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[[画像:Rheinland 1905.png|thumb|180px|right|1905年のラインラント]]
'''ラインラント'''(Rheinland、英語:Rhineland)は、[[ドイツ]]西部、[[ライン川]]沿岸の一帯を指す地方名称。
[[画像:Rheinprovinz Wappen.png|thumb|270px|right|ライン県の紋章]]
 
'''ラインラント'''(Rheinland、英語:Rhineland)は、[[ドイツ]]西部、[[ライン川]]沿岸の一帯を指す地方名称。
[[ラインラント=プファルツ州]]のほぼ全域と[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]西部を中心に、[[ヘッセン州]]西部、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域である[[アルザス]]や[[バーデン]]地方は含まず、[[カールスルーエ]]付近から[[オランダ]]国境付近までを指す。
 
[[ラインラント=プファルツ州]]のほぼ全域と[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]西部を中心に、[[ヘッセン州]]西部、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域である[[アルザス]]や[[バーデン]]地方は含まず、[[カールスルーエ]]付近から[[オランダ]]国境付近までを指す。[[ベネルクス]]三国や[[フランス]]の[[ロレーヌ]]地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である
[[ベネルクス]]三国や[[フランス]]の[[ロレーヌ]]地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。古代[[ローマ帝国]]の時代から都市が建設され、ドイツでは最も古くから文明が栄えた地域でもある。[[ケルン]]、[[マインツ]]などの歴史ある都市が点在し、[[中世]]には[[神聖ローマ帝国]]の中心的地域であった。
 
[[フランク族]]発祥地ということもあって方言系統は[[フランケン]]語系に属し、[[宗教]]的には比較的[[カトリック教会|カトリック]]が強い。観光名所が集まり、[[ドイツワイン]]の中心的産地としても世界的に知られる。
 
==歴史==
その地域的重要性から、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]以来フランスの侵攻をたびたび受けた。[[ナポレオン戦争]]の際には、ライン川西岸一帯がフランスの占領下に降ることとなった。[[ウィーン会議]]によって、[[プロイセン王国]]に割譲される。[[第一次世界大戦]]r後、[[ロカルノ条約]]によって[[ドイツ]]の領土でありながら[[非武装地帯]]とされた。ロカルノ条約を破毀した後、[[1936年]][[3月7日]]に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]によりドイツ軍がラインラントに進駐し、同地を解放した。
[[ベネルクス]]三国や[[フランス]]の[[ロレーヌ]]地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。古代[[ローマ帝国]]の時代から都市が建設され、ドイツでは最も古くから文明が栄えた地域でもある。[[ケルン]]、[[マインツ]]などの歴史ある都市が点在し、[[中世]]には[[神聖ローマ帝国]]の中心的を支える主要地域の一つであった。
 
その地域的重要性から、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]以来フランスの侵攻をたびたび受けた。[[ナポレオン戦争]]の際には、ライン川西岸一帯がフランスの占領下に降ることとなった。1815年の[[ウィーン議定書]]によって[[プロイセン王国]]に割譲され、1822年よりラインラント県がおかれた。周辺地域の豊富な地下資源と[[ライン川]]による物流という地理的優位性から、ドイツにおける工業化の中心地となり、1871年の[[ドイツ帝国]]成立後も工業地帯として発展した。[[第一次世界大戦]]後の[[パリ講和会議]]によって成立した[[ヴェルサイユ条約]]で、ラインラントの非武装化が定められた。その後、1925年の[[ロカルノ条約]]によって、再びこの地が[[非武装地帯]]であることが確認されたが、1933年に成立したヒトラー政権のもとでヴェルサイユ条約、ロカルノ条約が破棄され、[[1936年]][[3月7日]]にドイツ軍がラインラントに進駐した。第二次世界大戦後、ドイツにおける行政区の見直しが行われ、[[ラインラント=プファルツ州]]、[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]などを構成する一地域となった。
 
==主な都市==
 
==関連項目==
*[[ラインラント=プファルツ州]]
*[[ドイツのワイン]]
*[[ルール地方]]
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