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回編集
(大東亜戦争は支那事変を含むため意味が変わる。) |
(輸送船被害等) |
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{{also|日本軍のタイ進駐}}
==== コタバル方面 ====
マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊は、[[佗美浩]]少将率いる佗美支隊(歩兵第56連隊、山砲兵一コ大隊基幹)で、兵力は約5500名、これを輸送する輸送船「[[淡路山丸]]」「綾戸山丸」「佐倉丸」はいずれも優速船であり、「佐倉丸」は[[防空基幹船]]として重武装
1941年12月8日午前1時35分、第一回上陸部隊約1300名は約20隻の舟艇で隊形を整えてコタバル陸岸へ進発した。第二回上陸部隊は第一回の30分後に出発予定であったが遅れ、午前2時45分、那須歩兵連隊長以下が出発した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 398頁</ref>。午前3時30分、第一回の舟艇の一部が船団に帰ってきたころ、英軍機3機が日本の船団と艦艇に攻撃を開始し、その後一時間にわたり低空爆撃と機銃掃射を反復した。そのため、橋本少将は揚陸を第二回までで中止し、船団はシンゴラに退避するべきと陸軍に意見を述べたが、陸軍の支隊長は上陸戦闘遂行上認めがたく3回必要であるとして、午前6時30分までに上陸が終了するとの支隊長の判断に基づき、同時刻になったら揚陸状況にかかわらず船団を退避することで合意した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 398-399頁</ref>。第三回上陸部隊は第一回で
コタバルを引き揚げてシンゴラに移動した「川内」の橋本少将は陸軍戦闘機隊によるコタバル上空警戒の実施を第二十五軍司令部に要請しようと参謀を派遣したが、作戦中の混乱で連絡が取れなかった<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 409頁</ref>。しかし、コタバルで苦戦中の佗美支隊を見殺しにもできず、午後3時40分、橋本少将は「川内」と駆逐艦4隻でシンゴラを出発し、パタニ方面の駆逐艦2隻にも合同を命じた。そのため、コタバル再揚陸は
午後4時、橋本少将は馬来部隊に海軍航空部隊の支援を電請した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 410頁</ref>。9日午前7時20分頃、輸送船は陸上戦闘の状況が不明のため、8日の錨地に投錨し(9日の錨地はツンバット港沖の予定だった)、コタバル揚陸作業を再開した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 411頁</ref>。午前9時50分、日本の陸軍戦闘機が上空警戒を開始<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 412頁</ref>。護衛部隊は徐々に引き上げ、最後に残った第十九駆逐隊第一小隊も輸送船の揚陸を終えると午後6時30分に引き上げた<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 413頁</ref>。
なお、擱座状態の輸送船「淡路山丸」は、12月12日にオランダ潜水艦「[[K XII (潜水艦)|K12]]([[:nl:Hr. Ms. K XII|nl]])」の雷撃を受けて全損となった<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 506、641頁</ref>。
==== シンゴラ・パタニ方面 ====
パタニ、ターベ上陸を行う安藤支隊(指揮官は歩兵第42連隊長[[安藤忠雄]]大佐)は歩兵第42連隊を基幹とする人員約7200名、車両約230からなる部隊であり、輸送船6隻に分乗した。このうち歩兵一個大隊に各種部隊を加えた約2800名がターベに上陸する部隊で輸送船2隻に分乗していた<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 404-405頁</ref>。支隊の任務は主力をパタニ河口西岸に、一部をターベ北方に上陸させ、パタニ、ターベ両飛行場を占領し、ケダー州に進撃することだった<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 405頁</ref>。8日午前3時、パタニ・ターベ部隊ともに上陸開始に成功する。パタニではタイ軍の反撃があったが、午前11時40分頃、タイ軍は降伏した。夕刻までに両飛行場ともに占領に成功した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 406頁</ref>。
なお、安藤支隊を運んだ輸送船のうち「東山丸」「金華丸」「阿蘇山丸」は、重資材の揚陸作業を続行中の12月12日、オランダ潜水艦「[[O16 (潜水艦)|O16]]」の攻撃を受けて大破着底した<ref>戦史叢書1 マレ-進攻作戦 232頁</ref><ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 641頁</ref>。
==== 宇野支隊 ====
9日午後2時30分、馬来部隊司令部は、英戦艦がセレター軍港に在泊しているという陸偵報告を受信した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 426頁</ref>。英艦隊は将来的に好機をつかんで反撃に来る公算があるため、南シナ海の哨戒強化、セレター在泊中の英戦艦に航空攻撃を加えて同港からの後退を強要する必要があった。さらに作戦海面では敵潜出没の報が頻繁にあり、少なくとも3隻以上の潜水艦が作戦に従事している様子で各部隊は対潜掃蕩を徹底してその制圧撃破を図る必要もあった。これらの情勢判断に基づき、小沢中将は主に航空部隊と潜水部隊をもって英海空部隊の反撃に備え、水上部隊の大部分は次期作戦の準備を行うと定めて発令した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 427頁</ref>。一方、開戦前に日本の船団の接近を知った英東洋艦隊司令長官[[トーマス・フィリップス]]中将は、英艦隊で出撃して日本船団を攻撃する決意をして、8日午後6時55分、戦艦2隻(プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス)、駆逐艦4隻(エレクトラ、エクスプレス、[[テネドス (駆逐艦)|テネドス]]、オーストラリア籍の[[ヴァンパイア (駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]])を率いてシンガーポールを出撃していた<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 488頁</ref>。
9日午後3時15分、[[伊号第百六十五潜水艦|伊65]]([[原田毫衛]]艦長)が艦影二を発見、英艦隊発見の第一報を打電した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 431-432頁</ref>。その後見失ったが、10日午前4時41分、潜水艦による再発見の報で英艦隊が反転してシンガーポールに避退中と知った南方部隊指揮官:[[近藤信竹]]海軍中将は、午前5時、これを追撃するとともに、第一航空部隊及び潜水部隊に対し「敵ハ〇三四一地点フモロ四五ヲ「シンガーポール」ニ向ケ遁走中ナリ 航空部隊及び潜水部隊ハ極力此ノ敵ヲ捕捉撃滅スベシ」と命じた<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 453頁</ref>。第一航空部隊による索敵攻撃が行われた結果、午後1時頃、イギリス東洋艦隊の戦艦「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」と巡洋戦艦「[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]」が撃沈された。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の海戦となった<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 425頁</ref>。
=== 第二次マレー上陸作戦 ===
12月12日午後7時、カムラン湾から輸送船「智利丸」「錦隆丸」が出撃しシンゴラへ先行したのに始まり、英領ボルネオ攻略部隊、マレー上陸部隊などが続き、13日午後12時20分、最後に小沢中将が「鳥海」「鬼怒」を率いて出撃した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 511-512頁</ref>。マレー上陸のために分離した輸送船は途中敵襲を受けることなく、16日午前4時45分コタバル、午前10時シンゴラ、午前11時パタニ、午後11時ナコン、17日午前6時バンドンの各泊地で揚陸を開始した<ref>戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 516-517頁</ref>。
この作戦は英軍の戦艦2隻を撃沈した後だったので水上部隊に反撃される公算は低く、陸軍第三飛行集団の作戦成果により航空部隊の反撃を受けること
=== マレー半島作戦 ===
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