「広島藩」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
脚注の追加・江戸時代以前(吉田郡山城の時代)を別置・加筆など
編集の要約なし
14行目: 14行目:
== 先史(桃山・戦国以前) ==
== 先史(桃山・戦国以前) ==
[[鎌倉時代]]末期に、[[越後国]][[刈羽郡]](旧称:三島郡)[[佐橋庄]](さはしのしょう)を領した毛利経光は、四男の[[毛利時親|時親]]に[[安芸国]][[高田郡]][[吉田荘]](よしだのしょう{{ndash}}高田郡[[吉田町 (広島県)|吉田村]]吉田、現・[[広島県]][[安芸高田市]][[吉田町 (広島県)|吉田町]]吉田)を分与し分家を立てた。
[[鎌倉時代]]末期に、[[越後国]][[刈羽郡]](旧称:三島郡)[[佐橋庄]](さはしのしょう)を領した毛利経光は、四男の[[毛利時親|時親]]に[[安芸国]][[高田郡]][[吉田荘]](よしだのしょう{{ndash}}高田郡[[吉田町 (広島県)|吉田村]]吉田、現・[[広島県]][[安芸高田市]][[吉田町 (広島県)|吉田町]]吉田)を分与し分家を立てた。
時親の子・[[毛利貞親|貞親]]、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが<ref>毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。</ref>、南北朝時代に時親の曽孫・[[毛利元春|元春]]は安芸に下向し、[[吉田郡山城]](よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治<ref>吉田郡山城の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。</ref>するようになる。[[吉田町 (広島県)|吉田荘]]に移った毛利氏は、室町時代に[[安芸国]]の有力な[[国人領主]]として成長した。
時親の子・[[毛利貞親|貞親]]、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが<ref>毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。</ref>、南北朝時代に時親の曽孫・[[毛利元春|元春]]は安芸に下向し、[[吉田郡山城]](よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治<ref>[[吉田郡山城]]の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。</ref>するようになる。[[吉田町 (広島県)|吉田荘]]に移った毛利氏は、室町時代に[[安芸国]]の有力な[[国人領主]]として成長した。


[[毛利氏]]は[[戦国時代]]、[[中国地方]]の大半を領する大大名となる。[[天正]]19年([[1591年]])には[[広島城]]が築城されて毛利氏の居城となり、広島は[[政治]]・[[経済]]の中心地となった。しかし[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で西軍の総大将として参戦し敗戦した[[毛利輝元]]は、戦後、山陰山陽の112万石から
[[毛利氏]]は[[戦国時代]]、安芸国の守護だった安芸武田氏を討ち、大内義長を滅ぼし、尼子義久を降伏させて[[中国地方]]の大半(一時は九州の一部にも及ぶ)を領する大大名となる。[[天正]]19年([[1591年]])には[[広島城]]が築城されて毛利氏の居城となり、広島は[[政治]]・[[経済]]の中心地となった。しかし[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で西軍の総大将として参戦し敗戦した[[毛利輝元]]は、戦後、山陰山陽の112万石から[[周防国|防]][[長門国|長]]2国([[長州藩]]・現在の[[山口県]])29万石に[[減封]]された<ref>慶長12年(1607年)、再検地で36万9千石に高直しされ、これが長州藩の表高となる。</ref>。
[[周防国|防]][[長門国|長]]2国([[長州藩]]・現在の[[山口県]])29万石に[[減封]]された<ref>慶長12年(1607年)、再検地で36万9千石に高直しされ、これが長州藩の表高となる。</ref>。


== 藩史 ==
== 藩史 ==
27行目: 26行目:
=== 福島氏の時代 ===
=== 福島氏の時代 ===
毛利氏のあとは安芸・備後2ヶ国の49万8000石の太守として、[[尾張国]][[清洲城|清洲]]より[[福島正則]]が入封した。正則は慶長6年([[1601年]])から検地を実施し、毛利氏時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なった。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立した。
毛利氏のあとは安芸・備後2ヶ国の49万8000石の太守として、[[尾張国]][[清洲城|清洲]]より[[福島正則]]が入封した。正則は慶長6年([[1601年]])から検地を実施し、毛利氏時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なった。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立した。

[[慶長]]20年閏6月13日([[1615年]][[8月7日]])、[[一国一城令]]により、[[安芸国]]は[[広島城]]、[[備後国]]は[[神辺城]](村尾城)を残し破却した(神辺城は、のちに[[福山城]]を築いて移った[[水野氏]]により破却される)。備後国の[[三原城|三原要害]](三原城)は、一城令より前に[[福島正之]]が追放されてから廃城となっていたが、発令後に福島氏は破却した[[鞆城]]の櫓を密かに移築したとも言われる。


しかし正則は[[大坂の陣]]が終わった後の[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上[[信濃国]][[川中島藩]]に[[転封]]された。実際は[[豊臣氏]]恩顧の有力大名であり、大坂の陣によって[[江戸幕府]]が豊臣氏を滅亡させたことに異を唱えた事によるものであったと思われる。
しかし正則は[[大坂の陣]]が終わった後の[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上[[信濃国]][[川中島藩]]に[[転封]]された。実際は[[豊臣氏]]恩顧の有力大名であり、大坂の陣によって[[江戸幕府]]が豊臣氏を滅亡させたことに異を唱えた事によるものであったと思われる。
39行目: 40行目:
第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも[[九条道房]]の娘を迎えている。道房の母は[[豊臣秀勝]]の娘である[[豊臣完子]]であり、以降の浅野宗家は[[豊臣氏]]の血を女系で受け継ぐ事になる。
第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも[[九条道房]]の娘を迎えている。道房の母は[[豊臣秀勝]]の娘である[[豊臣完子]]であり、以降の浅野宗家は[[豊臣氏]]の血を女系で受け継ぐ事になる。


第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の[[元禄]]14年([[1701年]])、分家の[[赤穂藩]]主・[[浅野長矩]]が[[赤穂事件|刃傷事件]]を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、[[進藤俊重]]、[[小山良速]]など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の[[大石良雄]]の盟約にも切り崩しをはかり、[[進藤俊式]]や[[小山良師]]ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも討ち入りそのものの阻止は失敗した。しかし、数年後、赤穂浪士の英雄化に伴い、態度を一変させて大石良雄の三男・[[大石大三郎|良恭]]や小山氏・萱野氏など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。藩では浅野氏との婚姻により、大石家を一門化しようとしたが悉く失敗<ref>[[大石大三郎]]は大身の浅野一門を二度も離縁した。[[大石るり]]も浅野一門を迎えるが、藩主に連なる血脈を残せなかった。</ref>、大石氏は減封・絶家・再興・除籍・他家からの養子入りが繰り返された。
第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の[[元禄]]14年([[1701年]])、分家の[[赤穂藩]]主・[[浅野長矩]]が[[赤穂事件|刃傷事件]]を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、[[進藤俊重]]、[[小山良速]]など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の[[大石良雄]]の盟約にも切り崩しをはかり、[[進藤俊式]]や[[小山良師]]ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも討ち入りそのものの阻止は出来なかった。
しかし、数年後、態度を一変させて大石良雄の三男・[[大石大三郎|良恭]]や小山氏・萱野氏など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。藩では浅野氏との婚姻により、大石家を一門化しようとしたが悉く失敗<ref>[[大石大三郎]]は大身の浅野一門を二度も離縁した。[[大石るり]]も浅野一門を迎えるが、藩主に連なる血脈を残せなかった。</ref>、[[大石温良|大石氏]]は減封・絶家・再興・除籍・他家からの養子入りが繰り返された。
なお、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の発行が行なわれている。
なお、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や[[藩札]]の発行が行なわれている。


こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・[[浅野吉長]](綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて[[享保]]3年([[1718年]])3月に大規模な[[一揆]]にあい、失敗に終わった。なお、享保5年([[1720年]])5月に三次藩が断絶したため、享保15年([[1730年]])3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、[[新田分知]](広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。また享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の[[修道中学校・修道高等学校]]・広島修道大学)を創始した。
こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・[[浅野吉長]](綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて[[享保]]3年([[1718年]])3月に大規模な[[一揆]]にあい、失敗に終わった。なお、享保5年([[1720年]])5月に三次藩が断絶したため、享保15年([[1730年]])3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、[[新田分知]](広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。また享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の[[修道中学校・修道高等学校]]・広島修道大学)を創始した。
60行目: 62行目:
明治2年([[1869年]])6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は[[版籍奉還]]により広島藩知事に任じられる。[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により広島県となった。明治17年([[1884年]])、藩主・浅野家は[[侯爵]]となり[[華族]]に列し、家老三家は[[男爵]]となった。なお長勲は[[昭和]]12年([[1937年]])に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時の報道媒体からは「最後の殿様」ともてはやされたという。
明治2年([[1869年]])6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は[[版籍奉還]]により広島藩知事に任じられる。[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により広島県となった。明治17年([[1884年]])、藩主・浅野家は[[侯爵]]となり[[華族]]に列し、家老三家は[[男爵]]となった。なお長勲は[[昭和]]12年([[1937年]])に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時の報道媒体からは「最後の殿様」ともてはやされたという。


なお、支藩として[[#三次藩|三次藩]]、[[#広島新田藩|広島新田藩]]があった。また赤穂藩(元の[[常陸]][[真壁藩]]、同[[笠間藩]])も支藩といわれる場合もあるが、正確には別家である<ref>宇和島伊達や鳥取池田と同様、本家が既に持っていた自領を割いて立藩した大名ではない。</ref>。
なお、支藩(分家)として[[#三次藩|三次藩]]、[[#広島新田藩|広島新田藩]]があった。また赤穂藩(元の[[常陸]][[真壁藩]]、同[[笠間藩]])も分家といわれる場合もあるが、正確には別家である<ref>宇和島伊達や鳥取池田と同様、本家が既に持っていた自領を割いて立藩した大名ではない。</ref>。


== 歴代藩主 ==
== 歴代藩主 ==
125行目: 127行目:
*常陸国[[笠間藩]]5万3500石(1622 - 1645年)
*常陸国[[笠間藩]]5万3500石(1622 - 1645年)
*[[播磨国]][[赤穂藩]]5万3500石(1645 - 1701年)、1671年に分家を2戸創設のため分地により5万石に変更
*[[播磨国]][[赤穂藩]]5万3500石(1645 - 1701年)、1671年に分家を2戸創設のため分地により5万石に変更
**[[浅野長重]](浅野長政の三男)の系統。1701年に浅野長矩が[[吉良義央]]に対して殿中で刃傷に及び改易。
**[[浅野長重]](浅野長政の三男)の系統。1701年に浅野長矩が[[吉良義央]]に対して殿中で刃傷に及び改易。長矩の弟・[[浅野長広]]が、宝永7年(1710年)に[[安房国]]のうちで500石に減封となったが旗本に復した。その後、長栄で男系は絶え、長楽の代で断絶した


== 家老 ==
== 家老 ==
182行目: 184行目:
* [[修道中学校・修道高等学校]] - 広島藩の[[藩校]]の後裔である「私立浅野学校」を起源とする。
* [[修道中学校・修道高等学校]] - 広島藩の[[藩校]]の後裔である「私立浅野学校」を起源とする。
* [[神機隊]] - 江戸時代末に結成された藩兵。
* [[神機隊]] - 江戸時代末に結成された藩兵。

==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2019年4月21日 (日) 02:19時点における版

広島藩 外様 42万6千石の位置(日本内)
広島藩 外様 42万6千石
広島藩
外様
42万6千石
広島藩の位置

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大(国持ち大名)で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。

先史(桃山・戦国以前)

鎌倉時代末期に、越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋庄(さはしのしょう)を領した毛利経光は、四男の時親安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう – 高田郡吉田村吉田、現・広島県安芸高田市吉田町吉田)を分与し分家を立てた。 時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが[1]、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治[2]するようになる。吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長した。

毛利氏戦国時代、安芸国の守護だった安芸武田氏を討ち、大内義長を滅ぼし、尼子義久を降伏させて中国地方の大半(一時は九州の一部にも及ぶ)を領する大大名となる。天正19年(1591年)には広島城が築城されて毛利氏の居城となり、広島は政治経済の中心地となった。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として参戦し敗戦した毛利輝元は、戦後、山陰山陽の112万石から2国(長州藩・現在の山口県)29万石に減封された[3]

藩史

広島城
浅野長晟
修道学園
饒津神社

福島氏の時代

毛利氏のあとは安芸・備後2ヶ国の49万8000石の太守として、尾張国清洲より福島正則が入封した。正則は慶長6年(1601年)から検地を実施し、毛利氏時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なった。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立した。

慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)、一国一城令により、安芸国広島城備後国神辺城(村尾城)を残し破却した(神辺城は、のちに福山城を築いて移った水野氏により破却される)。備後国の三原要害(三原城)は、一城令より前に福島正之が追放されてから廃城となっていたが、発令後に福島氏は破却した鞆城の櫓を密かに移築したとも言われる。

しかし正則は大坂の陣が終わった後の元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上信濃国川中島藩転封された。実際は豊臣氏恩顧の有力大名であり、大坂の陣によって江戸幕府が豊臣氏を滅亡させたことに異を唱えた事によるものであったと思われる。

浅野氏の時代

代わって紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男・浅野長晟が安芸1国・備後8郡の42万6000石で入封した。国主。広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期の学者・海保青陵儒学経済学)より評された。

長晟は福島氏時代の政策を踏襲するが、その一方で土豪に対しては厳しい態度で臨み、統治機構の近代化を目指した。

第2代藩主・光晟(長晟の次男)は徳川家康の外孫であったため、幕府の許しを得て光晟の庶兄・浅野長治に5万石を分与した。これが支藩である三次藩の立藩である。光晟は街道整備に尽力し、また松平姓を名乗ることも許された。

第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも九条道房の娘を迎えている。道房の母は豊臣秀勝の娘である豊臣完子であり、以降の浅野宗家は豊臣氏の血を女系で受け継ぐ事になる。

第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主・浅野長矩刃傷事件を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、進藤俊重小山良速など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の大石良雄の盟約にも切り崩しをはかり、進藤俊式小山良師ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも討ち入りそのものの阻止は出来なかった。 しかし、数年後、態度を一変させて大石良雄の三男・良恭や小山氏・萱野氏など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。藩では浅野氏との婚姻により、大石家を一門化しようとしたが悉く失敗[4]大石氏は減封・絶家・再興・除籍・他家からの養子入りが繰り返された。 なお、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の発行が行なわれている。

こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・浅野吉長(綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて享保3年(1718年)3月に大規模な一揆にあい、失敗に終わった。なお、享保5年(1720年)5月に三次藩が断絶したため、享保15年(1730年)3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、新田分知(広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。また享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校・広島修道大学)を創始した。

第6代藩主・宗恒(吉長の長男)は宝暦の改革と言われる藩政改革に着手して成功を収め、財政が好転する。

第7代藩主・重晟(宗恒の長男)は緊縮財政政策を採用し、徹底した諸制度の簡素化や綱紀の粛正を図り、これも成功したが、天明期に相次ぐ洪水や旱魃、冷害、虫害などによる凶作・飢餓に悩まされ、結局のところ、財政は悪化した。しかも天明6年(1786年)には打ちこわしも起こっている。

第8代藩主・斉賢は、重晟の長男である。

第9代藩主・斉粛(斉賢の長男)は、第11代将軍徳川家斉の娘・末姫との婚儀、饒津神社の造営、幕府の手伝い普請、凶作が相次ぎ、幕末になると藩財政は窮乏の一途をたどった。このため斉粛は殖産興業の実施・藩内産物の専売制の強化を行なった。しかし藩札の濫発による物価騰貴、専売制の反対一揆などが相次ぎ、さらに藩政改革の手法をめぐって家臣団で対立まで起こり、改革は事実上頓挫した。

第10代藩主・慶熾は、斉粛の長男である。

第11代藩主・長訓(重晟の孫)は先代からの藩政改革を受け継ぎ、文久2年(1862年)、辻将曹を家老に抜擢し文久の改革を行なった。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し、成功をみた。長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。

慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至った。しかしその一方で、第15代将軍・徳川慶喜大政奉還を推進するなどしている。このため、広島藩は後の明治政府の中枢から排除されることにはなったが、官軍に加わって戊辰戦争を戦った。

明治2年(1869年)6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は版籍奉還により広島藩知事に任じられる。明治4年(1871年)、廃藩置県により広島県となった。明治17年(1884年)、藩主・浅野家は侯爵となり華族に列し、家老三家は男爵となった。なお長勲は昭和12年(1937年)に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時の報道媒体からは「最後の殿様」ともてはやされたという。

なお、支藩(分家)として三次藩広島新田藩があった。また赤穂藩(元の常陸真壁藩、同笠間藩)も分家といわれる場合もあるが、正確には別家である[5]

歴代藩主

福島家

福島正則

外様 49万8000石 (1600年 - 1619年)

  1. 正則

浅野家

外様 42万6000石 (1619年 - 1871年)

  1. 長晟
  2. 光晟
  3. 綱晟
  4. 綱長
  5. 吉長
  6. 宗恒
  7. 重晟
  8. 斉賢
  9. 斉粛
  10. 慶熾
  11. 茂長
  12. 長勲

支藩

三次藩

三次藩(みよしはん)は、江戸時代中期まで備後北部を領有した藩。藩庁として三次三次城が置かれた。知行高は5万石。

寛永9年(1632年)初代広島藩主・浅野長晟の庶子で長男の長治が三次郡・恵蘇郡を与えられ立藩した。享保4年(1719年)4月、4代・長経は13歳(幕府への届出上、実際には11歳)で没し一旦は広島藩領となったが、同年11月、長経の弟・長寔に相続が認められた。しかし、長寔も翌、享保5年(1720年)10歳(実際には8歳)で没したため廃藩となった。

歴代藩主

浅野家

5万石 (1632年 - 1720年)

  1. 長治
  2. 長照
  3. 長澄
  4. 長経
  5. 長寔

広島新田藩

広島新田藩(ひろしましんでんはん)は、享保15年(1730年)より広島藩の蔵米3万石を与えられ、広島藩4代・綱長の三男・長賢により立藩した。藩主は参勤交代を行わず江戸定府大名であった。元治元年(1864年)には吉田(現在の安芸高田市)に吉田陣屋を構えた。明治2年(1869年)広島藩に併合され廃藩となった。

現存する建物としては通称「三菱窟」が現存し、市内甲田町の個人宅に西御門が移築現存し、そして市内教徳寺には陣屋門が現存している。

歴代藩主

浅野家

3万石 (1730年 - 1869年)

  1. 長賢
  2. 長喬
  3. 長員
  4. 長容
  5. 長訓
  6. 長興
  7. 長厚

真岡藩・真壁藩・笠間藩・赤穂藩

  • 下野国真岡藩2万石(1601 - 1611年)
  • 常陸国真壁藩5万石(1611 - 1622年)
  • 常陸国笠間藩5万3500石(1622 - 1645年)
  • 播磨国赤穂藩5万3500石(1645 - 1701年)、1671年に分家を2戸創設のため分地により5万石に変更
    • 浅野長重(浅野長政の三男)の系統。1701年に浅野長矩が吉良義央に対して殿中で刃傷に及び改易。長矩の弟・浅野長広が、宝永7年(1710年)に安房国のうちで500石に減封となったが旗本に復した。その後、長栄で男系は絶え、長楽の代で断絶した。

家老

浅野忠吉浅野長政の従弟)=忠長忠真忠義忠綏忠晨忠正忠愛忠順忠敬敬五
  • 東城浅野氏(備後東城領1万石(現在の庄原市東城町)・藩主一門)維新後男爵
浅野高勝(堀田高勝)-高英-高次-高尚=高方-俊峰-高明=道寧=高景-高通=高平=道博=道興=道敏=守夫
  • 上田氏(安芸小方領2万石・家臣)維新後男爵
上田重安-重政-重次-重羽-義行-義従-義敷=義珍-安虎-安世=安節=重美=亀次郎

5ヵ寺

国泰寺

幕末の領地

1869年(明治2年)に編入した広島新田藩領も含む。

上記のほか、明治維新後に北見国常呂郡釧路国網尻郡を管轄した。

参考文献

脚注

  1. ^ 毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。
  2. ^ 吉田郡山城の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。
  3. ^ 慶長12年(1607年)、再検地で36万9千石に高直しされ、これが長州藩の表高となる。
  4. ^ 大石大三郎は大身の浅野一門を二度も離縁した。大石るりも浅野一門を迎えるが、藩主に連なる血脈を残せなかった。
  5. ^ 宇和島伊達や鳥取池田と同様、本家が既に持っていた自領を割いて立藩した大名ではない。
  6. ^ 大名である無城の支藩と幕府を憚り、小早川時代の呼称「要害」と称す

関連項目

外部リンク

先代
安芸国備後国
行政区の変遷
1600年 - 1871年 (広島藩→広島県)
次代
広島県