「三村家親」の版間の差分

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| 父母 = 父:[[三村宗親]]、母:不明
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'''三村 家親'''(みむら いえちか)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[備中国]]の[[大名]]。[[備中松山城]]主。
'''三村 家親'''(みむら いえちか)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[備中国]]の[[大名]]。[[成羽城]](鶴首城)主のちに[[備中松山城]]主。

== 家系 ==
三村宗親の子で、[[三村盛親]](三村時親)の孫である。なお、正室は互いに[[小笠原氏]]分流を称していた阿波三好氏の娘で、三村元親や[[上田実親]]の母にあたるといわれている。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[三村宗親]]の子として生まれる。[[三村盛親|盛親]](時親)の孫。なお、正室は互いに[[小笠原氏]]分流を称していた阿波三好氏の娘で、三村元親や[[上田実親]]の母にあたるといわれる。
[[永正]]14年([[1517年]])、三村宗親の子として生まれる。


備中においては守護家である[[細川氏]]の威光が早くから衰えており、その中においてはじめは[[庄氏]]と連携しつつ、のちは争いながら勢力拡張を図った。庄氏との勢力争いに行き詰まり、[[尼子氏]]方だらけの備中国人とてはおそらくはじめて毛利氏を頼っ。[[毛利元就]]は家親をかなり評価していたらしく、[[三村氏]]からの使者に「備中一国はこれで毛利のものとなったも同然である」という趣旨の言葉を発して喜んだという<ref>『陰徳太平記』</ref>
備中においては守護家である[[細川氏]]の威光が早くから衰えて[[国人]]層が台頭した。その中において[[庄氏|荘氏]](庄氏)ははじめは連携し、のちは争って勢力拡張を伸張した。


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[[毛利氏]]と手を結んで以降、備中における尼子氏の勢力を次々と駆逐し、備中をほぼ統一する。拠点を備中成羽の[[鶴首城]]から[[備中松山城]]に移し(毛利元就書状)、鶴首城を重臣・三村親成に任せる。この間、備中守護代家である庄氏・[[石川氏]]・[[上野氏]]などと積極的な縁戚関係を構築したが、庄氏だけはその一族を完全に取り込めず、遺恨となる。[[永禄]]7年([[1564年]])、三村氏に味方する[[備前国|備前]][[龍口城]]の穝所氏救援に[[石川久智]]の軍勢を向かわせた際に[[庄高資]]・[[勝資]]が離反した<ref>『黄薇古簡集』、時期不詳だが三村氏が本拠と定めた松山城もこの後に占拠されたようで、松山城奪回の戦いも同書に残る。</ref>。


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2018年9月10日 (月) 22:00時点における版

 
三村家親
時代 戦国時代
生誕 生年不詳
死没 永禄9年[1]2月5日1566年2月24日
別名 受領名修理亮紀伊守
墓所 源樹寺岡山県高梁市成羽町成羽)
頼久寺( 岡山県高梁市頼久寺町)
氏族 備中三村氏
父母 父:三村宗親、母:不明
兄弟 家親親成
正室:三好氏
荘元祐元親元範実親
女(上野隆徳室)、女(楢崎元兼室)、
女(水野勝成室)、女(石川久式室)
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三村 家親(みむら いえちか)は、戦国時代備中国大名成羽城(鶴首城)主のちに備中松山城主。

生涯

三村宗親の子として生まれる。盛親(時親)の孫。なお、正室は互いに小笠原氏分流を称していた阿波三好氏の娘で、三村元親や上田実親の母にあたるといわれる。

備中においては守護家である細川氏の威光が早くから衰えて国人層が台頭した。その中において荘氏(庄氏)とははじめは連携し、のちは争って勢力拡張を伸張した。

尼子氏方に属する荘氏との勢力争いに行き詰まると、備中の国人領主としてはおそらくはじめて毛利氏を頼った。毛利元就は家親をかなり評価していたらしく、三村氏からの使者に「備中一国はこれで毛利のものとなったも同然である」という趣旨の言葉を発して喜んだという[2]毛利氏に属して以降、備中において勢力を拡大。

永禄4年(1561年)、尼子方の荘高資を破って備中松山に進出し、備中の中心勢力となった[3]。拠点を備中成羽の鶴首城から備中松山城に移して[4]、鶴首城を重臣・三村親成に任せた。この間、備中守護代家である荘氏・石川氏上野氏などと積極的に縁戚関係を構築したが、しばしば干戈を交えた荘氏だけはその一族を取り込めなかった。

永禄7年(1564年)、三村氏に味方する備前龍口城の穝所氏救援に石川久智の軍勢を向かわせた際に荘高資・荘勝資が離反した[5]

さらに勢力を拡大すべく備前美作国に侵攻し、永禄8年(1565年)、美作三星城後藤勝元を攻撃[3]。浦上氏および宇喜多直家の救援があって攻略できなかったが、翌年も美作に侵攻して宇喜多氏の勢力下の諸城を落とした。ところが、永禄9年(1566年)2月5日、美作興善寺[6]に滞在して重臣一同と評議中、直家の命を受けた遠藤秀清俊通兄弟に短筒の火縄銃で撃たれて死亡した[7][1]。当時としても珍しい鉄砲による暗殺であった。

長男の元祐はすでに荘氏に養子入りしていたことから、次男の元親が跡を継いだ。

家親の墓は源樹寺頼久寺(ともに岡山県高梁市内)など数箇所に在る。

脚注

  1. ^ a b 詳細な年月日に関しては『桂岌円覚書』など古い文献には無く後世比定されたものであり、植木成行などは永禄8年(1565年)説を唱えている。
  2. ^ 『陰徳太平記』。
  3. ^ a b 阿部 1990, p. 751.
  4. ^ 『毛利元就書状』。
  5. ^ 『黄薇古簡集』、時期不詳だが三村氏が本拠と定めた松山城もこの後に占拠されたようで、松山城奪回の戦いも同書に残る。
  6. ^ 廃寺。現在の岡山県久米郡久米南町である旧・籾村にあった。
  7. ^ 『備前軍記』など。

参考文献

  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、751頁。ISBN 4404017529