「明治」の版間の差分

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欧米諸国の[[朝鮮]]進出を警戒して、[[西郷隆盛]]・[[板垣退助]]らは朝鮮の開国を迫り'''[[征韓論]]'''を唱えた。しかし、1873年(明治6年)欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対した([[明治六年政変]])<ref group="注釈">明治維新の年、天皇は16歳だった。新政府の建設は、年少天皇が自ら指揮を執ることのないままに、天皇の名前によって進められていった。1873年(明治6年)10月24日の征韓論不採用の決定は、明治天皇が自らの意見で決定を下した最初の例だといわれる。</ref><ref>鶴見俊輔著 『御一新の嵐』 <鶴見俊輔集・続-2> 筑摩書房 2001年 262ページ</ref>。西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち、[[江華島事件]]が勃発して1876年(明治9年)[[日朝修好条規]](江華条約)を結んで朝鮮を開国させた。また、[[清|清国]]に対しては1871年(明治4年)[[日清修好条規]]を結んで[[琉球藩]]を置き、1874年(明治7年)[[台湾]]に出兵した([[征台の役]])。次いで[[1879年]](明治12年)[[沖縄県]]を設置した。ロシアに対しては[[1875年]](明治8年)に[[樺太・千島交換条約]]を結び、[[樺太]]をロシア領、[[千島列島]]を日本領と定めた。また[[小笠原諸島]]・[[尖閣諸島]]・[[竹島 (島根県)|竹島]]も日本の領土とし、日本の領域をいったん確定した。
 
内国行政では[[留守政府]]が1872年(明治5年)2月に田畑永代売買解禁、4月に[[庄屋]]、[[名主]]を[[戸長]]と改称、7月に全国一般に[[地券]]発行を行い、帰国した大久保は1873年(明治6年)に[[内務省 (日本)|内務省]]を設置、[[殖産興業]]の育成に力を入れて[[お雇い外国人]]らを用いて[[富岡製糸場]]など多くの[[官営工場]]を設立した。財政面では、[[民部省]]を統合した[[大蔵省]]の大蔵卿・大久保と大蔵大輔・[[井上馨]]が[[改正局]]を設立して、井上直属の部下の[[渋沢栄一]]を[[掛長]]に抜擢し、1871年(明治4年)には各藩の[[藩札]]等を廃止して[[新貨条例]]を制定、貨幣の単位を[[円 (通貨)|円]]・[[銭]]・[[厘]]に統一した。[[1872年]](明治5年)に[[国立銀行条例]]を制定し[[国立銀行 (明治)|国立銀行]]を各地に作らせた。[[蝦夷地]]は[[北海道]]と改められて'''[[開拓使]]'''を置き、[[屯田兵]]などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の[[飛脚]]制度にかわり、まず[[三府]](東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)[[郵便]]事業が開始され、[[電信]]も1869年(明治2年)に東京-[[横浜市|横浜]]間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]-横浜間で官営の[[鉄道]]が開通した。海運事業は政府の保護の下に[[三菱商会]]を中心に発達した。建築等も[[煉瓦造]]の建物が見られるようになり、家々には[[石油ランプ]]がともされて街灯には[[ガス灯]]が登場、[[馬車]]や[[人力車]]が走るようになった。軍服には[[洋服]]が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。
 
[[蝦夷地]]は[[北海道]]と改められて'''[[開拓使]]'''を置き、[[屯田兵]]などと共に本格的な開拓事業を展開した。通信では江戸時代の[[飛脚]]制度にかわり、まず[[三府]](東京・京都・大阪)で1871年(明治4年)[[郵便]]事業が開始され、[[電信]]も1869年(明治2年)に東京-[[横浜市|横浜]]間で開通した。運輸関連では1872年(明治5年)[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]-横浜間で官営の[[鉄道]]が開通した。海運事業は政府の保護の下に[[三菱商会]]を中心に発達した。建築等も[[煉瓦造]]の建物が見られるようになり、家々には[[石油ランプ]]がともされて街灯には[[ガス灯]]が登場、[[馬車]]や[[人力車]]が走るようになった。軍服には[[洋服]]が採用され、政府官吏が順次服装を西洋化していった。また、西洋化する日本市場を狙い[[スタンダードチャータード銀行]]や[[オリエンタル・バンク]]など外資の進出が相次いだ。
 
[[司法]]面では[[法治主義]]と[[司法権]]の自立、[[三権分立]]を推進するため、初代[[司法卿]]・[[江藤新平]]がその任に当たったが、留守中の長州藩の首領・[[近衛都督]][[山縣有朋]]が、[[陸軍省]][[御用商人]]・[[山城屋和助]]の公金費消事件に関わったとされる[[山城屋事件]]、[[大蔵大輔]]・[[井上馨]](長州藩士)が職権を濫用して民間人から[[尾去沢銅山]]を巻き上げた事件([[尾去沢鉱山#尾去沢銅山事件|尾去沢銅山事件]])、長州藩出身の[[京都府]]参事・[[槇村正直]]の人民への圧政などを激しく追及、[[裁判所]]設立予算を巡る対立も絡んで3人を一時的に辞職に追い込むなどして[[長州]]閥を一掃したことで江藤は次第に政府内から煙たがられる存在となり、[[留守政府]]の五[[参議]]([[西郷隆盛|西郷]]・[[江藤新平|江藤]]・[[板垣退助|板垣]]・[[後藤象二郎|後藤]]・[[副島種臣|副島]])免職の発端の一つになった。
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