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'''ユヴァル・ネーマン'''(יובל נאמן Yuval Ne'eman, [[1925年]][[5月14日]] - [[2006年]][[4月26日]])は[[イスラエル]]の[[物理学者]]、後にイスラエルの科学大臣、エネルギー省大臣などを務めた。[[マレー・ゲルマン]]と同時期に、[[クォーク]]模型の考えを発表した一人である。 |
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2019年3月11日 (月) 01:04時点における版
ユヴァル・ネーマン(יובל נאמן Yuval Ne'eman, 1925年5月14日 - 2006年4月26日)はイスラエルの物理学者、後にイスラエルの科学大臣、エネルギー省大臣などを務めた。マレー・ゲルマンと同時期に、クォーク模型の考えを発表した一人である。
テルアビブに生まれた。テクニオンを卒業した後、軍人になった。ロンドンの駐在武官となった後、キングスカレッジの研究生としてアブドゥッサラームのもとで物理学を学んだ。1962年にマレー・ゲルマンとは独立してハドロンが3種類の粒子からなるモデルを提案した。アメリカなどで研究する一方、1965年からテルアビブ大学に物理学部を設立し学部長になった。1975年からテルアビブ大学の学長、1982年から科学大臣、エネルギー省大臣などを務めた。
1969年にイスラエル国家からイスラエル賞を受賞したが、1992年に返上した。
1965年と1966年に、ノーベル物理学賞候補となっていたことが判明している[1]。
脚注
- ^ Yuval Ne´eman - Nomination Databese(ノーベル財団)