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[[File:TK73 of Suemura Kiln Site.jpg|thumb|220px|right|{{center|TK73(大阪府指定史跡)}}]]
[[File:TG61 of Suemura Kiln Site.jpg|thumb|220px|right|{{center|TG61(移築復元)}}]]
大阪府南部の丘陵地帯([[堺市]]、[[和泉市]]、[[岸和田市]]、[[大阪狭山市]])に多数の窯跡が分布する。上記の丘陵地一帯に広がることから大阪府南部窯址群(阪南窯址群)とも呼ばれる<ref>森
陶邑の名称は、[[崇神天皇]]の時、[[倭迹迹日百襲媛命]]が[[神懸り]]して受けた[[託宣]]により茅渟県の陶邑において[[大田田根子]]を探し出し、[[大和]][[三輪山]]の神、[[大物主]]を祭る[[神主]](三輪山の麓にある[[大神神社]]の始まりとされる。実は大田田根子は、大物主が人間の娘、生玉依媛のもとに通って産ませた隠し子であったとする)とし、それまで続いていた疫病や災害を鎮めたとする[[日本書紀]]の記述に基づく。この窯業生産地全体を指す呼称ではないのはもちろん、同時代にそのように呼称されていたのではない、後世つけられた呼称であるのは言うまでもない。
陶邑窯一帯の生産は、[[7世紀]]以降衰退が始まる。衰退の原因の一つは、燃料となる[[森林]]資源を消費しつくしたためと考えられている。少なくなりつつある燃料材をめぐる争いは、『[[日本三代実録]]』の中で「[[陶山の薪争い]]」として記録されている<ref>[http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/suemurakamaato.html 陶邑窯跡群-泉北丘陵周辺の遺跡と古墳] 堺市ホームページ 2017年12月1日閲覧</ref>ほか、時代が経るにつれ使用される[[木炭]]の樹種が、更新可能な[[広葉樹]]から荒廃地でも生育する[[アカマツ]]に変化していることからも裏付けられている<ref>太田猛彦『森林飽和』p94 NHK出版 2012年</ref>。
==初期須恵器窯と畿内政権(ヤマト王権)==
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