「劉伯林」の版間の差分
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== 概要 ==
[[済南郡|済南]]の出身で、[[任侠]]を好み[[騎射]]を得意としたため、金朝末期に[[興和県|威寧県]]の防城千戸に任ぜられた。しかし、[[1212年]]([[壬申]])にチンギス・カン率いるモンゴル軍によって威寧県が囲まれると、劉伯林はモンゴル軍に抗しえないことを覚り、城門を開いてモンゴル軍に降った。チンギス・カンは劉伯林を降伏前の官職のままとした上で、配下の兵を選抜して1軍を組織し[[耶律禿花]]の指揮下に入るよう命じた。
チンギス・カンが金朝から引き上げると、劉伯林は[[天成県]]に駐屯し、これを奪還せんとする金朝の兵と数十度に渡って戦い、また西京(大同)への攻撃にも加わった。これらの功績によって劉伯林は金虎符を与えられ、西京留守兼兵馬副元帥に任じられた。なお、西京路(後の[[大同路]])はチンギス・カンの第3子オゴデイの領地([[投下領]])とされており、これ以後劉伯林の一族はオゴデイ家と密接な関係を有するようになる<ref>村岡2002,153頁。なお、同様の事例として真定に拠点を有する史一族は[[真定路]]を投下領とする
[[1219年]]([[己卯]])には[[潞州]]・[[絳州]]・[[火山県]]・[[聞喜県]]などを攻略したが、モンゴル軍の中で聞喜県の住民を天成県に移してしまえという意見が起こった。これに対し、劉伯林は民を苦しめ当該地に混乱を生じさせる愚策であるとしてこの意見を撤回させ、また1万を越える捕虜を全て解放した。
[[1221年]]([[辛巳]])、病のため72歳にして亡くなった。劉伯林の死後は息子の[[劉黒馬]]が後を継いだ。
<ref>『元史』巻149列伝36劉伯林伝「劉伯林、済南人。好任
== 脚注 ==
== 参考文献 ==
* 村岡倫「モンゴル時代の右翼ウルスと山西地方」『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究』、2002年
* 『元史』巻149 列伝36 劉伯林伝
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[[Category:元代の人物]]
[[Category:1221年没]]
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