「本間満」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎プロ入り前: 内容変更
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
38行目: 38行目:
== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== プロ入り前 ===
=== プロ入り前 ===
留萌沖見小学校(沖見ニュースターズ)時代は[[投手]]、留萌港南中で強打の[[三塁手]]として注目を集め、[[北海高等学校|北海]]、札幌商(現[[北海学園札幌高等学校|北海学園札幌]])、[[東海大学付属第四高等学校・中等部|東海大四]]などとの争奪戦の末、[[駒澤大学附属岩見沢高等学校|駒大岩見沢高校]]に進学した。同級生に[[伊藤辰史]]、3年後輩に[[佐藤誠 (野球)|佐藤誠]]がいる(佐藤は[[山形県]]生まれ北海道[[千歳市]]育ち)。また家族は親族とも代々野球部員である。
留萌小学校(萌友ドラゴンズ)時代は[[三塁手・投手]]、留萌港南中で強打の[[三塁手]]として注目を集め、[[北海高等学校|北海]]、札幌商(現[[北海学園札幌高等学校|北海学園札幌]])、[[東海大学付属第四高等学校・中等部|東海大四]]などとの争奪戦の末、[[駒澤大学附属岩見沢高等学校|駒大岩見沢高校]]に進学した。同級生に[[伊藤辰史]]、3年後輩に[[佐藤誠 (野球)|佐藤誠]]がいる(佐藤は[[山形県]]生まれ北海道[[千歳市]]育ち)。また家族は親族とも代々野球部員である。


[[第62回選抜高等学校野球大会|甲子園]]では結果を残せなかったが、付属校推薦で入学した[[駒澤大学|駒澤大]]では春休みの練習から長打を連発し、甲子園で3本塁打の[[高木浩之]]([[享栄高等学校|享栄]]-[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]])らを飛び越してAチームのレギュラーに大抜擢された。期待に応え順調に育ち、鉄壁の[[遊撃手]]として高木浩之と三遊間を組んだ。4年次には高木と共に全日本代表に選出された。同期のエース[[河原純一]]らと駒澤大学の[[全日本アマチュア野球王座決定戦]]制覇に貢献。東都大学リーグ通算81試合出場、243打数58安打、打率.239、1本塁打、24打点。ベストナイン1回受賞。
[[第62回選抜高等学校野球大会|甲子園]]では結果を残せなかったが、付属校推薦で入学した[[駒澤大学|駒澤大]]では春休みの練習から長打を連発し、甲子園で3本塁打の[[高木浩之]]([[享栄高等学校|享栄]]-[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]])らを飛び越してAチームのレギュラーに大抜擢された。期待に応え順調に育ち、鉄壁の[[遊撃手]]として高木浩之と三遊間を組んだ。4年次には高木と共に全日本代表に選出された。同期のエース[[河原純一]]らと駒澤大学の[[全日本アマチュア野球王座決定戦]]制覇に貢献。東都大学リーグ通算81試合出場、243打数58安打、打率.239、1本塁打、24打点。ベストナイン1回受賞。

2020年6月3日 (水) 08:11時点における版

本間 満
ダイエーソフトバンク #10
ソフトバンク時代
(2008年7月10日、阪神鳴尾浜球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道留萌市
生年月日 (1972-08-25) 1972年8月25日(51歳)
身長
体重
180 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右、のちに左打
ポジション 内野手
プロ入り 1994年 ドラフト3位
初出場 NPB / 1995年5月24日
最終出場 NPB / 2009年8月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

本間 満(ほんま みつる、1972年8月25日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手内野手・右投左打)。現野球指導者。愛称はママン(間満)

大村巌(元ロッテ稚内市出身)、宇佐美康広(元ヤクルト歌登町出身)が引退して以降の日本プロ野球(以下:NPB)現役選手としては、五十嵐亮太(現ヤクルト)らと共に最北の出身であった。[注 1] プロ入り後に左打ちに変えて成功した珍しい例である。

経歴

プロ入り前

留萌小学校(萌友ドラゴンズ)時代は三塁手・投手、留萌港南中で強打の三塁手として注目を集め、北海、札幌商(現北海学園札幌)、東海大四などとの争奪戦の末、駒大岩見沢高校に進学した。同級生に伊藤辰史、3年後輩に佐藤誠がいる(佐藤は山形県生まれ北海道千歳市育ち)。また家族は親族とも代々野球部員である。

甲子園では結果を残せなかったが、付属校推薦で入学した駒澤大では春休みの練習から長打を連発し、甲子園で3本塁打の高木浩之享栄-西武ライオンズ)らを飛び越してAチームのレギュラーに大抜擢された。期待に応え順調に育ち、鉄壁の遊撃手として高木浩之と三遊間を組んだ。4年次には高木と共に全日本代表に選出された。同期のエース河原純一らと駒澤大学の全日本アマチュア野球王座決定戦制覇に貢献。東都大学リーグ通算81試合出場、243打数58安打、打率.239、1本塁打、24打点。ベストナイン1回受賞。

1994年ドラフト3位で福岡ダイエーホークスに入団。王貞治が監督に就任した第1期の選手である。 当時は駒大に推薦入学が決まっていた城島を1位で強行指名した見返りに、ヤクルト下位指名が濃厚だった本間を上位指名したと噂された。[1]

ダイエー・ソフトバンク時代

1995年、1年目は序盤で湯上谷宏に代わり遊撃手で起用されたが打率1割台と結果を残せず、シーズン終了後に左打ちへコンバートした。その後、一軍での起用は湯上谷や浜名の故障時のみの守備固め要員での登録と出番が少なく、二軍でも「守備の人」で数年間を過ごす。

1999年、ウェスタンで初めて規定打席に達したが打率は.252に終わる。

2000年浜名千広柳田聖人の負傷もあって後半戦は二塁手のポジションを得て、鳥越裕介と二遊間を組んだ。277打席で打率.261、二塁打9本とまずまずの成績を残し、優勝に貢献。イチローにタイミングの取り方が似ていることから「パチロー」という愛称も付いた。

毎年春季キャンプ中の紅白戦やシートバッティングで同じチーム内の投手から必ずヒットやホームランを打つため、投手陣からは「味方殺し」と呼ばれていた(キャンプレポート-宮崎春季キャンプ2009福岡ソフトバンクホークス)。

2001年は井口資仁が二塁手からコンバートして台頭したため、一転して29試合59打席の出場に終わった。

2002年は開幕を遊撃手で迎えたが、故障のため32試合の出場にとどまり、2003年は開幕からショート鳥越、サード川崎の控え内野手として88試合143打席の出場を果たした。阪神タイガースとの日本シリーズ制覇にも貢献した。

2004年は、開幕時は移籍した小久保の後任のサードを川崎と争っていたが、4月半ばにレギュラーポジションを獲得し、川崎は鳥越からショートのポジションを奪った。終盤まで打率3割を超え、規定打席到達まであと一歩のところまで来たが、また終盤調子を落としたことで起用が急減し打率.290に終わった。 チームのレギュラーシーズン1位に貢献したもののプレーオフで西武に2勝3敗で敗れ、論議を呼んだ。 この年のサードは①本間280打席で打率.290、②吉本が118打席で打率.200、③瑞季が94打席で打率.250、④鳥越が85打席で打率.259、⑤稲嶺が26打席で打率.125、⑥明石が5打席と本間以外は打撃に課題が有った。

2005年は移籍した井口に代わり開幕からセカンドで出場したカブレラからレギュラーを奪った。序盤はリーグの最多二塁打、最多三塁打を放つなど活躍したが終盤調子を落とし、中盤以降はセカンドカブレラ、サードズレータ、ショート川崎の控えに甘んじ規定打席には到達しなかった。 チームはロッテにプレーオフで敗れたものの、この年ポストシーズンの勝率9割近かったロッテ(ペナントプレーオフ対西武2勝、対ソフトバンク3勝2敗、対阪神4勝、アジアシリーズ7勝)にポストシーズンで勝利を奪った(2勝)唯一のチームとなった。 この年の内野陣は①バティスタ591打席(.263、27本.90打点)、カブレラ505打席(.297、8本、58打点)、②川崎458打席(.271、4本、36打点、21盗塁)、③本間227打席(.262、2本、21打点)、④鳥越158打席(.237、0本、17打点)、⑤稲嶺54打席(.222、0本、4打点)、⑥吉本6打席(.250、0本、0打点)で有った。

2006年は控え内野手としてシーズンを迎えたが、4月後半、ゴールデンルーキーの松田からサードのポジションを奪った。 交流戦を終えて打率はリーグ3位の.319を記録し、首位打者争いにも顔を出すほど活躍した・ 交流戦中には鳥越からセカンドのポジションを奪い、そのままセカンドに定着した。 二塁手部門で投票で選ばれた初のオールスターゲームに出場した際は代打で登場した清原和博の代わりに左翼手として出場。 初めてシーズンを通しての活躍を見せ、打率3割を達成するかと思われたが中盤以降急激に調子を落とし、王監督の休養後は森脇監督代行の構想から外れ、若手の森本、仲澤や新人の本多雄一に出場機会を奪われ、終盤以降出場機会が減少し、結果的に規定打席にも30打席ほど到達せず、打率3割も逃した。 この年の内野陣は川崎がショートに固定した以外は規定打席に達した者がおらず、次の成績だった。 ①川崎513打席(.312、3本、22打点、24盗塁)、②カブレラ375打席(.260、8本、50打点)、③本間374打席(.244、2本、30打点、1盗塁)、④松田220打席(.211、3本、18打点)、⑤本多112打席(.245、2本、8打点、2盗塁)、⑥森本87打席(.205、0本、3打点、2盗塁)、⑦仲澤84打席(.171、2本、9打点)、⑧稲嶺65打席(.196、0本、4打点、1盗塁)、⑨吉本44打席(.250、0本、7打点)、⑩鳥越34打席(.243、0本、0打点)、⑪江川43打席(.190、0本、5打点)、⑫金子7打席(.143、0本、0打点、1盗塁)だった。

2007年は、森脇監督代行の構想から外れ、起用がほとんどなかったが、王監督の復帰後にスタメンが増えたが、代打で2試合連続本塁打など、代打での打率(32-11 .344)が高いことから代打での起用が多かった。代打起用38回はリーグ最多。7月13日にFA権を得たが行使しないと明言した。 この年は1番ショート川崎、2番セカンド本多が定着し、サードを松田(221打席、打率.254)、本間(161打席、打率.224)、森本(114打席、打率.211)、江川(17打席)、吉本(8打席)が争ったがいずれも決め手に欠き、オフシーズンは外国人助っ人を構想することになった。

2008年は、松田がサードのポジションをつかみ、セカンド本多、ショート川崎が固定され、本間は便利屋として多く起用され、特に代打では3割の打率を記録した。この年限りで王貞治監督が退任したが、王がダイエー・ソフトバンクの監督を務めていた14年間を通してダイエー・ソフトバンクに在籍し続けた唯一の選手だった。 本間はファースト小久保が故障した間だけファーストでのスタメンがあったものの103打席と過去7年間で最も少ない打席数に終わり、打率も.230と低迷した。

2009年、ソフトバンク在籍15シーズン目となり、同年ソフトバンクに在籍していた選手の中で、最もダイエー・ソフトバンクの在籍期間が長い選手であった(他チーム在籍も含めると巨人に移籍した大道典嘉の18シーズンが最長)。 内野はファースト小久保、セカンド本多、サード松田、ショート川崎が固定され、マツダの故障後は森本がサードに起用された。 本間は秋山監督の構想から外れ1軍に呼ばれることなく途中1試合の出場にとどまり、シーズン1安打に終わった。 10月3日に戦力外通告を受けた。シーズン終了後、12球団合同トライアウトに参加したが獲得球団はなかった。

石川時代

2010年、一時は引退を示唆したが、BCリーグ石川ミリオンスターズへ入団。打点王を獲得し、打率、本塁打はカラバイヨに次ぐリーグ2位と格の違い見せつけたが、同年11月5日に任意引退となり退団した。


引退後

2011年からはJ SPORTSTOKYO MX野球解説者を務めるほか、STVラジオの「STVアタックナイター」の解説も不定期に担当する(当初は九州朝日放送ラジオの「KBCホークスナイター」「KBCダイナミックホークス実況中継」向けの「日本ハム×ソフトバンク」戦の裏送りのみであったが、2012年からはSTV自社向けの中継にも出演する)。東京MXで2012年から始まった番組「パ・リーグ主義」にレギュラー出演。その後、同局のMXスタジアムでも解説を務めた。

2014年から滋慶学園硬式野球部の監督を務めている[2][3]

2016年5月、子供向けスポーツスクール最大手のリーフラス株式会社に入社[2]

2017年からヤングリーグ千葉ポルテクラブのスーパーバイザーに就任している[4]

人物

性格はおとなしく、監督、コーチから好かれることが多く、同僚ともトラブルなくうまく付き合っていると言われている。特に王監督は就任期間を通じて重用してきた。

私生活ではオフの番組で知り合ったタレントでクラリオンガール結城めぐみと1997年に結婚したが2002年に離婚。

大学時代から「爽やかな好青年」として一定の人気を誇ってきた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1995 ダイエー
ソフトバンク
14 38 34 2 6 0 0 0 6 2 0 1 1 0 3 0 0 9 0 .176 .243 .176 .420
1996 14 14 13 1 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 3 0 .231 .286 .231 .516
1997 18 6 5 7 2 0 0 0 2 0 0 1 0 0 1 0 0 2 0 .400 .500 .400 .900
1998 17 11 10 5 5 0 0 0 5 0 3 0 1 0 0 0 0 1 0 .500 .500 .500 1.000
1999 9 13 12 3 2 0 0 0 2 0 0 0 1 0 0 0 0 4 0 .167 .167 .167 .333
2000 87 277 245 31 64 9 3 0 79 20 3 3 9 3 18 0 2 61 1 .261 .313 .322 .636
2001 29 59 56 9 11 1 1 2 20 6 0 0 2 0 1 0 0 14 2 .196 .211 .357 .568
2002 34 65 57 7 10 2 0 0 12 3 2 0 2 0 5 0 1 9 0 .175 .254 .211 .464
2003 88 143 119 20 27 3 1 0 32 12 3 2 4 0 19 1 1 39 1 .227 .338 .269 .607
2004 88 280 252 34 73 7 6 2 98 24 4 1 9 2 16 1 1 53 7 .290 .332 .389 .721
2005 102 227 210 20 55 16 2 2 81 21 0 0 9 1 7 0 0 36 6 .262 .284 .386 .670
2006 116 374 328 35 80 14 0 2 100 30 1 0 17 1 25 1 3 96 6 .244 .303 .305 .607
2007 86 161 147 16 33 5 0 2 44 7 0 0 5 0 9 0 0 41 0 .224 .269 .299 .569
2008 61 103 100 11 23 3 1 2 34 10 0 0 2 0 1 0 0 28 2 .230 .238 .340 .578
2009 4 4 4 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .250 .250 .250 .500
通算:15年 767 1775 1592 202 395 60 14 12 519 135 16 8 62 7 106 3 8 398 25 .248 .297 .326 .623
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

年度別守備成績


一塁 二塁 三塁 遊撃 外野




























































1995 - - - 12 19 26 0 2 1.000 -
1996 - - 6 3 4 1 0 .875 3 2 0 0 0 1.000 -
1997 - - 7 1 3 1 0 .800 4 0 4 0 0 1.000 -
1998 2 0 0 0 0 - 2 0 0 0 0 - 5 0 1 0 0 1.000 - 4 4 1 0 0 1.000
1999 1 3 0 0 0 1.000 - 3 1 7 0 0 1.000 2 0 3 1 0 .750 -
2000 - 59 118 141 3 18 .989 10 8 10 0 0 1.000 25 25 64 1 10 .989 -
2001 1 3 0 0 0 1.000 - 3 0 0 0 0 - 20 18 29 3 8 .940 -
2002 4 32 1 0 6 1.000 1 1 1 0 0 1.000 1 0 2 0 1 1.000 26 19 30 1 7 .980 -
2003 30 53 3 1 7 .982 7 5 15 0 1 1.000 52 18 36 1 5 .982 1 0 0 0 0 - -
2004 7 39 2 0 4 1.000 12 14 19 1 5 .971 71 36 90 7 7 .947 3 0 2 0 1 1.000 -
2005 32 48 0 1 5 .980 47 64 83 0 14 1.000 12 2 3 0 0 1.000 30 28 67 0 13 1.000 -
2006 39 48 1 0 3 1.000 88 154 215 6 41 .984 20 8 32 1 3 .976 8 8 13 1 2 .955 -
2007 19 88 4 0 6 1.000 7 2 11 0 3 1.000 9 2 3 1 1 .833 27 23 52 3 12 .962 -
2008 25 64 2 0 2 1.000 16 19 24 1 7 .977 2 1 4 1 0 .833 5 4 5 0 0 1.000 -
通算 160 378 13 2 33 .995 239 377 509 11 89 .988 201 80 195 13 17 .955 166 146 295 10 55 .978 4 4 1 0 0 1.000

記録

NPB初記録
NPBその他の記録

独立リーグでの打撃成績









































O
P
S
2010 石川 66 245 29 81 14 2 6 51 0 2 1 17 3 46 6 .331 .378 .567 .945
通算:1年 66 245 29 81 14 2 6 51 0 2 1 17 3 46 6 .331 .378 .567 .945
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 10 (1995年 - 2009年)
  • 1 (2010年)

代表歴

脚注

注釈

  1. ^ 留萌市出身では他に若松勉(元ヤクルト)など。

出典

  1. ^ 94年11月18日スポーツニッポン朝刊「ダイエー“20年に1人の大型捕手”城島健司を強行指名」
  2. ^ a b 滋恵学園硬式野球部HP
  3. ^ 滋恵学園HP
  4. ^ 千葉ポルテクラブニュース
  5. ^ 第23回日米大学野球選手権大会 オールジャパンメンバー”. 公益財団法人全日本大学野球連盟. 2017年5月14日閲覧。

関連項目

外部リンク