「劉伯林」の版間の差分

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'''劉伯林'''(りゅう はくりん)は、[[金 (王朝)|金朝]]末期から[[モンゴル帝国]]初期にかけて活躍した人物。[[大同路|西京(大同)]]とする軍閥を形成し、[[漢人世侯]](漢人軍閥)の一人に数えられる。
 
== 概要 ==
威寧県を10年余りにわたって治めていた時には農業振興に努め、民にも十分な休息を取らせたため、近隣の諸県に比べて威寧は楽土のようであると称されていた。このような評価に対し、劉伯林は「数千人を活かした者は必ず後世封を受けるであろうと聞いたことがある。吾は数万人を活かしたので、子孫は必ず栄えるだろう」と語ったという<ref>『元史』巻149列伝36劉伯林伝「在威寧十餘年、務農積穀、与民休息、隣境凋瘵、而威寧独為楽土。嘗曰『吾聞活千人者後必封、吾之所活、何啻万餘人、子孫必有興者乎』。辛巳、以疾卒、年七十二。累贈太師、封秦国公、諡忠順。子黒馬」</ref>。
 
[[1221年]]([[辛巳]])、病のため72歳にして亡くなった。劉伯林の死後は息子の[[劉黒馬]]が後を継いだ。劉伯林・黒馬父子の「西京劉氏」軍閥は漢人世侯の中でも特に有力視されており、南宋からモンゴルに派遣された使者が記した『[[黒韃事略]]』では東平の[[厳実]]・真定の[[史天沢]]・済南の[[張柔]]・西京の劉黒馬を並び称して「多くの漢人軍閥があるがこの4名の兵数の多さと強大さに及ぶ者はいない」と評されている<ref>『黒韃事略』頭項分戍,「万戸四人、如厳実之在鄆州、則有山東之兵。史天之在真定、則有河東・河北之兵。張柔之在満城、則有燕南之兵。劉黒馬之在天城、則有燕薊山後之兵。他雖有領衆者、不若此四人兵数之多、事力之強也」</ref><ref>井ノ崎1954,27-28頁</ref>。
 
== 脚注 ==
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