「歓喜力行団」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎活動: タイプミスを修正
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 Androidアプリ編集
m編集の要約なし
29行目: 29行目:
ナチスは1936年に[[ハンブルク]]で「世界厚生会議」を開催し歓喜力行団の活動により生産性が向上したとPRしたこともあり、労働者の休暇が外国からも注目された<ref name=asahi11965834 />。
ナチスは1936年に[[ハンブルク]]で「世界厚生会議」を開催し歓喜力行団の活動により生産性が向上したとPRしたこともあり、労働者の休暇が外国からも注目された<ref name=asahi11965834 />。


日本では1938年に歓喜力行団をモデルとした「日本厚生協会」<ref>[[日本レクリエーション協会]]の前進組織。感染症予防活動を行う「[[公益社団法人]]日本厚生協会」とは別の組織</ref>を設立したが、[[精神論]]な考えが強調され、休暇を与えるのではなく体を鍛えるなどの活動が中心となり、広がりを見せないまま数年で終息した<ref name=asahi11965834 />。
日本では1938年に歓喜力行団をモデルとした「日本厚生協会」<ref group="注釈">[[日本レクリエーション協会]]の前進組織。感染症予防活動を行う「[[公益社団法人]]日本厚生協会」とは別の組織</ref>を設立したが、[[精神論]]な考えが強調され、休暇を与えるのではなく体を鍛えるなどの活動が中心となり、広がりを見せないまま数年で終息した<ref name=asahi11965834 />。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}



==関連項目==
==関連項目==

2020年1月10日 (金) 06:47時点における版

歓喜力行団の旗
歓喜力行団のスポーツクラブ

歓喜力行団(かんきりっこうだん、ドイツ語: Kraft durch Freude(喜びを通じて力を)、略称 KdF )は、ナチス党政権下のドイツにおいて国民に多様な余暇活動を提供した組織である[1]ロベルト・ライ率いるドイツ労働戦線(DAF)の下部組織として、国家の管理のもと、旅行スポーツコンサート・祝祭典などを企画した。この活動の目的は、ナチス党の理想を行き渡らせ、党政権下のドイツへの忠誠心を高めることが目的だった。

活動

歓喜力行団のクルーズ客船「ロベルト・ライ」
歓喜力行団主催のヴァリエテの開催案内

歓喜力行団は娯楽の「喜び」を通じて労働の「力」を回復させるための党組織で、1933年より音楽コンサート、日帰りから長期までのパッケージツアー、リゾート地やクルーズ船での保養など、それまで労働者階級には手が届かなかったような中産階級的レジャー活動を広く国民全体に提供した。バルト海リューゲン島の砂浜にある巨大な保養施設プローラや、数多くの大型クルーズ船(いわゆるKdF-Schiff)はその好例である。他の主要な渡航先として大西洋にあるポルトガル領マデイラ島などが挙げられる。1934年から1939年の間に約4500万のパッケージツアーが販売しており、当時としては世界最大の旅行代理店とも評価されている[1]。当時配布された旅行パンフレットはベルリン工科大学の観光歴史アーカイブに所蔵されている[1]

歓喜力行団は単に国民へサービスを提供する組織ではなく、究極の目的は余暇活動を上流階級から下流階級まであらゆる大衆に格差なく提供し、階級ごとに分断されたドイツ人を階級対立のないひとつの「民族共同体」にまとめる橋渡しをすることであった。また「生の喜び」を肯定する余暇、スポーツ、演奏会、祭典などの機会を国民に提供することで、ナチスの理想とする力強さや美しさといった共同体の理念や存在を大衆に全身で理解させ信じさせようというものだった。ナチスの幹部はすでに戦争が回避できないと察知しており、労働者に休暇を与えることで低賃金でも不満を漏らさないようにするというガス抜きの意味もあった[1]。提供されるサービスは労働者にとって恩恵が大きく、ナチスに否定的な戦後世論でも歓喜力行団を懐かしむ者がいるという[1]

国民的余暇組織のアイデアはイタリアファシスト党ドーポラボーロ(Dopolavoro、正式名称:全国余暇事業団 Opera nazionale dopolavoro、「仕事の後の余暇」を通じて労働者をファシズムに親しませる組織)から借りたが、歓喜力行団はその活動を職場単位にまで拡張した。歓喜力行団は提供する活動を増やし、大衆の人気を博してドイツ最大級の組織となった。1939年までに7,000人の職員と135,000人のボランティアが歓喜力行団のために働き、スポーツ、生涯学習、旅行、夕べの催しなどを管轄する部局に分かれていた。20人以上の労働者のいる工場にはすべて歓喜力行団の委員がいた。ある推計では、1939年までに2500万人以上が活動に参加したとされている。歓喜力行団は1939年にこれらの国民的活動をたたえられ、国際オリンピック委員会からオリンピック・カップを贈られた[2]

アドルフ・ヒトラーが歓喜力行団の提供する休暇により労働者が回復することを望んでいるという言葉が残されているが、後年の研究者はヒトラーはそれほど関心が無く、企業も労働者が休むことを望んでいなかったが、歓喜力行団の運営に関わる者が目的達成のため権威を利用した捏造と推察している[1]

戦況が悪化すると客船は病院船に転用され、一部の積立制度(後述)が反故にされるなど提供されるサービスが削減された[1]

歓喜力行団の車(KdF-Wagen)

フォルクスワーゲン・タイプ1

歓喜力行団は、勤労大衆のための手頃な価格の自動車の購入に関与した。これはヒトラーが政権に就いた直後に発表した国民車構想に基づいて、フェルディナント・ポルシェによって設計、開発された、後に「フォルクスワーゲン・タイプ1」となる乗用車である。1938年に正式に「歓喜力行団の車」(KdF-Wagen,カーデーエフヴァーゲン)と名づけられた。

同年、ニーダーザクセン州に新都市「歓喜力行団の車を生産する街」(Stadt des KdF-Wagens、KdF-Stadt)が建設され、生産工場や労働者住宅が建てられた。戦後はヴォルフスブルクと改名され、フォルクスワーゲン・グループの本部が置かれている。

歓喜力行団は労働者向けに、「歓喜力行団の車」を購入するための特別貯蓄制度を設けた。これは一般大衆でも車を買えるようにした積立制度で、自家用車に乗りたいなら、毎週5マルク貯めよう(Fünf Mark die Woche musst Du sparen, willst Du im eigenen Wagen fahren)のスローガンの下に33万6,000人ほどが積立金の支払を行った。しかし、翌年の第二次世界大戦の開戦により実際に納車されることはほとんどなかった。自動車工場も戦争遂行のために軍用車生産へと回された。

第二次世界大戦の終結後、新たに創業したフォルクスワーゲン社は積立金を支払った人々に応えて、歓喜力行団が実行し得なかった納車(西ドイツのみが対象)を行っている。また同モデルは、1978年までモデルチェンジなしで生産され世界各国で販売された。

海外

ナチスは1936年にハンブルクで「世界厚生会議」を開催し歓喜力行団の活動により生産性が向上したとPRしたこともあり、労働者の休暇が外国からも注目された[1]

日本では1938年に歓喜力行団をモデルとした「日本厚生協会」[注釈 1]を設立したが、精神論な考えが強調され、休暇を与えるのではなく体を鍛えるなどの活動が中心となり、広がりを見せないまま数年で終息した[1]

脚注

注釈

  1. ^ 日本レクリエーション協会の前進組織。感染症予防活動を行う「公益社団法人日本厚生協会」とは別の組織

出典


関連項目

外部リンク