「馮該」の版間の差分

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東晋に仕え、揚威将軍に任じられていた。
 
[[386年]]10月、苻丕は数千騎を率いて洛陽侵攻を目論んでいた。[[荊州]]刺史[[桓石民]]は馮該に迎撃を命じた。馮該は前秦軍を破り、苻丕を討ち取り、皇太子苻寧・長楽王苻寿・左僕射王孚・吏部尚書苟操を捕らえた<ref>『晋書』巻74 桓石民では、王孚・苟操らは討ち取られたと記されている。</ref>。苻丕の首級と苻寧らを[[建康 (都城)|建康]]へ送った。
 
[[399年]]12月、[[広州 (広東省)|広州]]刺史[[殷仲堪]]・雍州刺史楊佺期が反乱を起こし、[[江州 (江西省)|江州]]刺史[[桓玄]]と戦った。桓玄に属していた馮該は、[[襄陽郡 (中国)|襄陽]]に逃走中の楊佺期とその兄の楊広を捕らえて殺害、首級を建康に送った。
 
[[401年]]12月、桓振・皇甫敷とともに湓口の守りに就いた。
 
[[402年]]2月、桓玄は[[司馬道子]]とその子の[[司馬元顕]]を倒すべく建康へ進軍した。馮該らは[[襄城郡]]太守[[司馬休之]]が守る歴陽を攻めた。歴陽と洞浦の連絡路を断ち、[[豫州]]の船艦を焼いた。司馬休之の軍は潰滅、司馬休之は城を捨てて逃走した。馮該・[[苻宏]]・皇甫敷・索元らと姑孰で前将軍司馬尚之(司馬休之の兄)と戦い、勝利した。
 
[[403年]]9月、殷仲堪の一党であった[[新野郡|新野]]の人の庾仄が蜂起、雍州刺史に任じられていた馮該が守る襄陽を攻撃した。敗れた馮該は逃走した。
 
12月、丞相桓玄は桓楚を建国、鎮東将軍に任じられ、 魚復侯に封じられた。
 
[[404年]]5月、馮該は桓楚への反乱軍との交戦を勧めたが、桓玄は従わなかった。輔国将軍[[何無忌]]が[[荊州区|江陵]]へ侵攻した。鎮西将軍桓振とともに霊渓で何無忌に大勝、千余人を討ち取った。何無忌は[[尋陽郡|尋陽]]へ敗走した。
 
10月、桓振は馮該に[[夏口]]の東岸を守らせた。冠軍将軍劉毅・振武将軍[[劉道規]]らに敗れ、輔国将軍桓仙客とともに石城へ敗走した<ref>『晋書』巻85 劉毅では、桓仙客は捕らえられたと記されている。</ref>。
 
405年1月、桓振は衛将軍桓謙・馮該に江陵を守らせた。豫章口で劉毅・劉道規らに敗れた馮該と桓謙は城を捨てて逃走した。建威将軍[[劉懐粛]]が追撃して、石城で討ち取られた。
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