「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の版間の差分

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==概要==
 1954年3月20日に「ソニー・デイ・アンド・ヒズ・ナイツ」(Sonny Dae and His Knights)によって初めてレコーディングされ、同年5月15日にアメリカで発売された[[ビル・ヘイリー|ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツ]]によるシングル・[[レコード]]が大ヒットした。
 
===経緯===
 1952年10月23日、マックス・C・フリードマンとジェームズ・E・マイヤーズの間で共同作曲の合意が交わされ、<ref name="fa" />1953年3月31日[[アメリカ議会図書館]]に著作権登録された。<ref>英語版wikipedia[[:en:Rock Around the Clock|Rock Around the Clock]]より引用 2017年5月20日閲覧</ref>版権の所有者でもあるマイヤーズ(レーベル・クレジットのジミー・デナイト『Jimmy DeKnight』はメイヤーズの変名)によって、この曲は[[ビル・ヘイリー]]に提供されていたが、当時ビルが在籍していたエセックス・レコードの経営者デイブ・ミラー(Dave Miller)とマイヤーズの確執により録音は見送られていた。ビル曰く「2年ほどポケットに入れて持ち歩いていた。」<ref group="脚注">著作権登録から録音まで約1年であるが原文をそのまま引用した</ref>1954年、デッカレコードへ移籍の際、「ロック・アラウンド・ザ・クロックを最初に録音する」事がデッカの[[ミルト・ゲイブラー]]、ヘイリー、マイヤーズの間で約束された。<ref name="fu"> Finnis,Rob(著)『DON'T KNOCK THE ROCK』NEW KOMMOTION Vol.24、1980年、16頁</ref>
 
'''ソニー・デイ盤'''
 
 ビル・ヘイリーと友人関係にあったソニー・デイ(本名 パスカル・ヴェニッティ)は当時のビルのマネージャー、ジャック・ハワード(Jack Howard)が所有するアーケイド(Arcaed)レコードから1954年3月<ref>http://www.45cat.com/artist/sonny-dae-and-his-knights</ref>に「ソニー・デイ・アンド・ヒズ・ナイツ」名義で同曲をリリースする。ビル・ヘイリー盤とソニー・デイ盤、この二つのレコードは一般的な「オリジナル曲」と「カヴァー・バージョン」の関係とは異なり、むしろ競作に近い。<ref name="fa" />
 
===録音===
[[ファイル:The Pythian.jpg|サムネイル|右|Pythian Temple NY]]
 当時デッカはNYにあるピディアン・テンプル・スタジオで多数の録音を行っていた。通常のスタジオは壁に反射する音を防ぐためのパッドを重厚に詰め込み、いわゆる「デッド・ルーム」な状態とするが、このスタジオは反響の強い「ライブ」な音響特性を持っていた。<ref name="fu" />
 
 デッカレコードの[[A&R]]マン、[[ミルト・ゲイブラー]]は当時をこう語る。<ref group="脚注" name="fg">1970年 Rob FinnisがMilt gablerに対して行ったインタビュー</ref>「[[コロムビア・レコード|コロムビア]]は30番街の教会で録音していたが、私たちはブラスや弦楽器の自然なエコーが得られる場所を探していた(1940年代初頭デッカはPythian Templeの建物の一部をスタジオとして借りる)。ピディアン・テンプルはホテルのボールルームのようなもので、大きく高い天井とバルコニー、そしてステージがあった。全体のバランス調整ためにバルコニーにカーペットを敷きサウンドを「殺し」、<ref group="脚注">バルコニーは室内の桟敷を指す</ref>部屋に[[リバーブ]]を拾うマイクを設置、ビル以外のメンバーはフロアより約4フィート高いステージに上げて録音を行った。こうすることで彼らは通常のライブ演奏のように相手を感じながら演奏する事が出来、音響的にもステージの背後まで降りた天井が、丁度自然な「殻」のような状態となって最高のサウンドを生み出した。ステージから6~8フィート離れた場所にいるビルはフロアからバンドを見上げる格好になった。 」<ref name="fu" />
 
'''ミルト・ゲイブラー'''[ Milt Gabler](1911~2001)  1937年NYにコモドア・レコードを設立、[[ビリー・ホリデイ]]、[[ジェリー・ロール・モートン]]などの歴史的録音を行う。1941年デッカ入りし[[A&R]]マンとして数々のポップ、ジャズレコードの制作を手掛ける。<ref name="fu" />
 
1954年4月12日 ニューヨーク東70番街135 ピディアン・テンプル  スタジオ-A
*ビル・ヘイリー  [[:en:Bill Haley|Bill Haley]] - [[ヴォーカル]]と[[リズム・ギター]]
*マーシャル・ライテル  [[:en:Marshall Lytle|Marshall Lytle]] - [[ベース]]
*ジョーイ・アンブロス  [[:en:Joey Ambrose|Joey Ambrose]] -  [[テナーサックス]]
*ビリー・ウィリアムソン  [[:en:Billy Williamson|Billy Williamson]] - [[スティール・ギター]]
*ジョニー・グランデ  [[:en:Johnny Grande|Johnny Grande]] - [[ピアノ]]
*ビリー・ガサック  [[:en:Billy Gussak|Billy Gussak]] - [[ドラム]]
*ダニー・セドロン  [[:en:Danny Cedrone|Danny Cedrone]] - [[エレクトリック・ギター]] 
 
 ゲイブラーのプロデュースの元、午後2時15分録音が始まる。予定では午前11時スタートであったが、メンバー達がNYへ移動の際、フェリーの運航トラブルによりスタジオ入りが遅れたためこの時間となった。先にゲイブラーが提供した[サーティン・ウーマン]が 吹き込まれる。[ロック・アラウンド・ザ・クロック]の録音の際、パートタイムのメンバーであったダニー・セドロンはこの楽曲を正確に把握しておらず、他のメンバーから「ロック・ザ・ジョイントの時のソロを弾いたらどうか」という提案を受け入れてソロパートを演奏した。ファーストテイクはビルのヴォーカルがバッキングの音に埋もれNG、テイク2がOKとなり,5時40分録音が終了した。 <ref name="fu" />
<ref>Gardner,Chris(解説)『ROCK THE JOINT!』ROLLER COASTER LP、1985年。</ref>
 
===リリースと反応===
[[ファイル:Bill Haley and Comets 1956.JPG|サムネイル|右|Bill (l. to r.) are Billy Williamson, Charlie Higler, Marshall Lytle and Johnny Grande. 1953<ref group="脚注"> Charlie HiglerはComets最初のドラマー。ツアー参加のみ、録音の記録は無い。サックスがバンド編入される以前の写真</ref>]]
 1954年5月15日<ref name="to">[http://rcs-discography.com/rcs/artist.php?key=hale6200 Rock'n Country Style]</ref><ref group="脚注">原文では5月10日発売となっているがChris Gardner氏作成のディスコグラフィーに基づいた。他に20日説もあり</ref>ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツのデッカ移籍最初のレコードとして発売された。 「それはデッカが毎月リリースする大量のレコードの中の一枚に過ぎなかった。」ゲイブラーは語る.<ref group="脚注" name="fg"/>「C&W、R&B、ではなくロックンロールという言葉も無かった。通常のポップレコードの扱いで、レーベルに記載される分類も『Foxtrot』(ダンス音楽)だった。7万5千枚売り上げたがスマッシュヒットとは言えない。ところが2枚目の「シェイク・ラトル・アンド・ロール」が全米トップ10入りの大ヒットになった時、ラジオ局に再度「ロック・アラウンド~」を送ったところ両方共に100万枚を売り上げた。そして最終的に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は2,000万枚を記録することになった。」<ref name="fu" />
 
 1955年、映画監督リチャード・ブルックスは戦後世代の少年非行を扱った映画「[[暴力教室 (1955年の映画)|暴力教室]]」のテーマ・ソングを探していた。出演者グレン・フォードの息子ピーター・フォードは「ロック・アラウンド~」をブルックスに紹介、同映画の主題曲として採用される。<ref name="fa">[http://www.rockabillyhall.com/RockClockTribute.html The Story of 'Rock Around the Clock': The First Cuckoo of Spring]</ref>発売当初この曲は「サーティン・ウーマン」のB面だったが,同年春に映画が公開されると「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は[[ビルボード]]チャートで7月9日から8月27日まで8週連続1位([[Billboard Hot 100#歴史|Best Sellers In Stores]])、R&B部門3位、年間総合チャート2位を記録する。また、この曲のヒットをきっかけに世界的なロックンロール・ブームが起こる。<ref name="fu" />
 
 1955年、映画監督リチャード・ブルックスは戦後世代の少年非行を扱った映画「[[暴力教室 (1955年の映画)|暴力教室]]」のテーマ・ソングを探していた。出演者グレン・フォードの息子ピーター・フォードは「ロック・アラウンド~」をブルックスに紹介、同映画の主題曲として採用される。<ref name="fa">[http://www.rockabillyhall.com/RockClockTribute.html The Story of 'Rock Around the Clock': The First Cuckoo of Spring]</ref>発売当初この曲は「サーティン・ウーマン」のB面だったが,同年春に映画が公開されると「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は[[ビルボード]]チャートで7月9日から8月27日まで8週連続1位([[Billboard Hot 100#歴史|Best Sellers In Stores]])、R&B部門3位、年間総合チャート2位を記録する。また、この曲のヒットをきっかけに世界的なロックンロール・ブームが起こる。<ref name="fu" />
==いくつかの疑問==
===原曲===
[[ファイル:Hank Williams Promotional Photo.jpg|サムネイル|upright|Hank Williams 1951]]
 マイヤーズ/フリードマン版「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(この項以下『RATC』と略す)の原曲とされたものを以下に整理する。
 
〇タイトルに関連がみられるが異曲とされるもの
 
===作曲者===
 真の作曲者が誰であるか不明である。ヘイリーの歴史家クリス・ガードナーが1979年にマイヤーズに行ったインタビューに対し「私(マイヤーズ)が指一本で演奏するピアノを聴いて、マックス・フリードマンが部屋に入り曲の完成を手伝いました。私はフリードマンに“Rock Around the Clock”は“Dance Around the Clock”よりも優れたタイトルであるとアドバイスしました。」と語っている。<ref name="fa" />
 
 真の作曲者が誰であるか不明である。ヘイリーの歴史家クリス・ガードナーが1979年にマイヤーズに行ったインタビューに対し「私(マイヤーズ)が指一本で演奏するピアノを聴いて、マックス・フリードマンが部屋に入り曲の完成を手伝いました。私はフリードマンに“Rock Around the Clock”は“Dance Around the Clock”よりも優れたタイトルであるとアドバイスしました。」と語っている。<ref name="fa" />
 2000年7月のNational Public Radioに対するインタビューで、ガードナーは「RATC」の作曲について異なる意見があると語った。「マイヤーズの作曲への関与を疑っている人が少なからずいます。フリードマンが何年も前に亡くなり、自分自身のために語ることが出来なくなった今、我々が真実を知る事はもう出来ないでしょう。」コメッツのピアニスト、ジョニー・グランデは、NPRに「フリードマンが曲を書いた」とシンプルに語る。[[アラン・フリード]](Alan Freed)は、[[チャック・ベリー]](Chuck Berry)の「メイベリーン(Maybelline)」の共同作家として評価されているが、作曲への実際のインプットは一度もなかったと同じように、「DeKnight」のクレジットは出版社の手配だったともいう。さらに混乱に拍車をかけるのが、Henry Fillerなる人物が「RATC」を編曲したことを示す手書きの楽譜が存在する。Myers / DeKnightには全くクレジットされていない。Fillerが元のコンポジションに与える影響は全く分かっていない。<ref name="fa" />
 
'''ジェームズ・E・マイヤーズ'''(1919〜2001)フィラデルフィア出身。幼少よりドラムを学ぶ。1933年「ジミー・デナイト & ヒズ・ナイツ・オブ・リズム 」結成。1946年「カウボーイ・レコード」、出版社「マイヤーズ・ミュージック」設立、地元ミュージシャンの録音を行う。1950年ASCAP加入。ビル・ヘイリーのデビューから成功まで重要な役割を果たす。作曲家として300の作品を書き、俳優、映画監督、文筆業などその経歴は多岐にわたる。享年82歳。<ref name="fz" />
 
===デモ録音===
 コメッツのメンバーが否定しているにも関わらずエセックス・レコード在籍時(1953年頃)のデモ録音の存在が噂される。ジョン・スウェンソンがヘイリーに行ったインタビューで「『RATC』を録音しようと楽譜を持ってスタジオに行くが、デイブ・ミラー(エセックスの経営者)がそれを破り捨ててしまう、そんな事が3回ほどあった。」その状況の中、何らかの形でヘイリーはデモ録音に成功したとも言われている。1954年4月1日ビル・ヘイリーとデッカの契約交渉の席でマイヤーズはゲイブラーに「RATC」のデモ・レコードを聞かせている。時折、中古市場にエセックス・レコードの「RATC」が出回るが、デッカ録音を元に1960年代末に作られた海賊盤である。<ref name="fa" />
 
==記録と影響==
 [[ロックンロール]]の最初で最大のヒット曲とされ、[[ギネス・ワールド・レコーズ]]の認定によれば、ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツのバージョンは世界中で通算2500万枚(推定)を売り上げたとされる<ref>『ギネス世界記録 2010』ゴマブックス、2009年、29頁。ISBN 9784777115297</ref>。「[[アメリカン・グラフィティ]]」(1974年公開)を含む40本の映画で使用され、1974年TVドラマ「[[ハッピーデイズ]]」の主題曲としてリバイバル・ヒット(最高39位)を記録。また、カヴァーソングとして32の言語、500人以上のミュージシャンによって録音され、その累計販売数は2億枚に及ぶ。<ref name="fz">[http://www.rockabillyhall.com/JamesMyers1.html The Composer of "Rock Around The Clock" JAMES E. MYERS] </ref>1982年グラミー[[ホール・オブ・フェイム]]受賞。[[ローリング・ストーン]]誌選出「オールタイム・グレイテスト・ソング500」159位。<ref>[http://www.rollingstone.com/music/lists/the-500-greatest-songs-of-all-time-20110407/bill-haley-and-his-comets-were-gonna-rock-around-the-clock-20110526 500 Greatest Songs of All Time: Bill Haley and His Comets. ''(We're Gonna) Rock Around the Clock' | Rolling Stone]</ref>
 
{{要出典範囲| 明快な12小節の[[ブルース]]進行、[[バックビート (音楽用語)|バックビート]]のリズムという当時の[[R&B]]の基本要素を備えているが、演奏はまだ[[ジャズ]]の色が抜けていない|date=2016年10月4日 (火) 03:55 (UTC)}}。{{要出典範囲|しかしそれが[[コーカソイド|白人]]による[[ブラックミュージック|黒人音楽]]の解釈・融合という目新しい音楽「ロックンロール」であり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の多数派である白人のリスナーを引きつける要因にもなった|date=2016年10月4日 (火) 03:55 (UTC)}}。
 
なお、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は「ロックンロールで最初の全米(ビルボード)1位獲得曲」といわれることがあり<ref>フレッド・ブロンソン(著)、井上憲一ほか(訳)『ビルボード・ナンバー1・ヒット (上) 1955-1970』[[音楽之友社]]、1988年、20頁。ISBN 4-276-23601-0。</ref>、それに基づいて同楽曲がビルボードチャートで1位を記録した[[1955年]][[7月9日]]以後を'''「ロック時代」'''としている例がある<ref>『ビルボード・ナンバー1・ヒット (上) 1955-1970』4頁。</ref>。しかし一部では、[[1954年]]にビルボード1位を獲得したクルー・カッツの「[[シュブーン]]」こそが「ロックンロールで最初の全米(ビルボード)1位獲得曲」であるとする見方もある<ref>[[八木誠]](監修・著)『洋楽ヒットチャート大事典』[[小学館]]、2009年、10頁。ISBN 978-4-09-387811-1</ref>。
==出典==
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==脚注==
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