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永暦帝が[[新寧県|新寧]]に巡行した際、'''昭聖仁壽皇太后'''の[[尊号]]を受けた。永暦9年(1655年)6月に再び'''慈惠'''の号を賜り、全体で'''昭聖慈惠仁壽皇太后'''と称した。
永暦帝が[[新寧県|新寧]]に巡行した際、'''昭聖仁壽皇太后'''の[[尊号]]を受けた。永暦9年(1655年)6月に再び'''慈惠'''の号を賜り、全体で'''昭聖慈惠仁壽皇太后'''と称した。


[[1659年]]に永暦帝に従って[[タウングー王朝|ビルマ]]に亡命するが、[[1662年]]に[[清]]の[[呉三桂]]の侵攻を受けたことでビルマ王[[ピンダレ]]により清軍に引き渡された。永暦帝が[[昆明市|昆明]]で殺害されたことを知ると、「逆賊呉三桂よ汝の謀反によって、わらわの家は罠にはめられた。わらわは死して、地下から見張って汝の屍をすべて砕かれるのを見てやる」と嘆き、かつての[[明]]の武将でありながら清に投降して南明政権を滅ぼした呉三桂を罵った。
[[1659年]]に永暦帝に従って[[タウングー王朝|ビルマ]]に亡命するが、[[1662年]]に[[清]]の[[呉三桂]]の侵攻を受けたことでビルマ王[[ピンダレ]]により清軍に引き渡された。永暦帝が[[昆明市|昆明]]で殺害されたことを知ると、「逆賊呉三桂よ!汝の謀反によって、わらわの家は罠にはめられた。わらわは死して、地下から見張って汝の屍をすべて砕かれるのを見てやる!」と嘆き、かつての[[明]]の武将でありながら清に投降して南明政権を滅ぼした呉三桂を罵った。


北京へ送られる途中で永暦帝の皇后[[孝剛匡皇后]]と互いの喉を絞めて死のうとしたが、昭聖太后だけが死ねなかった。北京の宮廷では同情を受けて敬意を払われ、清の支援を受けて余生を過ごした。
北京へ送られる途中で永暦帝の皇后[[孝剛匡皇后]]と互いの喉を絞めて死のうとしたが、昭聖太后だけが生き延びた。北京の宮廷では同情を受けて敬意を払われ、清の支援を受けて余生を過ごした。


康熙8年([[1669年]])、91歳の高齢で死去した。
康熙8年([[1669年]])、91歳の高齢で死去した。

2018年7月29日 (日) 09:50時点における版

昭聖太后 (しょうせいたいこう、1578年ごろ – 1669年)は、朱常瀛の側室で、南明最後の皇帝永暦帝の生母[1]。姓は馬氏。名は伝わっていないが、カトリックに入信しマリア(Maria)という洗礼名を受けた。

生涯

1646年に永暦帝が即位すると、馬氏は慈寧皇太后の称号を賜ったが、まもなく昭聖恭懿皇太后に変わった。兄の馬九爵は鎮遠伯に任じられ、馬承祖は中軍都督府、弟の馬九功は右軍都督府の任を受けた。

永暦帝が新寧に巡行した際、昭聖仁壽皇太后尊号を受けた。永暦9年(1655年)6月に再び慈惠の号を賜り、全体で昭聖慈惠仁壽皇太后と称した。

1659年に永暦帝に従ってビルマに亡命するが、1662年呉三桂の侵攻を受けたことでビルマ王ピンダレにより清軍に引き渡された。永暦帝が昆明で殺害されたことを知ると、「逆賊呉三桂よ!汝の謀反によって、わらわの家は罠にはめられた。わらわは死して、地下から見張って汝の屍をすべて砕かれるのを見てやる!」と嘆き、かつてのの武将でありながら清に投降して南明政権を滅ぼした呉三桂を罵った。

北京へ送られる途中で永暦帝の皇后孝剛匡皇后と互いの喉を絞めて死のうとしたが、昭聖太后だけが生き延びた。北京の宮廷では同情を受けて敬意を払われ、清の支援を受けて余生を過ごした。

康熙8年(1669年)、91歳の高齢で死去した。

参考文献

  1. ^ 《南明史》卷二十六