「成恭夏皇后」の版間の差分

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[[袁州]]宜春の人。夏協の娘。出身は低いが非常な美女であった。
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初め、後宮に入り、[[高宗 (宋)|高宗]]の皇后[[憲聖慈烈皇后|呉氏]]の侍女を務めた。[[紹興 (宋)|紹興]]31年(1161年)、建王趙伯琮(のちの孝宗)に側室<ref>これより少し前に、趙伯琮は郡王から親王に上った。最初の妻の[[成穆皇后|郭氏]]は、郡王時代に早世した。</ref>として与えられ、斉安郡夫人に封ぜられた。孝宗が即位すると、賢妃に立てられた。翌[[隆興]]元年(1163年、皇后に冊立された。弟の夏執中や11人の親友たちにも官職が与えられた。
初め、後宮に入り、[[高宗 (宋)|高宗]]の皇后[[憲聖慈烈皇后|呉氏]]の侍女を務めた。[[紹興 (宋)|紹興]]31年(1161年)、建王趙伯琮(のちの孝宗)に側室<ref>これより少し前に、趙伯琮は郡王から親王に上った。最初の妻の[[成穆皇后|郭氏]]は、郡王時代に早世した。</ref>として与えられ、斉安郡夫人に封ぜられた。孝宗が即位すると、賢妃に立てられた。翌[[隆興]]元年(1163年)10月、皇后に冊立された。弟の夏執中や11人の親友たちにも官職が与えられた。


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[[乾道 (宋)|乾道]]3年([[1167年]])6月、崩御した。「安恭」と[[諡]]された。[[紹熙]]5年(1194年)10月29日、夫の諡を重ねて「成恭」と改諡された。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2019年10月26日 (土) 09:11時点における版

夏皇后
南宋の皇后
在位 1163年11月16日 - 1167年7月20日

全名 夏雲姑
別称 成恭皇后
出生 紹興6年(1136年
死去 乾道3年6月25日
1167年7月20日
配偶者 孝宗
父親 夏協
夏執中
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夏皇后(かこうごう、1136年 - 1167年7月20日)は、南宋孝宗の皇后。雲姑(うんこ)[1]成恭皇后(せいきょうこうごう)とされた。

生涯

袁州宜春の人。夏協の娘。出身は低いが非常な美女であった。

初め、後宮に入り、高宗の皇后呉氏の侍女を務めた。紹興31年(1161年)、建王趙伯琮(のちの孝宗)に側室[2]として与えられ、斉安郡夫人に封ぜられた。孝宗が即位すると、賢妃に立てられた。翌隆興元年(1163年)10月、皇后に冊立された。弟の夏執中や11人の親友たちにも官職が与えられた。

乾道3年(1167年)6月、崩御した。「安恭」とされた。紹熙5年(1194年)10月29日、夫の諡を重ねて「成恭」と改諡された。

伝記資料

  • 『宋会要輯稿』
  • 宋史』成恭夏皇后伝
  • 『宜春牌楼下夏氏宗譜』

脚注

  1. ^ 『宜春牌楼下夏氏宗譜』による。
  2. ^ これより少し前に、趙伯琮は郡王から親王に上った。最初の妻の郭氏は、郡王時代に早世した。