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[[File:Symonds.png|thumb|150px|パット・シモンズ(2015年)]]
| 氏名 = パット・シモンズ
'''パット・シモンズ'''('''Patrick "Pat" Bruce Reith Symonds''', [[1953年]][[6月11日]] - )は、[[イギリス]]出身の[[エンジニア]]。<!--2013年より[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]のチフテクニカルオフィサを務める-->
| 各国語表記 = Pat Symonds<!-- 日本語圏の人物はふりがな、非日本語圏の人物は現地語表記を記す -->
| 画像 = Symonds (cropped).png
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| 画像の説明 = [[ウィリアムズF1]]時代(2015年)
| 国籍 = {{GBR}}
| 別名 =
| 出生名 = Patrick Bruce Reith Symonds
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1953|6|11}}
| 出生地 = {{ENG}}<br/>[[ベッドフォードシャー州]][[ベッドフォード (イングランド)|ベッドフォード]]
| 死没日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} -->
| 死没地 =
| 最終学歴 = クランフィールド工科大学
| 配偶者 =
| 両親 =
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| 専門分野 = 自動車[[エンジニア]]<br />[[カーデザイナー|レーシングカーデザイナー]]<br />テクニカルディレクター<br />[[技術コンサルタント]]<br />モータースポーツ解説者
| 所属機関 = [[F1レギュレーション|F1委員会]](2017年 - 現在)
| 勤務先 = ニュートリノ・ダイナミクス
| 雇用者 = ホークレーシング(1976年 - 1978年)<br />ロイヤルレーシング(1978年 - 1979年)<br />[[トールマン]](1979年 - 1985年)<br />[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトンF1]](1986年 - 2002年)<br />[[ルノーF1]](2002年 - 2009年)<br />[[マルシャF1チーム|マルシャF1]](2013年) <br />[[ウィリアムズF1]](2013年 - 2016年)
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'''パット・シモンズ'''('''Patrick "Pat" Bruce Reith Symonds''', [[1953年]][[6月11日]] - )は、[[イングランド]]出身の[[自動車技術者]]、モータスポツ解説者


1980年代から2000年代にかけて[[トールマン]]、[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]、[[ルノーF1|ルノー]]と変遷していったチームでレースエンジニアとして、最終的には同チームのエンジニアリング部門のトップとなり長く務めた。そ間に在籍した[[アイルトン・セナ]]、[[ミハエル・シューマッハ]]、[[フェルナンド・アロンソ]]、[[デレックワーウィック]]、[[ブルノ・ジャコメリ]]、[[テオ・ファビ]]、[[ゲルハルト・ベルガ]]、[[ジニー・ハーバート]]、[[アレッサドロ・ナニーニ]]など、当時多くの一流選手たちのデビューあるいは新人時代にエンジニアリングの面で関わりがあったことで特に知られる。
[[1980年代]]から[[2010年代]]にかけて[[フォーミュラ1|F1]]チーム技術部門の要職を歴任し若手時代の[[アイルトン・セナ|A・セナ]]、[[ミハエル・シューマッハ|M・シューマッハ]]、[[フェルナンド・アロンソ|Fアロンソ]]ら一流ドライバの飛躍に貢献した。近年は解説や[[F1レギュレョン|F1委員会]]の役職務める。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 初期の経歴 ===
=== 初期の経歴 ===
[[フォード・モーター|フォード]]社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後に[[クランフィールド工科大学]]で自動車工学を学び、1976年に修士号を取得し卒業。
[[フォード・モーター|フォード]]社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後に[[クランフィールド工科大学]]で自動車工学を学び、[[1976年]]に修士号を取得し卒業。


卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとして[[フォーミュラ・フォード]]の設計に携わり、2年後の1978年にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤル([[:en:Royale Racing]])に移籍。ここで[[ロリー・バーン]]と知己を得た。
卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとして[[フォーミュラ・フォード]]の設計に携わり、2年後の[[1978年]]にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤルレーシング([[:en:Royale Racing|Royale Racing]])に移籍。ここで[[ロリー・バーン]]と知己を得た。


当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、1979年にバーンが[[フォーミュラ2|F2]]カー設計のため[[トールマン]]チームから誘われると、バーンが引き上げる形でシモンズもトールマンでの職を得た。
当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、[[1979年]]にバーンが[[フォーミュラ2|F2]]カー設計のため[[トールマン]]チームから誘われると、バーンが引き上げる形でシモンズもトールマンでの職を得た。


=== トールマン時代(1980年 - 1985年) ===
=== トールマン時代(1980年 - 1985年) ===
1980年のヨーロッパF2選手権において、トールマンと[[ハート (F1)|ハート]]の組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーの[[ブライアン・ヘントン]]と[[デレック・ワーウィック]]は全12戦中4戦で優勝し、この二人が欠場した最終戦を除いて全てのレースでどちらかが表彰台に立ち、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。
[[1980年]]のヨーロッパF2選手権において、[[トールマン]]と[[ハート (F1)|ハート]]の組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーの[[ブライアン・ヘントン]]と[[デレック・ワーウィック]]は全12戦中4戦で優勝し、この二人が欠場した最終戦を除いて全てのレースでどちらかが表彰台に立ち、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。


この活躍を引っさげ、1981年にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年[[ステファン・ヨハンソン]]を擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。
この活躍を引っさげ、[[1981年]]にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年[[ステファン・ヨハンソン]]を擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。


翌1982年以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年に[[テオ・ファビ]]とワーウィック、翌1983年には[[ブルーノ・ジャコメリ]]、1984年にはその年デビューの新人[[アイルトン・セナ]]のレースエンジニアとして任にあたった。
[[1982年]]以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年に[[テオ・ファビ]]とワーウィック、翌1983年には[[ブルーノ・ジャコメリ]]、1984年にはその年デビューの新人[[アイルトン・セナ]]のレースエンジニアとして任にあたった。


=== ベネトン&ルノー時代(1986年 - 2009年) ===
=== ベネトン&ルノー時代(1986年 - 2009年) ===
[[1985年のF1世界選手権|1985年]]、トールマンチームのスポンサーだったイタリアの衣料品メーカー[[ベネトン]]がチームを買収したことにより、翌[[1986年のF1世界選手権|1986年]]からチームは「[[ベネトン・フォーミュラ]]」(ベネトン)として参戦することとなったが、シモンズは引き続き残留した。
[[1985年のF1世界選手権|1985年]]、トールマンチームのスポンサーだったイタリアの衣料品メーカー[[ベネトン]]がチームを買収したことにより、翌[[1986年のF1世界選手権|1986年]]からチームは「[[ベネトン・フォーミュラ]]」(以降ベネトン)として参戦することとなったが、シモンズは引き続き残留した。


1991年に[[ジョン・バーナード]]をテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともに[[エイドリアン・レイナード]]と契約し、エンジニアリングディレクターとして[[レイナード]]のF1参戦計画に携わった。このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードが[[フラビオ・ブリアトーレ]]によって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともに早々にベネトンに復帰した。
[[1991年]]に[[ジョン・バーナード]]をテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともに[[エイドリアン・レイナード]]と契約し、エンジニアリングディレクターとして[[レイナード]]のF1参戦計画に携わった。このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードが[[フラビオ・ブリアトーレ]]によって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともに早々にベネトンに復帰した。


ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、[[ミハエル・シューマッハ]]のレースエンジニアも務め、1994年と1995年のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌1996年にシューマッハは[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]へと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去った[[ロス・ブラウン]]の跡を受けて、1996年11月にテクニカルディレクターに就任した。
ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、[[ミハエル・シューマッハ]]のレースエンジニアも務め、[[1994年]][[1995年]]のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌[[1996年]]にシューマッハは[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]へと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去った[[ロス・ブラウン]]の跡を受けて、年11月にテクニカルディレクターに就任した。


2001年に、新たにチームに加入した[[マイク・ガスコイン]]にテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。
[[2001年]]に、新たにチームに加入した[[マイク・ガスコイン]]にテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。


私事としては、この間、2002年に[[オックスフォード・ブルックス大学]]から博士号を授与されている。
私事としては、この間、2002年に[[オックスフォード・ブルックス大学]]から博士号を授与されている。


==== クラッシュゲート ====
==== クラッシュゲート ====
1996年以降、ベネトンのチーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンから[[ルノーF1|ルノー]]に変わるなど、チーム体制の変化が続いたが、シモンズは一貫して同チームに留まり続けた。シモンズはトールマン時代の1980年にチームに加入して以降、一時的にレイナードに所属した期間はあるものの、同じチームに30年近く留まり続けたことになる。しかし、2009年半ばを過ぎて転機が訪れることになる。
[[1996年]]以降、ベネトンのチーム代表はたびたび変わり、[[2002年]]にはチームがベネトンから[[ルノーF1|ルノー]]に変わるなど、チーム体制の変化が続いたが、シモンズは一貫して同チームに留まり続けた。シモンズはトールマン時代の1980年にチームに加入して以降、一時的にレイナードに所属した期間はあるものの、同じチームに30年近く留まり続けたことになる。しかし、[[2009年]]半ばを過ぎて転機が訪れることになる。


[[2008年シンガポールグランプリ]]において、ルノーチームが[[フェルナンド・アロンソ]]の順位を上げるため、[[ネルソン・ピケJr.]]に故意に事故を起こさせたというスキャンダル([[ネルソン・ピケJr.#クラッシュゲート|クラッシュゲート]])が発覚。シモンズはマネージングディレクターの[[フラビオ・ブリアトーレ]]と共にピケJr.に指示を与えた罪が疑われ、2009年の公聴会の直前、ブリアトーレと共にルノーから離脱した。その後の裁定で、[[国際自動車連盟]] (FIA) の管轄するすべてのモータースポーツカテゴリーにおいて5年間の関与禁止(追放)という処分を受けた。
[[2008年シンガポールグランプリ]]において、ルノーチームが[[フェルナンド・アロンソ]]の順位を上げるため、[[ネルソン・ピケJr.]]に故意に事故を起こさせたというスキャンダル([[ネルソン・ピケJr.#クラッシュゲート|クラッシュゲート]])が発覚。シモンズはマネージングディレクターの[[フラビオ・ブリアトーレ]]と共にピケJr.に指示を与えた罪が疑われ、2009年の公聴会の直前、ブリアトーレと共にルノーから離脱した。その後の裁定で、[[国際自動車連盟]] (FIA) の管轄するすべてのモータースポーツカテゴリーにおいて5年間の関与禁止(追放)という処分を受けた。
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ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。
ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。


2011年初めに、[[ヴァージン・レーシング]]とコンサルタント契約を結んだ。まだ謹慎期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=31942 パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰]". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。</ref>。
[[2011年]]初めに、[[ヴァージン・レーシング]]とコンサルタント契約を結んだ。まだ謹慎期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=31942 パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰]". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。</ref>。


チームは2012年より[[マルシャF1チーム]]となり、この年のマシン「[[マルシャ・MR01|MR01]]」はシモンズの指揮によりデザインされた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?no=38147 マルシャ新車はパット・シモンズがデザインを指揮]". オートスポーツ.(2011年12月8日)2013年3月12日閲覧。</ref>。2013年には、シモンズが正式にマルシャのテクニカルディレクターに就任し、チームに帯同することになった<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=46305 パット・シモンズ、正式にマルシャのTDに]". オートスポーツ.(2013年2月5日)2013年3月12日閲覧。</ref>。
チームは[[2012年]]より[[マルシャF1チーム]]となり、この年のマシン「[[マルシャ・MR01|MR01]]」はシモンズの指揮によりデザインされた<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?no=38147 マルシャ新車はパット・シモンズがデザインを指揮]". オートスポーツ.(2011年12月8日)2013年3月12日閲覧。</ref>。[[2013年]]には、シモンズが正式にマルシャのテクニカルディレクターに就任し、チームに帯同することになった<ref>"[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=46305 パット・シモンズ、正式にマルシャのTDに]". オートスポーツ.(2013年2月5日)2013年3月12日閲覧。</ref>。


=== ウィリアムズ時代(2013年 - 2016年) ===
=== ウィリアムズ時代(2013年 - 2016年) ===
マルシャへの正式就任から数か月後、シモンズはチームとの契約を解消し、[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]の技術部門を指導するチーフテクニカルオフィサーに就任することになった<ref>"[http://www.topnews.jp/2013/08/22/news/f1/teams/williams/94756.html ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A]". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。</ref>。同年シーズン終了後には3年契約を交わし、翌2014年からのチーム再浮上に貢献したが、契約が満了する2016年をもって離脱することになった<ref>{{Cite news | url = http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/232261.html | title = シモンズが今年末でウィリアムズ離脱 | publisher = ESPN F1 | date = 2016-12-21 | accessdate = 2016-12-24}}</ref>。
マルシャへの正式就任から数か月後、シモンズはチームとの契約を解消し、[[ウィリアムズF1]]の技術部門を指導するチーフテクニカルオフィサーに就任することになった<ref>"[http://www.topnews.jp/2013/08/22/news/f1/teams/williams/94756.html ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A]". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。</ref>。同年シーズン終了後には3年契約を交わし、翌[[2014年]]からのチーム再浮上に貢献したが、契約が満了する[[2016年]]をもって離脱することになった<ref>{{Cite news | url = http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/232261.html | title = シモンズが今年末でウィリアムズ離脱 | publisher = ESPN F1 | date = 2016-12-21 | accessdate = 2016-12-24}}</ref>。


=== ウィリア離脱後 ===
=== F1チーム離脱後〜以降(2017年 - 現在) ===
2017年から[[Sky Sports|Sky Sports F1]]のアナリスト兼コメンテーター(解説者)を務めることになった<ref>{{Cite news | url = http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/233194.html | title = シモンズがスカイ・スポーツF1の解説陣に | publisher = ESPN F1 | date = 2017-03-03 | accessdate = 2017-03-04}}</ref>。
[[2017年]]から[[Sky Sports|Sky Sports F1]]のアナリスト兼コメンテーター(解説者)を務め<ref>{{Cite news | url = http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/233194.html | title = シモンズがスカイ・スポーツF1の解説陣に | publisher = ESPN F1 | date = 2017-03-03 | accessdate = 2017-03-04}}</ref>、さらに[[F1レギュレーション|F1委員会]]の役職(後にチーフテクニカルオフィサー)にも就任した<ref>{{Cite web |url=https://www.as-web.jp/f1/446211?all |title=「新レギュレーションで失敗しないためにはAIの活用が不可欠」とF1技術ボス |publisher=AUTO SPORT web |date=2017.09.06 |accessdate=2019.01.22 }}</ref>。


== 評価 ==
== 評価 ==
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2019年8月20日 (火) 05:20時点における版

パット・シモンズ
Pat Symonds
ウィリアムズF1時代(2015年)
生誕 Patrick Bruce Reith Symonds
(1953-06-11) 1953年6月11日(70歳)
イングランドの旗 イングランド
ベッドフォードシャー州ベッドフォード
国籍 イギリスの旗 イギリス
教育 クランフィールド工科大学
業績
専門分野 自動車エンジニア
レーシングカーデザイナー
テクニカルディレクター
技術コンサルタント
モータースポーツ解説者
所属機関 F1委員会(2017年 - 現在)
勤務先 ニュートリノ・ダイナミクス
雇用者 ホークレーシング(1976年 - 1978年)
ロイヤルレーシング(1978年 - 1979年)
トールマン(1979年 - 1985年)
ベネトンF1(1986年 - 2002年)
ルノーF1(2002年 - 2009年)
マルシャF1(2013年)
ウィリアムズF1(2013年 - 2016年)

パット・シモンズPatrick "Pat" Bruce Reith Symonds, 1953年6月11日 - )は、イングランド出身の自動車技術者、モータースポーツ解説者。

1980年代から2010年代にかけてF1チーム技術部門の要職を歴任し、若手時代のA・セナM・シューマッハF・アロンソら一流ドライバーの飛躍に貢献した。近年は、解説やF1委員会の役職も務める。

経歴

初期の経歴

フォード社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後にクランフィールド工科大学で自動車工学を学び、1976年に修士号を取得し卒業。

卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとしてフォーミュラ・フォードの設計に携わり、2年後の1978年にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤルレーシング(Royale Racing)に移籍。ここでロリー・バーンと知己を得た。

当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、1979年にバーンがF2カー設計のためトールマンチームから誘われると、バーンが引き上げる形でシモンズもトールマンでの職を得た。

トールマン時代(1980年 - 1985年)

1980年のヨーロッパF2選手権において、トールマンハートの組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーのブライアン・ヘントンデレック・ワーウィックは全12戦中4戦で優勝し、この二人が欠場した最終戦を除いて全てのレースでどちらかが表彰台に立ち、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。

この活躍を引っさげ、1981年にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年ステファン・ヨハンソンを擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。

1982年以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年にテオ・ファビとワーウィック、翌1983年にはブルーノ・ジャコメリ、1984年にはその年デビューの新人アイルトン・セナのレースエンジニアとして任にあたった。

ベネトン&ルノー時代(1986年 - 2009年)

1985年、トールマンチームのスポンサーだったイタリアの衣料品メーカー「ベネトン」がチームを買収したことにより、翌1986年からチームは「ベネトン・フォーミュラ」(以降ベネトン)として参戦することとなったが、シモンズは引き続き残留した。

1991年ジョン・バーナードをテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともにエイドリアン・レイナードと契約し、エンジニアリングディレクターとしてレイナードのF1参戦計画に携わった。このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードがフラビオ・ブリアトーレによって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともに早々にベネトンに復帰した。

ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、ミハエル・シューマッハのレースエンジニアも務め、1994年1995年のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌1996年にシューマッハはフェラーリへと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去ったロス・ブラウンの跡を受けて、同年11月にテクニカルディレクターに就任した。

2001年に、新たにチームに加入したマイク・ガスコインにテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。

私事としては、この間、2002年にオックスフォード・ブルックス大学から博士号を授与されている。

クラッシュゲート

1996年以降、ベネトンのチーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンからルノーに変わるなど、チーム体制の変化が続いたが、シモンズは一貫して同チームに留まり続けた。シモンズはトールマン時代の1980年にチームに加入して以降、一時的にレイナードに所属した期間はあるものの、同じチームに30年近く留まり続けたことになる。しかし、2009年半ばを過ぎて転機が訪れることになる。

2008年シンガポールグランプリにおいて、ルノーチームがフェルナンド・アロンソの順位を上げるため、ネルソン・ピケJr.に故意に事故を起こさせたというスキャンダル(クラッシュゲート)が発覚。シモンズはマネージングディレクターのフラビオ・ブリアトーレと共にピケJr.に指示を与えた罪が疑われ、2009年の公聴会の直前、ブリアトーレと共にルノーから離脱した。その後の裁定で、国際自動車連盟 (FIA) の管轄するすべてのモータースポーツカテゴリーにおいて5年間の関与禁止(追放)という処分を受けた。

シモンズとブリアトーレは大審裁判所に訴え、FIAによって下された追放処分の撤回を勝ち取る。これにより、2012年末まで謹慎すれば、2013年以降はF1チームの運営に復帰することが認められた。

ヴァージン/マルシャ時代(2011年 - 2013年)

ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。

2011年初めに、ヴァージン・レーシングとコンサルタント契約を結んだ。まだ謹慎期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた[1]

チームは2012年よりマルシャF1チームとなり、この年のマシン「MR01」はシモンズの指揮によりデザインされた[2]2013年には、シモンズが正式にマルシャのテクニカルディレクターに就任し、チームに帯同することになった[3]

ウィリアムズ時代(2013年 - 2016年)

マルシャへの正式就任から数か月後、シモンズはチームとの契約を解消し、ウィリアムズF1の技術部門を指導するチーフテクニカルオフィサーに就任することになった[4]。同年シーズン終了後には3年契約を交わし、翌2014年からのチーム再浮上に貢献したが、契約が満了する2016年をもって離脱することになった[5]

F1チーム離脱後〜以降(2017年 - 現在)

2017年からSky Sports F1のアナリスト兼コメンテーター(解説者)を務め[6]、さらにF1委員会の役職(後にチーフテクニカルオフィサー)にも就任した[7]

評価

ロス・ブラウンの影に隠れがちだが、シモンズもミハエル・シューマッハのベネトン在籍時からレース戦略の立案に関わっており、レース戦略の分野で一定の評価がある人物の一人である。実際、ブラウンらの離脱後も、ベネトン、ルノーはしばしばその優れた作戦によって他チームに対して優位に立っている。ミハエル・シューマッハはフェラーリ在籍時にロリー・バーンロス・ブラウンとともにシモンズの獲得をフェラーリに要請していた。

脚注

  1. ^ "パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。
  2. ^ "マルシャ新車はパット・シモンズがデザインを指揮". オートスポーツ.(2011年12月8日)2013年3月12日閲覧。
  3. ^ "パット・シモンズ、正式にマルシャのTDに". オートスポーツ.(2013年2月5日)2013年3月12日閲覧。
  4. ^ "ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。
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  6. ^ “シモンズがスカイ・スポーツF1の解説陣に”. ESPN F1. (2017年3月3日). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/233194.html 2017年3月4日閲覧。 
  7. ^ 「新レギュレーションで失敗しないためにはAIの活用が不可欠」とF1技術ボス”. AUTO SPORT web (2017年9月6日). 2019年1月22日閲覧。

関連項目