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寛永3年(1626年)5月19日死去し、江戸谷中瑞輪寺に葬られた。法名日受。 |
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== 大和田伊達 |
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2018年12月3日 (月) 15:58時点における版
伊達 房実(だて ふさざね、? - 寛永3年(1626年)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将、江戸幕府旗本。太田氏、後北条氏の家臣。伊達城主。通称は与兵衛。伊達房成とも。妻は足利義氏の家臣・相馬藤右衛門の娘。
生涯
房実は、太田氏に仕え、永禄3年(1560年)、伊達城が築かれる[1]。太田氏房が岩槻城主となるのに伴い付家老となる[2]。天正17年(1589年)には、華林山慈恩寺に「南蛮鉄灯篭」(埼玉県さいたま市 市指定文化財)を寄進。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に際して、主君・氏房が小田原城に篭ったため、房実は2,000人の兵と共に岩槻城に篭城した。1,000人余の死傷者を出しながら奮闘したが、2万人の豊臣軍に攻められ落城降伏した。
同年、徳川氏に召し抱えられ江戸三番町角屋敷を与えられた。天正19年(1591年)、武蔵国足立郡(埼玉県さいたま市見沼区)250石を与えられ旧領である大和田村を知行した。その頃に伊達城は破却され大和田陣屋を構えた。後に常陸国鹿島郡(茨城県鉾田市)200石を加増され450石となった。
寛永3年(1626年)5月19日死去し、江戸谷中瑞輪寺に葬られた。法名日受。
大和田伊達家系譜
- 『寛政重修諸家譜』
政充━宗春━房実(房成)━房次┳勝治 ┣勝尚━女 ┗勝信 ∥ 清房=房征=政春=政誉━政典━政和━与兵衛━政辰
- 『浅子家文書目録 資料抄録 伊達氏先祖書』
輝宗━重実━政統━房実━政勝(房勝)━房次
参考資料
- 『北条五代記』
- 『小田原編年録』
- 『関東古戦録』