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[[499年]](太和23年)、孝文帝の死にあたって、輔政を遺託され、[[司空]]となった。[[501年]]([[景明]]2年)、[[宣武帝]]が親政を開始すると、元詳は侍中・[[大将軍]]・録尚書事となった。兄の咸陽王[[元禧]]が反乱を計画して敗死すると、元詳は自らの任を解くよう願い出た。宣武帝はこれを許さず、かえって[[太傅]]・領[[司徒]]に任じた。[[502年]](景明3年)、宣武帝が閲兵のために[[ギョウ|鄴]]に赴くと、元詳は[[高肇]]や[[于勁]]らとともに[[洛陽]]の留守を預かった。
[[499年]](太和23年)、孝文帝の死にあたって、輔政を遺託され、[[司空]]となった。[[501年]]([[景明]]2年)、[[宣武帝]]が親政を開始すると、元詳は侍中・[[大将軍]]・録尚書事となった。兄の咸陽王[[元禧]]が反乱を計画して敗死すると、元詳は自らの任を解くよう願い出た。宣武帝はこれを許さず、かえって[[太傅]]・領[[司徒]]に任じた。[[502年]](景明3年)、宣武帝が閲兵のために[[ギョウ|鄴]]に赴くと、元詳は[[高肇]]や[[于勁]]らとともに[[洛陽]]の留守を預かった。


元詳は宣武帝の叔父として顕位に上り、収賄や商売によって巨万の富を蓄え、宏壮な邸宅を営んでいた。妃の劉氏を相手にせず、妾の范氏を寵愛した。范氏が亡くなると、上表して平昌県君の位を贈った。また安定王[[元燮]]の妃の高氏と私通した。
元詳は宣武帝の叔父として顕位に上り、収賄や商売によって巨万の富を蓄え、宏壮な邸宅を営んでいた。妃の劉氏を相手にせず、妾の范氏を寵愛した。范氏が亡くなると、上表して平昌県君の位を贈った。また安定王[[元燮]]の妃の高氏(宣武帝の叔母)と私通した。


[[504年]]([[正始 (北魏)|正始]]元年)5月、元詳は[[茹皓]]らとともに反乱を計画していたと[[高肇]]に誣告され、庶人に落とされて、太府寺に幽閉された。6月13日夜、数度の悲鳴とともに不審な突然死を遂げた。
[[504年]]([[正始 (北魏)|正始]]元年)5月、元詳は[[茹皓]]らとともに反乱を計画していたと[[高肇]]に誣告され、庶人に落とされて、太府寺に幽閉された。6月13日夜、数度の悲鳴とともに不審な突然死を遂げた。

2019年3月15日 (金) 12:28時点における版

元 詳(げん しょう、476年 - 504年)は、北魏皇族。北海王。季豫

経歴

献文帝と高椒房のあいだの子として生まれた。485年太和9年)、北海王に封じられ、侍中・征北大将軍の位を加えられた。後に光禄大夫に任じられ、侍中・将軍位から解任された。

493年(太和17年)、孝文帝の南征に従って、散騎常侍となった。494年(太和18年)、孝文帝の北巡に従い、文成帝の射銘の地で矢を試射し、孝文帝に喜ばれた。後に侍中となり、秘書監に転じた。

497年(太和21年)、孝文帝の南征にあたって、元詳は中領軍を代行した。498年(太和22年)、趙郡王元幹が死去すると、元詳は司州牧を代行した。護軍将軍の号を受け、尚書左僕射を兼ねた。

499年(太和23年)、孝文帝の死にあたって、輔政を遺託され、司空となった。501年景明2年)、宣武帝が親政を開始すると、元詳は侍中・大将軍・録尚書事となった。兄の咸陽王元禧が反乱を計画して敗死すると、元詳は自らの任を解くよう願い出た。宣武帝はこれを許さず、かえって太傅・領司徒に任じた。502年(景明3年)、宣武帝が閲兵のためにに赴くと、元詳は高肇于勁らとともに洛陽の留守を預かった。

元詳は宣武帝の叔父として顕位に上り、収賄や商売によって巨万の富を蓄え、宏壮な邸宅を営んでいた。妃の劉氏を相手にせず、妾の范氏を寵愛した。范氏が亡くなると、上表して平昌県君の位を贈った。また安定王元燮の妃の高氏(宣武帝の叔母)と私通した。

504年正始元年)5月、元詳は茹皓らとともに反乱を計画していたと高肇に誣告され、庶人に落とされて、太府寺に幽閉された。6月13日夜、数度の悲鳴とともに不審な突然死を遂げた。

508年永平元年)10月、追って北海王の封を回復し、を平王といった。

妻子

妻妾

  • 鄭氏(鄭懿の娘)
  • 劉氏(劉昶の娘)
  • 范氏(元顥の母)

伝記資料

  • 魏書』巻21上 列伝第9上
  • 北史』巻19 列伝第7