「オランピア (絵画)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
13行目: 13行目:
| museum = [[オルセー美術館]]
| museum = [[オルセー美術館]]
}}
}}
『'''オランピア'''』({{lang-fr-short|Olympia}})は、[[1863年]]に[[エドゥアール・マネ]]によって描かれた[[絵画]]。[[パリ]]の[[オルセー美術館]]所蔵。[[1862年]]から1863年に描かれた『[[草上の昼食]]』と共に、マネの代表作といわれる。
『'''オランピア'''』({{lang-fr-short|Olympia}})は、[[1863年]]に[[エドゥアール・マネ]]によって描かれた[[絵画]]。[[パリ]]の[[オルセー美術館]]所蔵<ref>{{Cite book|和書 |author = [[中野京子]] |year = 2011 |title = 印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ |publisher = [[NHK出版]] |page = 18 |isbn = 978-4-14-088350-1}}</ref>。[[1862年]]から1863年に描かれた『[[草上の昼食]]』と共に、マネの代表作といわれる。


== 解説 ==
== 解説 ==

2018年9月3日 (月) 14:49時点における版

『オランピア』
フランス語: Olympia
作者エドゥアール・マネ
製作年1863年
種類油彩、カンヴァス
寸法130.5 cm × 190 cm (51.4 in × 75 in)
所蔵オルセー美術館パリ

オランピア』(: Olympia)は、1863年エドゥアール・マネによって描かれた絵画パリオルセー美術館所蔵[1]1862年から1863年に描かれた『草上の昼食』と共に、マネの代表作といわれる。

解説

マネはこの作品を1865年サロン(官展)に出品し、作品自体は入選したが、『草上の昼食』と同様に「現実の裸体の女性」を描いた事が批判された。その理由として、『オランピア』という名が当時の娼婦の通称であったこと、花束を持った黒人の女性が裸体の女性の召使として描かれていること、当作品でベッドに横たわっている裸体の女性はサンダルと首に巻いたひもを身につけているが、このような表現は当時主流のアカデミック絵画において考えられていた神話や歴史上の出来事を描いた絵画に登場する裸体の女性とは異なっており、裸体の女性が当時の娼婦を表している事が明らかであった事が批判の対象となった。

ナポレオン3世の時代は空前の売春時代だった。黒猫は「女性器」をも意味した。また、マネは日本の浮世絵の影響によって、ルネサンス以来の奥行きのある空間表現や立体感をつけるための陰影を切り捨てた。奥にいるはずの黒人とオランピアは同じ大きさになっている。ラファエロのような伝統的絵画が賞賛された時代にあっては裸体が理想化されておらず平坦なために、下品なメスゴリラなどと酷評された。[2]

ティツィアーノ作『ウルビーノのヴィーナス』

全体的な構図は、1538年ティツィアーノが描いた『ウルビーノのヴィーナス』の構図を借用したものである[3]。また、右側で尻尾を立てている黒猫は1865年のサロン出品の直前にマネ自身によって加筆されたものである。

なお、裸体の女性のモデルは、『草上の昼食』などの1860年代~1870年代前半のマネの多くの作品でモデルを務めたヴィクトリーヌ・ムーランである。

他作品への影響

『草上の昼食』と同様に、多くの芸術家によってこの作品のパロディーオマージュに類する作品が発表されている。ポール・セザンヌ1874年にマネの当作品をセザンヌ自身の解釈によって表現した『モデルヌ・オランピア(現代のオランピア)』を描き、同年に開催された第1回印象派展に出品した。20世紀前半のスイスの画家であるルネ・ヴィクトール・オーベルジョノワRené Victor Auberjonois)は1943年に『オランピア礼賛』を描いた。日本現代美術の芸術家である森村泰昌1988年から1990年にかけて、森村自身が画中の裸体の女性と黒人の召使の2人に扮した『肖像(双子)』と題されたカラー写真を制作した。

脚注

  1. ^ 中野京子『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ』NHK出版、2011年、18頁。ISBN 978-4-14-088350-1 
  2. ^ 有地京子『オルセーはやまわり』(中央公論新社)p.40f.
  3. ^ 宮下規久朗『欲望の美術史』光文社、2013年、166頁。ISBN 978-4-334-03745-1