「尹秀吉事件」の版間の差分

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|参照法条=憲法98条2項,逃亡犯罪人引渡法2条1号
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'''尹秀吉事件'''(ユンスウギルじけん、いんしゅうきちじけん<ref>本事件が発生して判決が確定した時期、日本国内で韓国・朝鮮人の名前は、日本の漢字の読み方で称されるのが一般的であった([[金大中事件]]なども同様)。</ref>)は、密入国後に日本で母国の反政府活動をおこなった外国人に対して[[政治犯|政治犯罪人]]不引渡しの原則を適用できるかが争われた日本の裁判([[行政訴訟]])。
 
==概要==
1930年に当時の[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]に生まれた[[尹秀吉]]は、[[大韓民国]]成立後の1949年に日本留学試験を受けて合格していたが、正式の留学許可を待っている間の1950年6月に[[朝鮮戦争]]が勃発して音無しとなり、1951年に尹は日本留学への夢を実現するために[[釜山広域市|釜山]]から[[大牟田市|大牟田]]を経由して日本に密入国した<ref>久保敦彦(1976),178頁。本論文では1951年4月としている。</ref><ref>田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録3』(第一法規)391・392頁。本書では1951年6月としている。</ref>。その後、尹は1952年9月より[[東京大学]]の研究生として2年在籍したのち<ref name="kubop178">久保敦彦(1976)、178頁</ref>、[[在日本大韓民国民団|在日本大韓民国居留民団]](以下、「民団」と略記)栃木県文化部講師を経て、民団栃木県本部事務局長となっていた<ref>田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録3』(第一法規)392・394頁</ref>。尹は南北平和統一等の言論活動を行なったことで[[朴正煕]]政権下で投獄された民族日報社長の助命運動を行なっていたが、在日韓国代表部の意向を受けた民団中央総本部によって「反朴運動」として民団栃木県事務局長を解任された<ref>田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録3』(第一法規)394・395頁</ref>。
 
その後、尹は1952年9月より[[東京大学]]の研究生として2年在籍したのち<ref name="kubop178">久保敦彦(1976)、178頁</ref>、[[在日本大韓民国民団|在日本大韓民国居留民団]](以下、「民団」と略記)栃木県文化部講師を経て、民団栃木県本部事務局長となっていた<ref>田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録3』(第一法規)392・394頁</ref>。尹は南北平和統一等の言論活動を行なったことで[[朴正煕]]政権下で投獄された民族日報社長の助命運動を行なっていたが、在日韓国代表部の意向を受けた民団中央総本部によって「反朴運動」として民団栃木県事務局長を解任された<ref>田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録3』(第一法規)394・395頁</ref>。
 
1962年4月初めに尹は密入国容疑で日本の東京入国管理事務所に収容された<ref name="tanaka_395">田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録3』(第一法規)395頁</ref><ref name="kubop178"/>。10年前の密入国が発覚したもので、[[外国人登録令]]第16条第1項に該当すると認定された<ref name="tanaka_395"></ref>。法務大臣への異議申し立てが棄却され、尹には送還先を韓国とする退去強制令書が6月29日付で発行され、身柄は九州の大村収容所に移された<ref>田中二郎、佐藤功、野村二郎『戦後政治裁判史録3』(第一法規)395・396頁</ref>。
 
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[[Category:昭和時代戦後1962年の日本の事件]]
[[Category:人権に関する裁判]]
[[Category:日本の外国人行政]]

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