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* [[佐川急便]]中京支社軟式野球部
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* [[ニッセイ]]軟式野球部
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== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
[[愛知中学校・高等学校|愛知高等学校]]から[[1997年]]ドラフト3位で、[[横浜ベイスターズ]]入団。
[[愛知中学校・高等学校|愛知高等学校]]から[[1997年]]の[[1997年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]にて[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]から3位指名を受け入団。


入団当初は[[投手]]で、入団2年目の[[1999年]]にはファームで4勝(6敗)をげ、将来の主力投手として期待されていた。
入団当初は[[投手]]で、入団2年目の{{by|1999年}}には[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]])で4勝(6敗)をげ、将来の主力投手として期待されていた。二軍のチーム名が「湘南シーレックス」になった{{by|2000年}}にはオープン戦の開幕投手に指名されたが、重度の腰痛でシーズンを棒に振ってしまい、オフに手術した。{{by|2001年}}のシーズン終盤に投手として復帰したが、{{by|2002年}}9月に内野手転向([[遊撃手]])。しかし、同年10月に戦力外通告を受けた。


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[[2000年]]にオープン戦の開幕投手に指名されながらも重度の腰痛でシーズンを棒に振ってしまい、オフに手術した。[[2001年]]のシーズン終盤に投手として復帰したが、[[2002年]]の9月に内野手転向([[遊撃手]])。しかし、同年10月に戦力外通告を受けた。


引退後、[[トヨタ自動車]]の営業、芸能事務所のマネージャーなどの仕事を経て、[[2006年]]に愛知県に帰郷し[[佐川急便]]に入社。中京支社軟式野球部で内野手として2年間プレーし、[[天皇賜杯全日本軟式野球大会]]に出場した。その後[[2008年}]]から愛知県[[安城市]]の[[ニッセイ]]に転職、同社の軟式野球部でプレー。[[天皇賜杯全日本軟式野球大会]][[国民体育大会]]に出場し2008年の大分国体では同チームの準優勝に大きく貢献した。
[[2003年]]、[[中日ドラゴンズ|中日]][[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]][[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]のテストを受け、ダイエーのテストに合格・入団した。「野手転向したばかりでクビになるとは思わなかった。拾ってくれたダイエーに[[恩返し]]したい」とコメントを残している。しかし、年8月の広島東洋カープ戦でホーム突入の際、靭帯断裂の大怪我を負う。10月にトレード要員であることを告げられ、そのまま[[自由契約]]になり現役引退<ref>[http://wedge.ismedia.jp/articles/-/5102 球団事務所のゴミ箱に捨てたトライアウトの書類 関屋智義] - [[WEDGE]] 2015年6月25日付</ref>。

引退後、[[トヨタ自動車]]の営業、芸能事務所のマネージャーの仕事を経て、[[2006年]]に愛知県に帰郷し[[佐川急便]]に入社。中京支社軟式野球部で内野手として2年間プレーし、[[天皇賜杯全日本軟式野球大会]]に出場した。その後[[2008年]]から愛知県[[安城市]]の[[ニッセイ]]に転職、同社の軟式野球部でプレー。[[天皇賜杯全日本軟式野球大会]][[国民体育大会]]に出場し2008年の大分国体では同チームの準優勝に大きく貢献した。


[[2012年]]シーズン限りで同社の野球部を引退、現在は社業に就いている。
[[2012年]]シーズン限りで同社の野球部を引退、現在は社業に就いている。

2020年5月14日 (木) 15:24時点における版

関屋 智義
ニッセイ軟式野球部
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市天白区
生年月日 (1979-10-18) 1979年10月18日(44歳)
身長
体重
185 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手投手
プロ入り 1997年 ドラフト3位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

関屋 智義(せきや ともよし、1979年10月18日 - )は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物

愛知高等学校から1997年ドラフト会議にて横浜ベイスターズから3位指名を受け入団。

入団当初は投手で、入団2年目の1999年には二軍イースタン・リーグ)で4勝(6敗)を挙げ、将来の主力投手として期待されていた。二軍のチーム名が「湘南シーレックス」になった2000年にはオープン戦の開幕投手に指名されたが、重度の腰痛でシーズンを棒に振ってしまい、オフに手術した。2001年のシーズン終盤に投手として復帰したが、2002年9月に内野手転向(遊撃手)。しかし、同年10月に戦力外通告を受けた。

その後は中日ドラゴンズ福岡ダイエーホークス千葉ロッテマリーンズのテストを受け、ダイエーのテストに合格・入団した。「野手転向したばかりでクビになるとは思わなかった。拾ってくれたダイエーに恩返ししたい」とコメントを残している。しかし、2003年年8月の広島東洋カープ戦でホーム突入の際、靭帯断裂の大怪我を負う。10月にトレード要員であることを告げられ、そのまま自由契約になり現役引退[1]

引退後、トヨタ自動車の営業、芸能事務所のマネージャーなどの仕事を経て、2006年に愛知県に帰郷し佐川急便に入社。中京支社軟式野球部で内野手として2年間プレーし、天皇賜杯全日本軟式野球大会に出場した。その後[[2008年}]]から愛知県安城市ニッセイに転職、同社の軟式野球部でプレー。天皇賜杯全日本軟式野球大会国民体育大会に出場し2008年の大分国体では同チームの準優勝に大きく貢献した。

2012年シーズン限りで同社の野球部を引退、現在は社業に就いている。

詳細情報

年度別打撃成績

  • 一軍公式戦出場なし

背番号

  • 33 (1998年 - 2001年)
  • 58 (2002年)
  • 53 (2003年)

脚注

  1. ^ 球団事務所のゴミ箱に捨てたトライアウトの書類 関屋智義 - WEDGE 2015年6月25日付

関連項目

外部リンク