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妻の宇文修多羅(うぶんしゅうだら、生年不詳 - [[660年]]5月3日)は、字を普明といい、[[宇文士及]]の娘であった。
妻の宇文修多羅(うぶんしゅうだら、生年不詳 - [[660年]]5月3日)は、字を普明といい、[[宇文士及]]の娘であった。


子がなく<ref>『新唐書』によると、李福に子はない。墓誌には「子建平王穆」との記事が見られる。</ref>、[[神龍 (唐)|神龍]]初年、蒋王[[李コン|李惲]]の孫の李思順が趙王を嗣いだ。
子がなく<ref>『新唐書』によると、李福に子はない。墓誌には「子建平王穆」との記事が見られる。</ref>、[[神龍 (唐)|神龍]]初年、蒋王[[李惲]]の孫の李思順が趙王を嗣いだ。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年11月29日 (日) 11:45時点における版

李福(り ふく、634年 - 670年9月13日)は、中国の太宗李世民の十三男[1]は祐[2]。趙王に立てられた。

経歴

李世民と楊妃の間に生まれた。

639年、趙王に封じられ、隠太子李建成の後を継いだ。644年秦州都督に任じられ、実封800戸を受けた。649年、右衛大将軍を加えられ、梁州都督となった。670年、梁州の官邸で亡くなった。司空并州都督[3]の位を贈られ、昭陵に陪葬された。

妻の宇文修多羅(うぶんしゅうだら、生年不詳 - 660年5月3日)は、字を普明といい、宇文士及の娘であった。

子がなく[4]神龍初年、蒋王李惲の孫の李思順が趙王を嗣いだ。

伝記資料

  • 旧唐書』巻76 列伝第26「趙王福伝」
  • 新唐書』巻80 列伝第5「趙王福伝」
  • 大唐故贈司空荊州大都督上柱国趙王墓誌銘
  • 大唐趙王故妃宇文氏墓誌銘

脚注

  1. ^ 『旧唐書』によると、太宗の第十三子。墓誌によると、太宗の第十一子。
  2. ^ 墓誌による。兄の李祐の諱と同じであることは一考を要す。
  3. ^ 墓誌によると、贈官は司空・使持節・大都督・荊硤岳朗四州諸軍事・荊州刺史
  4. ^ 『新唐書』によると、李福に子はない。墓誌には「子建平王穆」との記事が見られる。