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'''降旗 康男'''(ふるはた やすお、[[1934年]][[8月19日]] - [[2019年]][[5月20日]]<ref name="nikkei20190526">{{Cite web | url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45291650W9A520C1CZ8000/ | title = 降旗康男さんが死去 映画監督 「鉄道員」「あ・うん」 | publisher = [[日本経済新聞]] | date = 2019-05-26 | accessdate = 2019-05-26 }}</ref><ref name="daily20190526">{{Cite web | url = https://www.daily.co.jp/gossip/2019/05/26/0012368405.shtml | title = 降旗康男監督死去 岡田准一主演「追憶」撮了後にパーキンソン病発症 | publisher = [[デイリースポーツ]] | date = 2019-05-26 | accessdate = 2019-05-26 }}</ref>)は、日本の[[映画監督]]。[[長野県]][[松本市]]出身。
'''降旗 康男'''(ふるはた やすお、[[1934年]][[8月19日]] - [[2019年]][[5月20日]]<ref name="nikkei20190526">{{Cite web | url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45291650W9A520C1CZ8000/ | title = 降旗康男さんが死去 映画監督 「鉄道員」「あ・うん」 | publisher = [[日本経済新聞]] | date = 2019-05-26 | accessdate = 2019-05-26 }}</ref><ref name="daily20190526">{{Cite web | url = https://www.daily.co.jp/gossip/2019/05/26/0012368405.shtml | title = 降旗康男監督死去 岡田准一主演「追憶」撮了後にパーキンソン病発症 | publisher = [[デイリースポーツ]] | date = 2019-05-26 | accessdate = 2019-05-26 }}</ref>)は、日本の[[映画監督]]。[[長野県]][[松本市]]出身<ref name="私の半生1">[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt01.html 1浅間温泉街で 幼少の記憶 政治家の父の不在]{{URL |www.matsusen.jp/myway/furihata/frt00.html |信濃毎日新聞松本専売所WEB / 降旗康男・私の半生 }}</ref>


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[東筑摩郡]][[本郷村 (長野県東筑摩郡)|本郷村]]の[[浅間温泉]]街に生まれる。祖父は[[立憲民政党]][[衆議院議員]]を務めた[[降旗元太郎]]、父は[[日本進歩党]]衆議院議員、[[第2次吉田内閣]]の[[逓信大臣]]、松本市長を歴任した[[降旗徳弥]]<ref>[http://www.fukashi-alumni.org/column/2017/05/115.html 【第115号】降旗康男監督の高校時代]</ref>。地元の名士の家系であった。[[長野県松本深志高等学校]]時代から[[フランス映画]]や[[シャンソン]]に熱中し始め、[[フランス語]]を独習。『[[失われた時を求めて]]』を原文で読む輪読会に参加した。[[東京大学]]へ進学し、[[東京大学文学部|文学部]][[フランス文学科]]を卒業。同級生には[[安藤元雄]]がいた。
[[東筑摩郡]][[本郷村 (長野県東筑摩郡)|本郷村]]の[[浅間温泉]]街に生まれる<ref name="私の半生1"/>。祖父は[[立憲民政党]][[衆議院議員]]を務めた[[降旗元太郎]]、父は[[日本進歩党]]衆議院議員、[[第2次吉田内閣]]の[[逓信大臣]]、松本市長を歴任した[[降旗徳弥]]<ref>[http://www.fukashi-alumni.org/column/2017/05/115.html 【第115号】降旗康男監督の高校時代]</ref>{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}。地元の名士の家系であった。[[長野県松本深志高等学校]]時代から[[フランス映画]]や[[シャンソン]]に熱中し始め、[[フランス語]]を独習。『[[失われた時を求めて]]』を原文で読む輪読会に参加した。[[東京大学]]へ進学し、1957年[[東京大学文学部|文学部]][[フランス文学科]]を卒業{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}。同級生には[[安藤元雄]]がいた。


[[住友銀行]]副頭取だった叔父の降旗英弥を頼り、1957年に[[東映]]に入社<ref name="nikkei20190526"/><ref name="daily20190526"/>。[[東映京都撮影所]]で[[時代劇]]を撮るよう指示されるが、[[現代劇]]しかやりたくないと訴えて拒否する。[[東映東京撮影所]]の中でもさらに傍流であった[[歌謡映画]]に携わり、[[レッドパージ]]で[[松竹]]を逐われた[[家城巳代治]]のもとで[[助監督]]を務めた。[[東宝争議]]の主導者であったことで知られる[[カメラマン]]の[[宮島義勇]]と出会い、大きく影響を受けた<ref>[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt13.html 13 挫折感の中で 名カメラマンとの出会い 光明]</ref>。そうした環境もあり、降旗もまた東映の[[労働組合]]運動に熱中していった。28歳のとき、作家[[村上元三]]の長女で7歳年下の典子と[[見合い]][[結婚]]。やはり叔父英弥の紹介であった<ref>[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt14.html 14 監督昇進のころ 社トップと微妙なすれ違い]</ref>。
[[住友銀行]]副頭取だった叔父の降旗英弥を頼り、1957年に[[東映]]に入社<ref name="nikkei20190526"/><ref name="daily20190526"/>。[[東映京都撮影所]](以下、東映京都)で[[時代劇]]を撮るよう指示されるが、[[現代劇]]しかやりたくないと訴えて拒否する<ref name="東映キネ旬07w">{{Cite journal|和書|author=|title=『憑神』DVD化記念降旗康男監督、映画生活50年を語る 文・金澤誠|journal=東映キネマ旬報 2007年冬号 vol.5|issue=2007年11月20日|publisher=[[東映ビデオ]]|isbn=|pages=13}}</ref>。[[東映東京撮影所]](以下、東映東京)の中でもさらに傍流であった[[歌謡映画]]に携わり、特定の監督には就かず{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}、[[レッドパージ]]で[[松竹]]を逐われた[[家城巳代治]]や[[田坂具隆]]、[[佐伯清]]らの[[助監督]]を務めた{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}。[[東宝争議]]の主導者であったことで知られる[[カメラマン]]の[[宮島義勇]]と出会い、大きく影響を受けた<ref>[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt13.html 13 挫折感の中で 名カメラマンとの出会い 光明]</ref>。そうした環境もあり、降旗もまた東映の[[労働運動]]に熱中していった<ref name="東映キネ旬07w"/>。28歳のとき、作家[[村上元三]]の長女で7歳年下の典子と[[見合い]][[結婚]]。やはり叔父英弥の紹介であった<ref name="私の半生14">[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt14.html 14 監督昇進のころ 社トップと微妙なすれ違い]</ref>。[[1960年]]、[[ジャン=リュック・ゴダール]]監督の『[[勝手にしやがれ (映画)|勝手にしやがれ]]』を観て大きな衝撃を受け<ref name="私の半生15">[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt15.html 15 テレビ映画の時代 中国でも「赤い・・・」シリーズ]</ref>、もう自分の出る幕はない、いつ辞めることになっても悔いはないと思っていたところで監督デビューとなった<ref name="私の半生15"/>。


[[1966年]]、東映京都所長に転任していた[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]が『非行少女ヨーコ』で監督に昇格させた<ref>{{Cite book |和書 |author = [[立松和平]] |title = 映画主義者 深作欣二 |publisher = [[文藝春秋]] |year = 2003 |isbn = 978-4-89036-181-6 |pages = 123 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 | author = [[松島利行]] | year = 1992 | title = 風雲映画城 | volume = 下 | publisher = [[講談社]] | isbn = 4-06-206226-7 | page = 109 }}</ref>。[[共産主義者|アカ]]嫌いの[[大川博]]東映社長は「[[労働組合|組合]]を辞めないと監督にさせない」と言ったが<ref name="東映キネ旬07w"/><ref name="私の半生14"/>、当時の東映東京所長・[[今田智憲]]が「社長の前では何も言わずに笑ってろ」と機転を利かし、上手く監督デビューできた<ref name="東映キネ旬07w"/><ref name="私の半生15"/><ref name="私の半生14"/>。東映は時代劇映画の人気が落ちる中で<!---東映社長の ※まだ社長でありません。--->岡田茂が[[ヤクザ映画|任侠映画]]に活路を見出し<ref>[http://web.archive.org/web/20180307134030/http://www.toei.co.jp:80/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕](Internet Archive)、[https://imidas.jp/hotkeyperson/detail/P-00-302-11-05-H050.html 岡田茂 | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス](2011年5月)、[https://www.tv-asahi.co.jp/smt/f/geinou_tokuho/hot/?id=hot_20110509_060 【訃報】“任きょう映画の父”が87歳で]、{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110514/ent11051402560000-n1.htm|title=【産経抄】5月14日|publisher=[[産経新聞]]|date=2011年5月14日1面、[[産経新聞#コラム『産経抄』|産経抄]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110518131744/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110514/ent11051402560000-n1.htm|archivedate=2011年5月18日}}、[https://www.facebook.com/note.php?note_id=333844493296879 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)]、[http://megalodon.jp/2014-0618-1041-32/business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した]</ref><ref name="楊紅雲">{{Cite web|author=楊紅雲|url=https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6609&item_no=1&page_id=28&block_id=27|format=PDF|title=任侠映画路線における東映の成功 ―テレビに対抗した映画製作(1963-1972年)を中心に― |work=多元文化 第4号|publisher=[[名古屋大学]]|year=2004|accessdate=2020-10-13|pages=192-197}}</ref>、[[俊藤浩滋]]がプロデューサーとして[[ヤクザ映画#東映|東映任侠路線]]を仕切っていた<ref name="私の半生14"/><ref name="楊紅雲"/>。監督デビュー間もない頃<!--- 俊藤から ※ではなく栗山富郎だと思います --->、[[鹿島建設]]の創業者を描いた企業映画『[[超高層のあけぼの]]』の撮影を持ちかけられたが<ref name="私の半生15"/><ref name="kinel01">[http://www.kinenote.com/main/feature/vol01/detail03.aspx 高倉健×降旗康男「あなたへ」公開記念特集 page=3- KINENOTE]</ref><ref name="キネ旬120901">{{Cite journal|和書 |author = |title = 降旗康男監督 高倉健との軌跡を語る 聞き手・金澤誠、前野裕一 『あなたへ』までの軌跡 |journal = [[キネマ旬報]] |issue =2012年9月上旬号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 34–35頁 }}</ref>、「成功者の映画は撮りたくない」などと断り、その後一時干され<ref name="私の半生15"/><ref name="kinel01"/>、テレビの演出が増える{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}。1968年東映を一旦退社し{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}、東映専属[[契約者]]となる{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}。あるプロデューサーから「負けた者の映画を撮りたいならヤクザ映画だ。東映では俊藤さんの映画を撮らなきゃ、監督は務まらない」と言われ<ref name="キネ旬120901"/>、[[アウトロー]]の[[ヤクザ映画]]を撮るのがいいという話になり<!--- [[安藤昇]]主演の『ギャングの帝王』 ※は任侠映画ではなくギャング映画です --->、俊藤プロデュースの『[[獄中の顔役]]』を手始めに<ref name="キネ旬120901"/>、任侠映画を多く手がけるようになった<ref name="kinel01"/><ref name="キネ旬120901"/><!--- 『[[昭和残侠伝]]』で[[高倉健]]と出会う。降旗が高倉と初めて会ったのは1957年の『青い海原』、コンビ第一作は『地獄の掟に明日はない』です --->。[[高倉健]]とは、1966年の『[[地獄の掟に明日はない]]』を皮切りに以降、20本の映画でコンビを組む<ref name="東映キネ旬07w"/><ref name="東映キネ旬17w">{{Cite journal|和書|author=|title=【巻頭特集】 高倉健 音楽・時代・想い 高倉健さんとの20本+1 自作を振り返る 降旗康男監督インタビュー 文・金澤誠|journal=東映キネマ旬報 2017年冬号 vol.28|issue=2016年12月1日|publisher=[[東映ビデオ]]|pages=2}}</ref>。東映の上層部と溝ができ、専属契約を解除して1974年フリー{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}。以降、[[山口百恵]]主演の『[[赤いシリーズ]]』など[[テレビ映画]]の監督を多数務めた<ref name="私の半生15"/>。
[[1966年]]、『非行少女ヨーコ』で初監督。時代劇映画の人気が落ちる中で東映社長の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]は[[任侠映画]]に活路を見出し、[[俊藤浩滋]]がプロデューサーとして活躍。降旗は当初俊藤から[[鹿島建設]]の創業者を描いた企業映画の撮影を持ちかけられたが、成功者の映画は撮りたくないと断った。それなら[[アウトロー]]の[[ヤクザ映画]]を撮るのがいいという話になり、[[安藤昇]]主演の『ギャングの帝王』を手始めに、任侠映画を多く手がけるようになった<ref>[http://www.kinenote.com/main/feature/vol01/detail03.aspx 高倉健×降旗康男「あなたへ」公開記念特集 page=3- KINENOTE]</ref>。『[[昭和残侠伝]]』で[[高倉健]]と出会う。東映の上層部と溝ができ、専属契約を解除してフリーとなってからは、しばらく[[山口百恵]]主演の『[[赤いシリーズ]]』など[[テレビ映画]]の監督をした。


高倉健主演の任侠映画の大ファンであった[[倉本聰]]の熱烈なラブコールもあり、[[1978年]]の『[[冬の華]]』で東映ヤクザ映画に復帰。本来は[[山下耕作]]が監督をする予定だったが、倉本と意見が合わずに降板したため、倉本の大学の先輩である降旗がピンチヒッターとして起用された。これ以降、「降旗&高倉」はゴールデンコンビとされるようになった。
高倉健主演の任侠映画の大ファンであった[[倉本聰]]の熱烈なラブコールもあり、[[1978年]]の『[[冬の華]]』で東映ヤクザ映画に復帰<ref name="私の半生16">[http://www.matsusen.jp/myway/furihata/frt16.html 16 残念な劇場離れ 観客が通じ合うたのしさ大事に]</ref>。本来は[[山下耕作]]が監督をする予定だったが、倉本と意見が合わずに降板したため、倉本の大学の先輩である降旗がピンチヒッターとして起用された。これ以降、「降旗&高倉」はゴールデンコンビとされるようになった。


[[1999年]]、やはり高倉健が主演を務めた『[[鉄道員 (小説)|鉄道員]]』で[[日本アカデミー賞]]監督賞・脚本賞を受賞。[[2002年]]に[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]、2008年には[[旭日章|旭日小綬章]]を受章した<ref name="nikkei20190526"/>。80歳を過ぎてからもメガホンを執った監督として知られた。
[[1999年]]、やはり高倉健が主演を務めた『[[鉄道員 (小説)|鉄道員]]』で[[日本アカデミー賞]]監督賞・脚本賞を受賞。[[2002年]]に[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]、2008年には[[旭日章|旭日小綬章]]を受章した<ref name="nikkei20190526"/>。80歳を過ぎてからもメガホンを執った監督として知られた。
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== 人物 ==
== 人物 ==
*降旗とのコンビで冬の華」「鉄道員など数々の作品を作り上げた[[高倉健]]は、寡黙で撮影現場ではほとんど声を張り上げて指示を出さない降旗に対し、コンビを組むことの多いカメラマンの[[木村大作]]が大変なおしゃべりで現場を仕切るため、初めて呼ばれる役者は木村が監督だと勘違いすることもしばしばあると、自身のエッセイ「あなたに褒められたくて」でユーモラスに紹介していた。一見すると頼りないようにも思えるが、木村のような個性の強いカメラマンに撮影された作品でも、必ず降旗の個性の出た降旗作品に仕上がると語っている。
*降旗とのコンビで冬の華』『鉄道員など数々の作品を作り上げた[[高倉健]]は、寡黙で撮影現場ではほとんど声を張り上げて指示を出さない降旗に対し、コンビを組むことの多いカメラマンの[[木村大作]]が大変なおしゃべりで現場を仕切るため、初めて呼ばれる役者は木村が監督だと勘違いすることもしばしばあると、自身のエッセイ「あなたに褒められたくて」でユーモラスに紹介していた。一見すると頼りないようにも思えるが、木村のような個性の強いカメラマンに撮影された作品でも、必ず降旗の個性の出た降旗作品に仕上がると語っている。
*野村正昭は「任侠映画を手がけても降旗の映画には、[[フランス映画]]のようなどことなく垢抜け、洒落た雰囲気があった」と評している{{Sfn|監督全集|1988|pp=359–360}}。
*[[1978年]]には、東映の[[吉川進]][[映画プロデューサー|プロデューサー]]から「『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』の監督をやってみないか?」と声をかけられたことがあり、しばらく後になって「いつになったら俺に『スパイダーマン』を監督させてくれるんだ」と意外な返答をしたこともあったという<ref>スパイダーマン 東映TVシリーズDVD-BOX付録冊子「スパイダーマン大検証」</ref>。
*[[1978年]]には、東映の[[吉川進]][[映画プロデューサー|プロデューサー]]から「『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』の監督をやってみないか?」と声をかけられたことがあり、しばらく後になって「いつになったら俺に『スパイダーマン』を監督させてくれるんだ」と意外な返答をしたこともあったという<ref>スパイダーマン 東映TVシリーズDVD-BOX付録冊子「スパイダーマン大検証」</ref>。
*[[保守政治家]]の家に生まれたが、東映時代の労働組合運動の影響もあり、[[日本共産党]]の[[シンパ|支持者]]として知られていた。
*[[保守政治家]]の家に生まれたが、東映時代の労働組合運動の影響もあり、[[日本共産党]]の[[シンパ|支持者]]として知られていた。
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== 監督作品 ==
== 監督作品 ==
=== 劇場作品 ===
=== 劇場作品 ===
*1963年 [[陸軍残虐物語]](東映東京、助監督)
<!--- *1963年 [[陸軍残虐物語]](東映東京、助監督)
*1965年 昭和残侠伝(東映東京、助監督)
*1965年 昭和残侠伝(東映東京、助監督) 助監督作はもっと多く、人によっては数10本ある人もありきりがなく記載は必要ないと思います --->
*1966年
*1966年
**非行少女ヨーコ(東映東京)
**非行少女ヨーコ(東映東京)
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=|year=1988|title=日本映画・テレビ監督全集|publisher=[[キネマ旬報社]]|ref={{SfnRef|監督全集|1988}}}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2020年10月13日 (火) 11:55時点における版

ふるはた やすお
降旗 康男
本名 降旗 康男
生年月日 (1934-08-19) 1934年8月19日
没年月日 (2019-05-20) 2019年5月20日(84歳没)
出生地 長野県松本市
死没地 東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 映画監督
活動期間 1963年 - 2019年
配偶者 典子(村上元三長女)
著名な家族 降旗元太郎(祖父)
降旗徳弥(父)
主な作品
網走番外地シリーズ・獄中の顔役
 
受賞
日本アカデミー賞
最優秀監督賞 最優秀脚本賞(2000年)
鉄道員(ぽっぽや)
その他の賞
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降旗 康男(ふるはた やすお、1934年8月19日 - 2019年5月20日[1][2])は、日本の映画監督長野県松本市出身[3]

経歴

東筑摩郡本郷村浅間温泉街に生まれる[3]。祖父は立憲民政党衆議院議員を務めた降旗元太郎、父は日本進歩党衆議院議員、第2次吉田内閣逓信大臣、松本市長を歴任した降旗徳弥[4][5]。地元の名士の家系であった。長野県松本深志高等学校時代からフランス映画シャンソンに熱中し始め、フランス語を独習。『失われた時を求めて』を原文で読む輪読会に参加した。東京大学へ進学し、1957年文学部フランス文学科を卒業[5]。同級生には安藤元雄がいた。

住友銀行副頭取だった叔父の降旗英弥を頼り、1957年に東映に入社[1][2]東映京都撮影所(以下、東映京都)で時代劇を撮るよう指示されるが、現代劇しかやりたくないと訴えて拒否する[6]東映東京撮影所(以下、東映東京)の中でもさらに傍流であった歌謡映画に携わり、特定の監督には就かず[5]レッドパージ松竹を逐われた家城巳代治田坂具隆佐伯清らの助監督を務めた[5]東宝争議の主導者であったことで知られるカメラマン宮島義勇と出会い、大きく影響を受けた[7]。そうした環境もあり、降旗もまた東映の労働運動に熱中していった[6]。28歳のとき、作家村上元三の長女で7歳年下の典子と見合い結婚。やはり叔父英弥の紹介であった[8]1960年ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』を観て大きな衝撃を受け[9]、もう自分の出る幕はない、いつ辞めることになっても悔いはないと思っていたところで監督デビューとなった[9]

1966年、東映京都所長に転任していた岡田茂が『非行少女ヨーコ』で監督に昇格させた[10][11]アカ嫌いの大川博東映社長は「組合を辞めないと監督にさせない」と言ったが[6][8]、当時の東映東京所長・今田智憲が「社長の前では何も言わずに笑ってろ」と機転を利かし、上手く監督デビューできた[6][9][8]。東映は時代劇映画の人気が落ちる中で岡田茂が任侠映画に活路を見出し[12][13]俊藤浩滋がプロデューサーとして東映任侠路線を仕切っていた[8][13]。監督デビュー間もない頃、鹿島建設の創業者を描いた企業映画『超高層のあけぼの』の撮影を持ちかけられたが[9][14][15]、「成功者の映画は撮りたくない」などと断り、その後一時干され[9][14]、テレビの演出が増える[5]。1968年東映を一旦退社し[5]、東映専属契約者となる[5]。あるプロデューサーから「負けた者の映画を撮りたいならヤクザ映画だ。東映では俊藤さんの映画を撮らなきゃ、監督は務まらない」と言われ[15]アウトローヤクザ映画を撮るのがいいという話になり、俊藤プロデュースの『獄中の顔役』を手始めに[15]、任侠映画を多く手がけるようになった[14][15]高倉健とは、1966年の『地獄の掟に明日はない』を皮切りに以降、20本の映画でコンビを組む[6][16]。東映の上層部と溝ができ、専属契約を解除して1974年フリー[5]。以降、山口百恵主演の『赤いシリーズ』などテレビ映画の監督を多数務めた[9]

高倉健主演の任侠映画の大ファンであった倉本聰の熱烈なラブコールもあり、1978年の『冬の華』で東映ヤクザ映画に復帰[17]。本来は山下耕作が監督をする予定だったが、倉本と意見が合わずに降板したため、倉本の大学の先輩である降旗がピンチヒッターとして起用された。これ以降、「降旗&高倉」はゴールデンコンビとされるようになった。

1999年、やはり高倉健が主演を務めた『鉄道員』で日本アカデミー賞監督賞・脚本賞を受賞。2002年紫綬褒章、2008年には旭日小綬章を受章した[1]。80歳を過ぎてからもメガホンを執った監督として知られた。

追憶』撮影終了後の2016年にパーキンソン病を発症し、療養生活に入る[1][2]2019年5月20日9時44分、肺炎のため東京都内で死去[1][2][18][19]。84歳没。

人物

  • 降旗とのコンビで『冬の華』『鉄道員』など数々の作品を作り上げた高倉健は、寡黙で撮影現場ではほとんど声を張り上げて指示を出さない降旗に対し、コンビを組むことの多いカメラマンの木村大作が大変なおしゃべりで現場を仕切るため、初めて呼ばれる役者は木村が監督だと勘違いすることもしばしばあると、自身のエッセイ「あなたに褒められたくて」でユーモラスに紹介していた。一見すると頼りないようにも思えるが、木村のような個性の強いカメラマンに撮影された作品でも、必ず降旗の個性の出た降旗作品に仕上がると語っている。
  • 野村正昭は「任侠映画を手がけても降旗の映画には、フランス映画のようなどことなく垢抜け、洒落た雰囲気があった」と評している[5]
  • 1978年には、東映の吉川進プロデューサーから「『スパイダーマン』の監督をやってみないか?」と声をかけられたことがあり、しばらく後になって「いつになったら俺に『スパイダーマン』を監督させてくれるんだ」と意外な返答をしたこともあったという[20]
  • 保守政治家の家に生まれたが、東映時代の労働組合運動の影響もあり、日本共産党支持者として知られていた。

監督作品

劇場作品

テレビドラマ

脚本

  • 1967年 懲役十八年 仮出獄 (東映東京)
  • 1971年 新網走番外地 吹雪の大脱走(東映東京)
  • 1999年 鉄道員(「鉄道員」製作委員会)
  • 2001年 ホタル(「ホタル」製作委員会)
  • 2004年 赤い月(「赤い月」製作委員会)
  • 2007年 憑神

脚注

  1. ^ a b c d e 降旗康男さんが死去 映画監督 「鉄道員」「あ・うん」”. 日本経済新聞 (2019年5月26日). 2019年5月26日閲覧。
  2. ^ a b c d 降旗康男監督死去 岡田准一主演「追憶」撮了後にパーキンソン病発症”. デイリースポーツ (2019年5月26日). 2019年5月26日閲覧。
  3. ^ a b 1浅間温泉街で 幼少の記憶 政治家の父の不在信濃毎日新聞松本専売所WEB / 降旗康男・私の半生
  4. ^ 【第115号】降旗康男監督の高校時代
  5. ^ a b c d e f g h i 監督全集 1988, pp. 359–360.
  6. ^ a b c d e 「『憑神』DVD化記念降旗康男監督、映画生活50年を語る 文・金澤誠」『東映キネマ旬報 2007年冬号 vol.5』2007年11月20日、東映ビデオ、13頁。 
  7. ^ 13 挫折感の中で 名カメラマンとの出会い 光明
  8. ^ a b c d 14 監督昇進のころ 社トップと微妙なすれ違い
  9. ^ a b c d e f 15 テレビ映画の時代 中国でも「赤い・・・」シリーズ
  10. ^ 立松和平『映画主義者 深作欣二』文藝春秋、2003年、123頁。ISBN 978-4-89036-181-6 
  11. ^ 松島利行『風雲映画城』 下、講談社、1992年、109頁。ISBN 4-06-206226-7 
  12. ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)、岡田茂 | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス(2011年5月)、【訃報】“任きょう映画の父”が87歳で“【産経抄】5月14日”. 産経新聞. (2011年5月14日1面、産経抄). オリジナルの2011年5月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110518131744/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110514/ent11051402560000-n1.htm 『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した
  13. ^ a b 楊紅雲 (2004年). “任侠映画路線における東映の成功 ―テレビに対抗した映画製作(1963-1972年)を中心に―” (PDF). 多元文化 第4号. 名古屋大学. pp. 192-197. 2020年10月13日閲覧。
  14. ^ a b c 高倉健×降旗康男「あなたへ」公開記念特集 page=3- KINENOTE
  15. ^ a b c d 「降旗康男監督 高倉健との軌跡を語る 聞き手・金澤誠、前野裕一 『あなたへ』までの軌跡」『キネマ旬報』2012年9月上旬号、キネマ旬報社、34–35頁。 
  16. ^ 「【巻頭特集】 高倉健 音楽・時代・想い 高倉健さんとの20本+1 自作を振り返る 降旗康男監督インタビュー 文・金澤誠」『東映キネマ旬報 2017年冬号 vol.28』2016年12月1日、東映ビデオ、2頁。 
  17. ^ 16 残念な劇場離れ 観客が通じ合うたのしさ大事に
  18. ^ “「鉄道員」映画監督・降旗康男さんが死去 84歳 高倉健さんと数々の作品手掛ける”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2019年5月26日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/05/26/kiji/20190526s00041000317000c.html 2019年5月26日閲覧。 
  19. ^ 映画監督・降旗康男さん84歳で亡くなっていた 「鉄道員」など多くの高倉健作品でメガホン - スポーツ報知 2019年5月26日
  20. ^ スパイダーマン 東映TVシリーズDVD-BOX付録冊子「スパイダーマン大検証」

参考文献

外部リンク