「ラインラント」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Libertas (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Hasi (会話 | 投稿記録)
少し加筆、画像
1行目: 1行目:
[[画像:Rheinland 1905.png|thumb|180px|right|1905年のラインラント]]
'''ラインラント'''(Rheinland、英語:Rhineland)は、[[ドイツ]]西部、[[ライン川]]沿岸の一帯を指す地方名称。
[[画像:Rheinprovinz Wappen.png|thumb|270px|right|ライン県の紋章]]


'''ラインラント'''(Rheinland、英語:Rhineland)は、[[ドイツ]]西部、[[ライン川]]沿岸の一帯を指す地方名称。
[[ラインラント=プファルツ州]]のほぼ全域と[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]西部を中心に、[[ヘッセン州]]西部、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域である[[アルザス]]や[[バーデン]]地方は含まず、[[カールスルーエ]]付近から[[オランダ]]国境付近までを指す。


[[ラインラント=プファルツ州]]のほぼ全域と[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]西部を中心に、[[ヘッセン州]]西部、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域である[[アルザス]]や[[バーデン]]地方は含まず、[[カールスルーエ]]付近から[[オランダ]]国境付近までを指す。[[ベネルクス]]三国や[[フランス]]の[[ロレーヌ]]地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である
[[ベネルクス]]三国や[[フランス]]の[[ロレーヌ]]地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。古代[[ローマ帝国]]の時代から都市が建設され、ドイツでは最も古くから文明が栄えた地域でもある。[[ケルン]]、[[マインツ]]などの歴史ある都市が点在し、[[中世]]には[[神聖ローマ帝国]]の中心的地域であった。


[[フランク族]]発祥地ということもあって方言系統は[[フランケン]]語系に属し、[[宗教]]的には比較的[[カトリック教会|カトリック]]が強い。観光名所が集まり、[[ドイツワイン]]の中心的産地としても世界的に知られる。
[[フランク族]]発祥地ということもあって方言系統は[[フランケン]]語系に属し、[[宗教]]的には比較的[[カトリック教会|カトリック]]が強い。観光名所が集まり、[[ドイツワイン]]の中心的産地としても世界的に知られる。


==歴史==
その地域的重要性から、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]以来フランスの侵攻をたびたび受けた。[[ナポレオン戦争]]の際には、ライン川西岸一帯がフランスの占領下に降ることとなった。[[ウィーン会議]]によって、[[プロイセン王国]]に割譲される。[[第一次世界大戦]]r後、[[ロカルノ条約]]によって[[ドイツ]]の領土でありながら[[非武装地帯]]とされた。ロカルノ条約を破毀した後、[[1936年]][[3月7日]]に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]によりドイツ軍がラインラントに進駐し、同地を解放した。
古代[[ローマ帝国]]の時代から都市が建設され、ドイツでは最も古くから文明が栄えた地域でもある。[[ケルン]]、[[マインツ]]などの歴史ある都市が点在し、[[中世]]には[[神聖ローマ帝国]]を支える主要地域の一つであった。

その地域的重要性から、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]以来フランスの侵攻をたびたび受けた。[[ナポレオン戦争]]の際には、ライン川西岸一帯がフランスの占領下に降ることとなった。1815年の[[ウィーン議定書]]によって[[プロイセン王国]]に割譲され、1822年よりラインラント県がおかれた。周辺地域の豊富な地下資源と[[ライン川]]による物流という地理的優位性から、ドイツにおける工業化の中心地となり、1871年の[[ドイツ帝国]]成立後も工業地帯として発展した。[[第一次世界大戦]]後の[[パリ講和会議]]によって成立した[[ヴェルサイユ条約]]で、ラインラントの非武装化が定められた。その後、1925年の[[ロカルノ条約]]によって、再びこの地が[[非武装地帯]]であることが確認されたが、1933年に成立したヒトラー政権のもとでヴェルサイユ条約、ロカルノ条約が破棄され、[[1936年]][[3月7日]]にドイツ軍がラインラントに進駐した。第二次世界大戦後、ドイツにおける行政区の見直しが行われ、[[ラインラント=プファルツ州]]、[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]などを構成する一地域となった。


==主な都市==
==主な都市==
22行目: 26行目:


==関連項目==
==関連項目==
*[[ラインラント=プファルツ州]]
*[[ドイツのワイン]]
*[[ドイツのワイン]]
*[[ルール地方]]
*[[ルール地方]]

2006年9月17日 (日) 14:53時点における版

1905年のラインラント
ファイル:Rheinprovinz Wappen.png
ライン県の紋章

ラインラント(Rheinland、英語:Rhineland)は、ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯を指す地方の名称。

ラインラント=プファルツ州のほぼ全域とノルトライン=ヴェストファーレン州西部を中心に、ヘッセン州西部、バーデン=ヴュルテンベルク州北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域であるアルザスバーデン地方は含まず、カールスルーエ付近からオランダ国境付近までを指す。ベネルクス三国やフランスロレーヌ地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。

フランク族発祥地ということもあって方言系統はフランケン語系に属し、宗教的には比較的カトリックが強い。観光名所が集まり、ドイツワインの中心的産地としても世界的に知られる。

歴史

古代ローマ帝国の時代から都市が建設され、ドイツでは最も古くから文明が栄えた地域でもある。ケルンマインツなどの歴史ある都市が点在し、中世には神聖ローマ帝国を支える主要地域の一つであった。

その地域的重要性から、ルイ14世以来フランスの侵攻をたびたび受けた。ナポレオン戦争の際には、ライン川西岸一帯がフランスの占領下に降ることとなった。1815年のウィーン議定書によってプロイセン王国に割譲され、1822年よりラインラント県がおかれた。周辺地域の豊富な地下資源とライン川による物流という地理的優位性から、ドイツにおける工業化の中心地となり、1871年のドイツ帝国成立後も工業地帯として発展した。第一次世界大戦後のパリ講和会議によって成立したヴェルサイユ条約で、ラインラントの非武装化が定められた。その後、1925年のロカルノ条約によって、再びこの地が非武装地帯であることが確認されたが、1933年に成立したヒトラー政権のもとでヴェルサイユ条約、ロカルノ条約が破棄され、1936年3月7日にドイツ軍がラインラントに進駐した。第二次世界大戦後、ドイツにおける行政区の見直しが行われ、ラインラント=プファルツ州ノルトライン=ヴェストファーレン州などを構成する一地域となった。

主な都市

関連項目