「藤堂高敏」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Leonidjp (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
m編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2018年2月6日 (火) 08:34 (UTC)}}
{{出典の明記|date=2018年2月6日 (火) 08:34 (UTC)}}
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 藤堂 高敏
| 氏名 = 藤堂高敏
| 画像 = Todo Takatoshi.jpg
| 画像 = Todo Takatoshi.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像サイズ = 200px
22行目: 22行目:
'''藤堂 高敏'''(とうどう たかとし)は、[[伊勢国]][[津藩]]の第5代藩主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家5代。
'''藤堂 高敏'''(とうどう たかとし)は、[[伊勢国]][[津藩]]の第5代藩主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家5代。


==生涯==
== 生涯 ==
[[伊勢国|伊勢]][[津藩#久居藩|久居藩]]の初代藩主・[[藤堂高通]]の三男として生まれる。伊勢[[津藩]]の第2代藩主・[[藤堂高次]]の孫にあたる。2人の兄がいずれも早世したため、高通の[[嫡男]]となるが、元禄10年([[1697年]])に父が死去したときにまだ5歳の幼少だったことから、久居藩の家督は叔父の[[藤堂高堅|高堅]]が中継ぎして、高敏は成長してからその跡を継ぐこととなった。宝永元年([[1704年]])7月28日、将軍[[徳川綱吉]]にお目見した。
[[伊勢国|伊勢]][[津藩#久居藩|久居藩]]の初代藩主・[[藤堂高通]]の三男として生まれる。伊勢[[津藩]]の第2代藩主・[[藤堂高次]]の孫にあたる。2人の兄がいずれも早世したため、高通の[[嫡男]]となるが、元禄10年[[1697年]]に父が死去したときにまだ5歳の幼少だったことから、久居藩の家督は叔父の[[藤堂高堅|高堅]]が中継ぎして、高敏は成長してからその跡を継ぐこととなった。[[宝永]]元年[[1704年]])7月28日、将軍[[徳川綱吉]]に[[御目見]]した。ところが、本家の津藩において藩主・[[藤堂高睦|高睦]]の2人の男子が全て早世したため、宝永2年([[1705年]])5月19日、高睦の養嗣子となった。同年5月28日、将軍徳川綱吉に御目見した。宝永4年12月23日([[1708年]])、従四位下・大学頭に叙任した。宝永5年11月25日([[1709年]])、高睦の死去により跡を継いだ
ところが、本家の津藩において藩主・[[藤堂高睦|高睦]]の2人の男子が全て早世したため、宝永2年([[1705年]])5月19日、高睦の養嗣子となった。同年5月28日、将軍徳川綱吉にお目見えした。宝永4年12月23日、従四位下大学頭に叙任した。宝永5年([[1708年]])11月25日、養父高睦の死去により跡を継いだ。


藩政においては、[[宝永大噴火|宝永地震]]などの影響で凶作が相次ぎ財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。
藩政においては、[[宝永大噴火|宝永地震]]などの影響で凶作が相次ぎ財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。
37行目: 36行目:


{{DEFAULTSORT:とうとう たかとし}}
{{DEFAULTSORT:とうとう たかとし}}
[[Category:藤堂|たかとし]]
[[Category:津藩主|藤05]]
[[Category:津藩主|藤05]]
[[Category:藤堂和泉守家|たかとし]]
[[Category:久居藤堂|たかとし]]
[[Category:天然痘で死亡した人物]]
[[Category:天然痘で死亡した人物]]
[[Category:1693年生]]
[[Category:1693年生]]

2019年4月13日 (土) 13:15時点における版

 
藤堂高敏
藤堂高敏像
時代 江戸時代中期
生誕 元禄6年2月4日1693年3月10日
死没 享保13年4月13日1728年5月21日
改名 正介(幼名)、高敏
戒名 大輪院殿智月高映権大僧都
墓所 三重県津市の寒松院
官位 従四位下和泉守、侍従
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
伊勢津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高通、母:智鏡院(福本休悦娘)
養父:藤堂高睦
兄弟 岩之助、学助、高敏、万助、清、栗
正室:中川久通
養子:高治
テンプレートを表示

藤堂 高敏(とうどう たかとし)は、伊勢国津藩の第5代藩主。藤堂家宗家5代。

生涯

伊勢久居藩の初代藩主・藤堂高通の三男として生まれる。伊勢津藩の第2代藩主・藤堂高次の孫にあたる。2人の兄がいずれも早世したため、高通の嫡男となるが、元禄10年(1697年)に父が死去したときにまだ5歳の幼少だったことから、久居藩の家督は叔父の高堅が中継ぎして、高敏は成長してからその跡を継ぐこととなった。宝永元年(1704年)7月28日、将軍徳川綱吉御目見した。ところが、本家の津藩において藩主・高睦の2人の男子が全て早世したため、宝永2年(1705年)5月19日、高睦の養嗣子となった。同年5月28日、将軍徳川綱吉に御目見した。宝永4年12月23日(1708年)、従四位下・大学頭に叙任した。宝永5年11月25日(1709年)、高睦の死去により跡を継いだ。

藩政においては、宝永地震などの影響で凶作が相次ぎ財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。

1728年疱瘡が原因で倒れる。8代将軍・徳川吉宗から薬を下賜されたが一向に良くならず、享保13年4月13日1728年5月21日)、津城にて死去した。死後、家督は一族から迎えた養嗣子の高治が継いだ。高治は初代藩主・藤堂高虎の弟・高清の子孫であり、初代藩主・高虎の男系血統は5代で絶えることとなった。

脚注