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入団当初は[[投手]]で、入団2年目の{{by|1999年}}には[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]])で4勝(6敗)を挙げ、将来の主力投手として期待されていた。二軍のチーム名が「湘南シーレックス」になった{{by|2000年}}にはオープン戦の開幕投手に指名されたが、重度の腰痛でシーズンを棒に振ってしまい、オフに手術した。{{by|2001年}}のシーズン終盤に投手として復帰したが、{{by|2002年}}9月に内野手転向([[遊撃手]])。しかし、同年10月に戦力外通告を受けた。 |
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[[2012年]]シーズン限りで同社の野球部を引退、現在は社業に就いている。 |
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2020年5月14日 (木) 15:24時点における版
ニッセイ軟式野球部 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県名古屋市天白区 |
生年月日 | 1979年10月18日(44歳) |
身長 体重 |
185 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 遊撃手、投手 |
プロ入り | 1997年 ドラフト3位 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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関屋 智義(せきや ともよし、1979年10月18日 - )は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手(内野手)。
来歴・人物
愛知高等学校から1997年のドラフト会議にて横浜ベイスターズから3位指名を受け入団。
入団当初は投手で、入団2年目の1999年には二軍(イースタン・リーグ)で4勝(6敗)を挙げ、将来の主力投手として期待されていた。二軍のチーム名が「湘南シーレックス」になった2000年にはオープン戦の開幕投手に指名されたが、重度の腰痛でシーズンを棒に振ってしまい、オフに手術した。2001年のシーズン終盤に投手として復帰したが、2002年9月に内野手転向(遊撃手)。しかし、同年10月に戦力外通告を受けた。
その後は中日ドラゴンズ・福岡ダイエーホークス・千葉ロッテマリーンズのテストを受け、ダイエーのテストに合格・入団した。「野手転向したばかりでクビになるとは思わなかった。拾ってくれたダイエーに恩返ししたい」とコメントを残している。しかし、2003年年8月の広島東洋カープ戦でホーム突入の際、靭帯断裂の大怪我を負う。10月にトレード要員であることを告げられ、そのまま自由契約になり現役引退[1]。
引退後、トヨタ自動車の営業、芸能事務所のマネージャーなどの仕事を経て、2006年に愛知県に帰郷し佐川急便に入社。中京支社軟式野球部で内野手として2年間プレーし、天皇賜杯全日本軟式野球大会に出場した。その後[[2008年}]]から愛知県安城市のニッセイに転職、同社の軟式野球部でプレー。天皇賜杯全日本軟式野球大会国民体育大会に出場し2008年の大分国体では同チームの準優勝に大きく貢献した。
2012年シーズン限りで同社の野球部を引退、現在は社業に就いている。
詳細情報
年度別打撃成績
- 一軍公式戦出場なし
背番号
- 33 (1998年 - 2001年)
- 58 (2002年)
- 53 (2003年)
脚注
- ^ 球団事務所のゴミ箱に捨てたトライアウトの書類 関屋智義 - WEDGE 2015年6月25日付