「私娼」の版間の差分

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[[豊臣秀吉|豊臣時代]]、[[天正]]15年([[1587年]])、[[京都]][[柳の馬場]]に[[遊廓]]が設けられ、ここに公娼の営業形態が[[散娼]]から[[集娼]]へと改められはじめた。
[[豊臣秀吉|豊臣時代]]、[[天正]]15年([[1587年]])、[[京都]][[柳の馬場]]に[[遊廓]]が設けられ、ここに公娼の営業形態が[[散娼]]から[[集娼]]へと改められはじめた。


[[江戸時代]]、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に[[遊女屋]]が営まれた。[[江戸幕府]]は、散在する遊女屋を特定[[地域]]に集合させるために、[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、日本橋葺屋町界隈に[[遊郭]]の設置を許可し、ここを「'''吉原'''」と命名した。ここに、公娼と私娼とを区別する公法上の体制が整った。[[吉原遊廓]]のほかで売春を行う娼婦を淫売女と称し、要するに公許の場所以外で売春を行う娼婦は私娼である。[[文久]]元年([[1861年]])[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]、幕府は[[江戸]]および関東八州の宿屋料理屋などに対し、私娼を置くことを禁止した<ref>法令全書</ref>。
[[江戸時代]]、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に[[遊女屋]]が営まれた。[[江戸幕府]]は、散在する遊女屋を特定[[地域]]に集合させるために、[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、ここを「'''吉原'''」と命名した。ここに、公娼と私娼とを区別する公法上の体制が整った。[[吉原遊廓]]のほかで売春を行う娼婦を淫売女と称し、要するに公許の場所以外で売春を行う娼婦は私娼である。[[文久]]元年([[1861年]])[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]、幕府は[[江戸]]および関東八州の宿屋料理屋などに対し、私娼を置くことを禁止した<ref>法令全書</ref>。


[[明治維新]]ののち、[[1873年]]([[明治]]6年)12月、公娼取締規則が施行された。ここに[[警保局|警保寮]]から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。[[遊女|娼妓]]以外で売春をなす者は取締り、処罰された。臨時的娼婦はもちろんのこと、職業的娼婦であっても、娼妓でなければ私娼である。[[1876年]](明治9年)[[1月27日]]、[[警視庁 (内務省)|東京警視庁]]は、売淫罰則をさだめた<ref>[[警視庁]]史 警視庁史編さん委員会編</ref>。
[[明治維新]]ののち、[[1873年]]([[明治]]6年)12月、公娼取締規則が施行された。ここに[[警保局|警保寮]]から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。[[遊女|娼妓]]以外で売春をなす者は取締り、処罰された。臨時的娼婦はもちろんのこと、職業的娼婦であっても、娼妓でなければ私娼である。[[1876年]](明治9年)[[1月27日]]、[[警視庁 (内務省)|東京警視庁]]は、売淫罰則をさだめた<ref>[[警視庁]]史 警視庁史編さん委員会編</ref>。

2020年10月3日 (土) 14:48時点における版

私娼(ししょう)は、娼婦のうち公に営業の許可を与えられた公娼こうしょうに対し、公の営業許可を与えられていない者をいう。

日本における私娼

日本における私娼の歴史は、必ずしも明らかではない。奈良時代天平年間(729年 - 749年)に遊行女なるものがあったことが知られ、これを私娼とする向きがある。『万葉集』には、大宰帥大伴卿が都に上るときに卿に侍した遊行女、児島の、「やまと路は雲かくれたりしかれどもわがふる袖をながしと思ふな」という歌もある。のちに娼婦は遊行女のほかに、白拍子遊女、傾城、傀儡女などに分かれたが、鎌倉時代は遊女と呼ばれるようになった。

それまでは売春はいわば自由業で、取締などが行われた形跡がみえないが、建久4年5月15日(1193年)に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝里見義成を遊女別当を命じ、諸国に散在する娼婦の訴願を取り裁かせたことが史実に見える(『吾妻鏡』)。

足利氏室町幕府)は大永8年(1528年)、傾城局をもうけ、竹内新次郎を公事に任じ、娼婦から税金を徴収した。

豊臣時代天正15年(1587年)、京都柳の馬場遊廓が設けられ、ここに公娼の営業形態が散娼から集娼へと改められはじめた。

江戸時代、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に遊女屋が営まれた。江戸幕府は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、元和3年(1617年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。ここに、公娼と私娼とを区別する公法上の体制が整った。吉原遊廓のほかで売春を行う娼婦を淫売女と称し、要するに公許の場所以外で売春を行う娼婦は私娼である。文久元年(1861年3月16日、幕府は江戸および関東八州の宿屋料理屋などに対し、私娼を置くことを禁止した[1]

明治維新ののち、1873年明治6年)12月、公娼取締規則が施行された。ここに警保寮から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。娼妓以外で売春をなす者は取締り、処罰された。臨時的娼婦はもちろんのこと、職業的娼婦であっても、娼妓でなければ私娼である。1876年(明治9年)1月27日東京警視庁は、売淫罰則をさだめた[2]

脚注

  1. ^ 法令全書
  2. ^ 警視庁史 警視庁史編さん委員会編

関連項目