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{{otheruses|F1チームのスタッフ|[[ドゥービー・ブラザーズ]]の[[ギタリスト]]|パトリック・シモンズ}} |
{{otheruses|F1チームのスタッフ|[[ドゥービー・ブラザーズ]]の[[ギタリスト]]|パトリック・シモンズ}} |
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{{Infobox Engineer |
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[[File:Symonds.png|thumb|150px|パット・シモンズ(2015年)]] |
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| 氏名 = パット・シモンズ |
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| 各国語表記 = Pat Symonds<!-- 日本語圏の人物はふりがな、非日本語圏の人物は現地語表記を記す --> |
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| 画像 = Symonds (cropped).png |
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| 画像の説明 = [[ウィリアムズF1]]時代(2015年) |
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| 国籍 = {{GBR}} |
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| 別名 = |
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| 出生名 = Patrick Bruce Reith Symonds |
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| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1953|6|11}} |
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| 出生地 = {{ENG}}<br/>[[ベッドフォードシャー州]][[ベッドフォード (イングランド)|ベッドフォード]] |
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| 死没日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |
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| 死没地 = |
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| 最終学歴 = クランフィールド工科大学 |
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| 配偶者 = |
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| 両親 = |
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| 子供 = |
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| 専門分野 = 自動車[[エンジニア]]<br />[[カーデザイナー|レーシングカーデザイナー]]<br />テクニカルディレクター<br />[[技術コンサルタント]]<br />モータースポーツ解説者 |
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| 所属機関 = [[F1レギュレーション|F1委員会]](2017年 - 現在) |
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| 勤務先 = ニュートリノ・ダイナミクス |
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| 雇用者 = ホークレーシング(1976年 - 1978年)<br />ロイヤルレーシング(1978年 - 1979年)<br />[[トールマン]](1979年 - 1985年)<br />[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトンF1]](1986年 - 2002年)<br />[[ルノーF1]](2002年 - 2009年)<br />[[マルシャF1チーム|マルシャF1]](2013年) <br />[[ウィリアムズF1]](2013年 - 2016年) |
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| プロジェクト = |
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| 受賞歴 = |
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1980年代から |
[[1980年代]]から[[2010年代]]にかけて[[フォーミュラ1|F1]]チーム技術部門の要職を歴任し、若手時代の[[アイルトン・セナ|A・セナ]]、[[ミハエル・シューマッハ|M・シューマッハ]]、[[フェルナンド・アロンソ|F・アロンソ]]ら一流ドライバーの飛躍に貢献した。近年は、解説や[[F1レギュレーション|F1委員会]]の役職も務める。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 初期の経歴 === |
=== 初期の経歴 === |
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[[フォード・モーター|フォード]]社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後に[[クランフィールド工科大学]]で自動車工学を学び、1976年に修士号を取得し卒業。 |
[[フォード・モーター|フォード]]社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後に[[クランフィールド工科大学]]で自動車工学を学び、[[1976年]]に修士号を取得し卒業。 |
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卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとして[[フォーミュラ・フォード]]の設計に携わり、2年後の1978年にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤル([[:en:Royale Racing]])に移籍。ここで[[ロリー・バーン]]と知己を得た。 |
卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとして[[フォーミュラ・フォード]]の設計に携わり、2年後の[[1978年]]にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤルレーシング([[:en:Royale Racing|Royale Racing]])に移籍。ここで[[ロリー・バーン]]と知己を得た。 |
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当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、1979年にバーンが[[フォーミュラ2|F2]]カー設計のため |
当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、[[1979年]]にバーンが[[フォーミュラ2|F2]]カー設計のため[[トールマン]]チームから誘われると、バーンが引き上げる形でシモンズもトールマンでの職を得た。 |
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=== トールマン時代(1980年 - 1985年) === |
=== トールマン時代(1980年 - 1985年) === |
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1980年のヨーロッパF2選手権において、トールマンと[[ハート (F1)|ハート]]の組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーの[[ブライアン・ヘントン]]と[[デレック・ワーウィック]]は全12戦中4戦で優勝し、この二人が欠場した最終戦を除いて全てのレースでどちらかが表彰台に立ち、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。 |
[[1980年]]のヨーロッパF2選手権において、[[トールマン]]と[[ハート (F1)|ハート]]の組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーの[[ブライアン・ヘントン]]と[[デレック・ワーウィック]]は全12戦中4戦で優勝し、この二人が欠場した最終戦を除いて全てのレースでどちらかが表彰台に立ち、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。 |
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この活躍を引っさげ、1981年にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年[[ステファン・ヨハンソン]]を擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。 |
この活躍を引っさげ、[[1981年]]にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年[[ステファン・ヨハンソン]]を擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。 |
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翌1982年以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年に[[テオ・ファビ]]とワーウィック、翌1983年には[[ブルーノ・ジャコメリ]]、1984年にはその年デビューの新人[[アイルトン・セナ]]のレースエンジニアとして任にあたった。 |
翌[[1982年]]以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年に[[テオ・ファビ]]とワーウィック、翌1983年には[[ブルーノ・ジャコメリ]]、1984年にはその年デビューの新人[[アイルトン・セナ]]のレースエンジニアとして任にあたった。 |
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=== ベネトン&ルノー時代(1986年 - 2009年) === |
=== ベネトン&ルノー時代(1986年 - 2009年) === |
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[[1985年のF1世界選手権|1985年]]、トールマンチームのスポンサーだったイタリアの衣料品メーカー[[ベネトン]]がチームを買収したことにより、翌[[1986年のF1世界選手権|1986年]]からチームは「[[ベネトン・フォーミュラ]]」(ベネトン)として参戦することとなったが、シモンズは引き続き残留した。 |
[[1985年のF1世界選手権|1985年]]、トールマンチームのスポンサーだったイタリアの衣料品メーカー「[[ベネトン]]」がチームを買収したことにより、翌[[1986年のF1世界選手権|1986年]]からチームは「[[ベネトン・フォーミュラ]]」(以降ベネトン)として参戦することとなったが、シモンズは引き続き残留した。 |
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1991年に[[ジョン・バーナード]]をテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともに[[エイドリアン・レイナード]]と契約し、エンジニアリングディレクターとして[[レイナード]]のF1参戦計画に携わった。このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードが[[フラビオ・ブリアトーレ]]によって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともに早々にベネトンに復帰した。 |
[[1991年]]に[[ジョン・バーナード]]をテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともに[[エイドリアン・レイナード]]と契約し、エンジニアリングディレクターとして[[レイナード]]のF1参戦計画に携わった。このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードが[[フラビオ・ブリアトーレ]]によって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともに早々にベネトンに復帰した。 |
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ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、[[ミハエル・シューマッハ]]のレースエンジニアも務め、1994年と1995年のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌1996年にシューマッハは[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]へと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去った[[ロス・ブラウン]]の跡を受けて、 |
ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、[[ミハエル・シューマッハ]]のレースエンジニアも務め、[[1994年]]と[[1995年]]のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌[[1996年]]にシューマッハは[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]へと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去った[[ロス・ブラウン]]の跡を受けて、同年11月にテクニカルディレクターに就任した。 |
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2001年に、新たにチームに加入した[[マイク・ガスコイン]]にテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。 |
[[2001年]]に、新たにチームに加入した[[マイク・ガスコイン]]にテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。 |
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私事としては、この間、2002年に[[オックスフォード・ブルックス大学]]から博士号を授与されている。 |
私事としては、この間、2002年に[[オックスフォード・ブルックス大学]]から博士号を授与されている。 |
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==== クラッシュゲート ==== |
==== クラッシュゲート ==== |
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1996年以降、ベネトンのチーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンから[[ルノーF1|ルノー]]に変わるなど、チーム体制の変化が続いたが、シモンズは一貫して同チームに留まり続けた。シモンズはトールマン時代の1980年にチームに加入して以降、一時的にレイナードに所属した期間はあるものの、同じチームに30年近く留まり続けたことになる。しかし、2009年半ばを過ぎて転機が訪れることになる。 |
[[1996年]]以降、ベネトンのチーム代表はたびたび変わり、[[2002年]]にはチームがベネトンから[[ルノーF1|ルノー]]に変わるなど、チーム体制の変化が続いたが、シモンズは一貫して同チームに留まり続けた。シモンズはトールマン時代の1980年にチームに加入して以降、一時的にレイナードに所属した期間はあるものの、同じチームに30年近く留まり続けたことになる。しかし、[[2009年]]半ばを過ぎて転機が訪れることになる。 |
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[[2008年シンガポールグランプリ]]において、ルノーチームが[[フェルナンド・アロンソ]]の順位を上げるため、[[ネルソン・ピケJr.]]に故意に事故を起こさせたというスキャンダル([[ネルソン・ピケJr.#クラッシュゲート|クラッシュゲート]])が発覚。シモンズはマネージングディレクターの[[フラビオ・ブリアトーレ]]と共にピケJr.に指示を与えた罪が疑われ、2009年の公聴会の直前、ブリアトーレと共にルノーから離脱した。その後の裁定で、[[国際自動車連盟]] (FIA) の管轄するすべてのモータースポーツカテゴリーにおいて5年間の関与禁止(追放)という処分を受けた。 |
[[2008年シンガポールグランプリ]]において、ルノーチームが[[フェルナンド・アロンソ]]の順位を上げるため、[[ネルソン・ピケJr.]]に故意に事故を起こさせたというスキャンダル([[ネルソン・ピケJr.#クラッシュゲート|クラッシュゲート]])が発覚。シモンズはマネージングディレクターの[[フラビオ・ブリアトーレ]]と共にピケJr.に指示を与えた罪が疑われ、2009年の公聴会の直前、ブリアトーレと共にルノーから離脱した。その後の裁定で、[[国際自動車連盟]] (FIA) の管轄するすべてのモータースポーツカテゴリーにおいて5年間の関与禁止(追放)という処分を受けた。 |
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ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。 |
ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。 |
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2011年初めに、[[ヴァージン・レーシング]]とコンサルタント契約を結んだ。まだ謹慎期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=31942 パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰]". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。</ref>。 |
[[2011年]]初めに、[[ヴァージン・レーシング]]とコンサルタント契約を結んだ。まだ謹慎期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=31942 パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰]". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。</ref>。 |
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チームは2012年より[[マルシャF1チーム]]となり、この年のマシン「[[マルシャ・MR01|MR01]]」はシモンズの指揮によりデザインされた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?no=38147 マルシャ新車はパット・シモンズがデザインを指揮]". オートスポーツ.(2011年12月8日)2013年3月12日閲覧。</ref>。2013年には、シモンズが正式にマルシャのテクニカルディレクターに就任し、チームに帯同することになった<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=46305 パット・シモンズ、正式にマルシャのTDに]". オートスポーツ.(2013年2月5日)2013年3月12日閲覧。</ref>。 |
チームは[[2012年]]より[[マルシャF1チーム]]となり、この年のマシン「[[マルシャ・MR01|MR01]]」はシモンズの指揮によりデザインされた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?no=38147 マルシャ新車はパット・シモンズがデザインを指揮]". オートスポーツ.(2011年12月8日)2013年3月12日閲覧。</ref>。[[2013年]]には、シモンズが正式にマルシャのテクニカルディレクターに就任し、チームに帯同することになった<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=46305 パット・シモンズ、正式にマルシャのTDに]". オートスポーツ.(2013年2月5日)2013年3月12日閲覧。</ref>。 |
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=== ウィリアムズ時代(2013年 - 2016年) === |
=== ウィリアムズ時代(2013年 - 2016年) === |
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マルシャへの正式就任から数か月後、シモンズはチームとの契約を解消し、[[ウィリアムズF1 |
マルシャへの正式就任から数か月後、シモンズはチームとの契約を解消し、[[ウィリアムズF1]]の技術部門を指導するチーフテクニカルオフィサーに就任することになった<ref>"[http://www.topnews.jp/2013/08/22/news/f1/teams/williams/94756.html ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A]". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。</ref>。同年シーズン終了後には3年契約を交わし、翌[[2014年]]からのチーム再浮上に貢献したが、契約が満了する[[2016年]]をもって離脱することになった<ref>{{Cite news | url = http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/232261.html | title = シモンズが今年末でウィリアムズ離脱 | publisher = ESPN F1 | date = 2016-12-21 | accessdate = 2016-12-24}}</ref>。 |
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=== F1チーム離脱後〜以降(2017年 - 現在) === |
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2017年から[[Sky Sports|Sky Sports F1]]のアナリスト兼コメンテーター(解説者)を務め |
[[2017年]]から[[Sky Sports|Sky Sports F1]]のアナリスト兼コメンテーター(解説者)を務め<ref>{{Cite news | url = http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/233194.html | title = シモンズがスカイ・スポーツF1の解説陣に | publisher = ESPN F1 | date = 2017-03-03 | accessdate = 2017-03-04}}</ref>、さらに[[F1レギュレーション|F1委員会]]の役職(後にチーフテクニカルオフィサー)にも就任した<ref>{{Cite web |url=https://www.as-web.jp/f1/446211?all |title=「新レギュレーションで失敗しないためにはAIの活用が不可欠」とF1技術ボス |publisher=AUTO SPORT web |date=2017.09.06 |accessdate=2019.01.22 }}</ref>。 |
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== 評価 == |
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[[Category:イギリスの自動車技術者]] |
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[[Category:レーシングカー・デザイナー]] |
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[[Category:コンサルティング技術者]] |
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[[Category:モータースポーツ解説者]] |
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[[Category:ルノーの人物]] |
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[[Category:ベッドフォード出身の人物]] |
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[[Category:1953年生]] |
[[Category:1953年生]] |
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[[Category:存命人物]] |
[[Category:存命人物]] |
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2019年8月20日 (火) 05:20時点における版
パット・シモンズ Pat Symonds | |
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ウィリアムズF1時代(2015年) | |
生誕 |
Patrick Bruce Reith Symonds 1953年6月11日(70歳) イングランド ベッドフォードシャー州ベッドフォード |
国籍 | イギリス |
教育 | クランフィールド工科大学 |
業績 | |
専門分野 |
自動車エンジニア レーシングカーデザイナー テクニカルディレクター 技術コンサルタント モータースポーツ解説者 |
所属機関 | F1委員会(2017年 - 現在) |
勤務先 | ニュートリノ・ダイナミクス |
雇用者 |
ホークレーシング(1976年 - 1978年) ロイヤルレーシング(1978年 - 1979年) トールマン(1979年 - 1985年) ベネトンF1(1986年 - 2002年) ルノーF1(2002年 - 2009年) マルシャF1(2013年) ウィリアムズF1(2013年 - 2016年) |
パット・シモンズ(Patrick "Pat" Bruce Reith Symonds, 1953年6月11日 - )は、イングランド出身の自動車技術者、モータースポーツ解説者。
1980年代から2010年代にかけてF1チーム技術部門の要職を歴任し、若手時代のA・セナ、M・シューマッハ、F・アロンソら一流ドライバーの飛躍に貢献した。近年は、解説やF1委員会の役職も務める。
経歴
初期の経歴
フォード社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後にクランフィールド工科大学で自動車工学を学び、1976年に修士号を取得し卒業。
卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとしてフォーミュラ・フォードの設計に携わり、2年後の1978年にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤルレーシング(Royale Racing)に移籍。ここでロリー・バーンと知己を得た。
当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、1979年にバーンがF2カー設計のためトールマンチームから誘われると、バーンが引き上げる形でシモンズもトールマンでの職を得た。
トールマン時代(1980年 - 1985年)
1980年のヨーロッパF2選手権において、トールマンとハートの組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーのブライアン・ヘントンとデレック・ワーウィックは全12戦中4戦で優勝し、この二人が欠場した最終戦を除いて全てのレースでどちらかが表彰台に立ち、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。
この活躍を引っさげ、1981年にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年ステファン・ヨハンソンを擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。
翌1982年以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年にテオ・ファビとワーウィック、翌1983年にはブルーノ・ジャコメリ、1984年にはその年デビューの新人アイルトン・セナのレースエンジニアとして任にあたった。
ベネトン&ルノー時代(1986年 - 2009年)
1985年、トールマンチームのスポンサーだったイタリアの衣料品メーカー「ベネトン」がチームを買収したことにより、翌1986年からチームは「ベネトン・フォーミュラ」(以降ベネトン)として参戦することとなったが、シモンズは引き続き残留した。
1991年にジョン・バーナードをテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともにエイドリアン・レイナードと契約し、エンジニアリングディレクターとしてレイナードのF1参戦計画に携わった。このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードがフラビオ・ブリアトーレによって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともに早々にベネトンに復帰した。
ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、ミハエル・シューマッハのレースエンジニアも務め、1994年と1995年のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌1996年にシューマッハはフェラーリへと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去ったロス・ブラウンの跡を受けて、同年11月にテクニカルディレクターに就任した。
2001年に、新たにチームに加入したマイク・ガスコインにテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。
私事としては、この間、2002年にオックスフォード・ブルックス大学から博士号を授与されている。
クラッシュゲート
1996年以降、ベネトンのチーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンからルノーに変わるなど、チーム体制の変化が続いたが、シモンズは一貫して同チームに留まり続けた。シモンズはトールマン時代の1980年にチームに加入して以降、一時的にレイナードに所属した期間はあるものの、同じチームに30年近く留まり続けたことになる。しかし、2009年半ばを過ぎて転機が訪れることになる。
2008年シンガポールグランプリにおいて、ルノーチームがフェルナンド・アロンソの順位を上げるため、ネルソン・ピケJr.に故意に事故を起こさせたというスキャンダル(クラッシュゲート)が発覚。シモンズはマネージングディレクターのフラビオ・ブリアトーレと共にピケJr.に指示を与えた罪が疑われ、2009年の公聴会の直前、ブリアトーレと共にルノーから離脱した。その後の裁定で、国際自動車連盟 (FIA) の管轄するすべてのモータースポーツカテゴリーにおいて5年間の関与禁止(追放)という処分を受けた。
シモンズとブリアトーレは大審裁判所に訴え、FIAによって下された追放処分の撤回を勝ち取る。これにより、2012年末まで謹慎すれば、2013年以降はF1チームの運営に復帰することが認められた。
ヴァージン/マルシャ時代(2011年 - 2013年)
ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。
2011年初めに、ヴァージン・レーシングとコンサルタント契約を結んだ。まだ謹慎期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた[1]。
チームは2012年よりマルシャF1チームとなり、この年のマシン「MR01」はシモンズの指揮によりデザインされた[2]。2013年には、シモンズが正式にマルシャのテクニカルディレクターに就任し、チームに帯同することになった[3]。
ウィリアムズ時代(2013年 - 2016年)
マルシャへの正式就任から数か月後、シモンズはチームとの契約を解消し、ウィリアムズF1の技術部門を指導するチーフテクニカルオフィサーに就任することになった[4]。同年シーズン終了後には3年契約を交わし、翌2014年からのチーム再浮上に貢献したが、契約が満了する2016年をもって離脱することになった[5]。
F1チーム離脱後〜以降(2017年 - 現在)
2017年からSky Sports F1のアナリスト兼コメンテーター(解説者)を務め[6]、さらにF1委員会の役職(後にチーフテクニカルオフィサー)にも就任した[7]。
評価
ロス・ブラウンの影に隠れがちだが、シモンズもミハエル・シューマッハのベネトン在籍時からレース戦略の立案に関わっており、レース戦略の分野で一定の評価がある人物の一人である。実際、ブラウンらの離脱後も、ベネトン、ルノーはしばしばその優れた作戦によって他チームに対して優位に立っている。ミハエル・シューマッハはフェラーリ在籍時にロリー・バーン、ロス・ブラウンとともにシモンズの獲得をフェラーリに要請していた。
脚注
- ^ "パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。
- ^ "マルシャ新車はパット・シモンズがデザインを指揮". オートスポーツ.(2011年12月8日)2013年3月12日閲覧。
- ^ "パット・シモンズ、正式にマルシャのTDに". オートスポーツ.(2013年2月5日)2013年3月12日閲覧。
- ^ "ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。
- ^ “シモンズが今年末でウィリアムズ離脱”. ESPN F1. (2016年12月21日) 2016年12月24日閲覧。
- ^ “シモンズがスカイ・スポーツF1の解説陣に”. ESPN F1. (2017年3月3日) 2017年3月4日閲覧。
- ^ “「新レギュレーションで失敗しないためにはAIの活用が不可欠」とF1技術ボス”. AUTO SPORT web (2017年9月6日). 2019年1月22日閲覧。