「ヨハン・ゲオルク1世 (アンハルト=デッサウ侯)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
リンク先変更
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{基礎情報 皇族・貴族
[[ファイル:JohannGeorgAnhDorotheaSimmern.jpg|thumb|right|ヨハン・ゲオルク1世と後妻のドロテア]]
| 人名 = ヨハン・ゲオルク1世
| 各国語表記 = Johann Georg I.
| 家名・爵位 = [[アンハルト公国|アンハルト]]侯<br>アンハルト=デッサウ侯
| 画像 = JohannGeorgAnhDorotheaSimmern.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = ヨハン・ゲオルク1世と後妻のドロテア
| 在位 = [[アンハルト公国|アンハルト]]侯:[[1586年]] - [[1603年]]<br>アンハルト=デッサウ侯:1603年 - [[1618年]]
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1567|5|9|no}}
| 生地 =
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1567|5|9|1618|5|24}}
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = ドロテア・フォン・マンスフェルト=アルンシュタイン
| 配偶者2 = ドロテア・フォン・プファルツ=ジンメルン
| 子女 = [[#結婚と子女|一覧参照]]
| 家名 = [[アスカーニエン家]]
| 父親 = アンハルト侯[[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト侯)|ヨアヒム・エルンスト]]
| 母親 = アグネス・フォン・バルビ
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''ヨハン・ゲオルク1世'''('''Johann Georg I. von Anhalt-Dessau''', [[1567年]][[5月9日]] - [[1618年]][[5月24日]])は、[[アンハルト公国|アンハルト]]侯(在位:[[1586年]] - 1603年)、後にアンハルト=デッサウ侯(在位:1603年 - 1618年)。
'''ヨハン・ゲオルク1世'''('''Johann Georg I. von Anhalt-Dessau''', [[1567年]][[5月9日]] - [[1618年]][[5月24日]])は、[[アンハルト公国|アンハルト]]侯(在位:[[1586年]] - 1603年)、後にアンハルト=デッサウ侯(在位:1603年 - 1618年)。


== 生涯 ==
アンハルト侯[[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト侯)|ヨアヒム・エルンスト]]とその最初の妻アグネス・フォン・バルビの間の長男として生まれた。1586年に父が死ぬと、彼は[[長子相続]]を定めていない家憲に従って、同母弟の[[クリスティアン1世 (アンハルト=ベルンブルク侯)|クリスティアン1世]]及び5人の異母弟達(ベルンハルト、[[アウグスト (アンハルト=プレッツカウ侯)|アウグスト]]、[[ルドルフ (アンハルト=ツェルプスト侯)|ルドルフ]]、ヨハン・エルンスト、[[ルートヴィヒ1世 (アンハルト=ケーテン侯)|ルートヴィヒ1世]])と共にアンハルト侯領を共同で相続した。大勢の異母弟達が未成年のため、彼らが成人するまではヨハン・ゲオルクが侯領の統治を単独で行った。
アンハルト侯[[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト侯)|ヨアヒム・エルンスト]]とその最初の妻アグネス・フォン・バルビの間の長男として生まれた。1586年に父が死ぬと、彼は[[長子相続]]を定めていない家憲に従って、同母弟の[[クリスティアン1世 (アンハルト=ベルンブルク侯)|クリスティアン1世]]及び5人の異母弟達(ベルンハルト、[[アウグスト (アンハルト=プレッツカウ侯)|アウグスト]]、[[ルドルフ (アンハルト=ツェルプスト侯)|ルドルフ]]、ヨハン・エルンスト、[[ルートヴィヒ1世 (アンハルト=ケーテン侯)|ルートヴィヒ1世]])と共にアンハルト侯領を共同で相続した。大勢の異母弟達が未成年のため、彼らが成人するまではヨハン・ゲオルクが侯領の統治を単独で行った。



2019年11月29日 (金) 10:05時点における版

ヨハン・ゲオルク1世
Johann Georg I.
アンハルト
アンハルト=デッサウ侯
ヨハン・ゲオルク1世と後妻のドロテア
在位 アンハルト侯:1586年 - 1603年
アンハルト=デッサウ侯:1603年 - 1618年

出生 (1567-05-09) 1567年5月9日
死去 (1618-05-24) 1618年5月24日(51歳没)
配偶者 ドロテア・フォン・マンスフェルト=アルンシュタイン
  ドロテア・フォン・プファルツ=ジンメルン
子女 一覧参照
家名 アスカーニエン家
父親 アンハルト侯ヨアヒム・エルンスト
母親 アグネス・フォン・バルビ
テンプレートを表示

ヨハン・ゲオルク1世Johann Georg I. von Anhalt-Dessau, 1567年5月9日 - 1618年5月24日)は、アンハルト侯(在位:1586年 - 1603年)、後にアンハルト=デッサウ侯(在位:1603年 - 1618年)。

生涯

アンハルト侯ヨアヒム・エルンストとその最初の妻アグネス・フォン・バルビの間の長男として生まれた。1586年に父が死ぬと、彼は長子相続を定めていない家憲に従って、同母弟のクリスティアン1世及び5人の異母弟達(ベルンハルト、アウグストルドルフ、ヨハン・エルンスト、ルートヴィヒ1世)と共にアンハルト侯領を共同で相続した。大勢の異母弟達が未成年のため、彼らが成人するまではヨハン・ゲオルクが侯領の統治を単独で行った。

1603年、ヨハン・ゲオルクと存命中の弟4人の間で分割相続に関する協定が結ばれ(ベルンハルトは1596年、ヨハン・エルンストは1601年に死去)、ヨハン・ゲオルクは長子の相続領とされたアンハルト=デッサウ侯領を確保した。ヨハン・ゲオルクは1606年まで弟達の創設した諸侯領全体を統治したが、それ以後は弟達は独立した。ヨハン・ゲオルクはデッサウの統治者として領内の宗教改革を熱心に進め、カトリック教会の伝統文化と典礼の根絶を強圧的な姿勢で続けた。妹のザクセン=ヴァイマル公爵夫人ドロテア・マリアの葬儀の最中だった1617年8月24日、ヨハン・ゲオルクは末弟のアンハルト=ケーテン侯ルートヴィヒ1世と共にドイツ最初の文芸サークル「実りを結ぶ会」を結成した。

ヨハン・ゲオルクは領民に非常に好かれた統治者であり、博学で、特に占星術錬金術に通じていた。彼の書庫には3000冊の書物が所蔵されていた。

結婚と子女

1588年2月22日、マンスフェルト=アルンシュタイン伯ヨハン・アルブレヒト6世の娘ドロテア(1561年 - 1594年)と結婚し、間に5人の子女をもうけた。

  • ゾフィー・エリーザベト(1589年 - 1622年) - 1614年、レグニツァ公イェジ・ルドルフと結婚
  • アグネス・マグダレーネ(1590年 - 1626年) - 1617年、ヘッセン=カッセル方伯世子オットーと結婚
  • アンナ・マリア(1591年 - 1637年)
  • ヨアヒム・エルンスト(1592年 - 1616年)
  • クリスティアン(1594年)

1595年2月21日、プファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミールの娘ドロテア(1581年 - 1631年)と再婚し、間に11人の子女をもうけた。

  • ヨハン・カジミール(1596年 - 1660年) - アンハルト=デッサウ侯
  • アンナ・エリーザベト(1598年 - 1660年) - 1617年、ベントハイム=シュタインフルト伯ヴィルヘルム・ハインリヒと結婚
  • フリードリヒ・モーリッツ(1600年 - 1610年)
  • エレオノーレ・ドロテア(1602年 - 1664年) - 1625年、ザクセン=ヴァイマル公ヴィルヘルムと結婚
  • ジビッレ・クリスティーネ(1603年 - 1686年) - 1627年にハーナウ=ミュンツェンベルク伯フィリップ・モーリッツと結婚、1647年にハーナウ=リヒテンベルク伯フリードリヒ=カジミールと再婚
  • ハインリヒ・ヴァルデマール(1604年 - 1606年)
  • ゲオルク・アリベルト(1606年 - 1643年)
  • クニグンデ・ユリアーネ(1608年 - 1683年) - 1651年、ヘッセン=ローテンブルク方伯ヘルマン4世と結婚
  • ズザンナ・マルガレーテ(1610年 - 1663年) - 1651年、ハーナウ=リヒテンベルク伯ヨハン・フィリップと結婚
  • ヨハンナ・ドロテア(1612年 - 1695年) - 1636年、ベントハイム=テクレンベルク伯モーリッツと結婚
  • エーファ・カタリーナ(1613年 - 1679年)
先代
ヨアヒム・エルンスト
アンハルト侯
1586年 - 1603年
クリスティアン1世、ベルンハルト、アウグストルドルフ、ヨハン・エルンスト、ルートヴィヒ1世と共同統治
次代
5つに分割
先代
アンハルトから分割
アンハルト=デッサウ侯
1603年 - 1618年
次代
ヨハン・カジミール