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2020年10月9日 (金) 22:34時点における版
妙印尼(みょういんに、永正11年(1514年)[1] - 文禄3年11月6日(1594年12月17日))は、上野国新田金山城城主・由良成繁の妻。
赤井重秀の娘[2]とも赤井家堅の娘[1]ともされる。由良成繁に嫁いで由良国繁・長尾顕長らを生む[1][2]。天正6年(1577年)の夫の没後に出家する[1]。天正11年(1583年)に北条氏と由良氏が対立すると、豊臣秀吉や徳川家康と連携しようとした[2]。後に北条氏によって新田金山城を接収されるものの、その後も由良氏のために尽くした[2]。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原征伐に乗り出すと、小田原城に籠城する由良国繁に代わって桐生城を守っていたが、同年6月7日に前田利家を通じて豊臣軍に降伏する[2]。その後、国繁の嫡男である貞繁とともに豊臣軍の松井田城攻略に従ったため[1]、8月になって妙印尼の堪忍分として常陸国牛久城に所領が与えられ[2]、国繁は家名を保った。
文禄3年(1595年)、牛久にて死去。法名は得月院殿月海妙院大姉[2]。
脚注
参考文献
- 高橋浩昭「妙印尼」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2)
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年 ISBN 978-4-06-210800-3 P1866「妙印尼」