly - DOWNBEAT.COM (英語)
  2. ^ Gardner, Mark (June 1971) "Wynton Kelly". Coda. Volume 10. p. 37.

外部リンク