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「殤公 (衛)」の版間の差分

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献公5年([[紀元前572年|前572年]])冬、[[献公 (衛)|献公]]は公孫秋(子叔)を魯へ遣わした。
 
献公18年([[紀元前559年|前559年]])4月、[[大夫]]の[[孫林父]](孫文子)が献公を攻撃して衛から放逐した。孫林父は献公の従弟である公孫秋を立てて衛君(以降は殤公と表記)とした。放逐された献公は[[斉 (春秋)|斉]]へ逃れ、聚邑に住まわせてもらった。こうして孫林父と[[殖]](恵子)は衛の相(しょう:[[宰相]])となり、諸侯の命を聞くこととなった。
 
殤公2年([[紀元前557年|前557年]])3月、殤公は[[晋 (春秋)|晋]]・[[宋 (春秋)|宋]]・[[魯]]・[[鄭]]・[[曹 (春秋)|曹]]・[[莒]]・[[邾]]・[[薛]]・[[杞]]・[[小邾]]の要人たちと溴梁で会合し、盟を結んだ。6月、殖は鄭・晋・魯・宋の要人たちと会合し、[[許]]を攻撃した。
 
殤公3年([[紀元前556年|前556年]])春、大夫の[[孫蒯]](孫林父の子)は国境を越えて曹隧(曹の地)で狩りをし、重丘(曹の邑)で馬に水を飲まそうとして釣瓶を壊してしまった。それに対して重丘の人が彼の父を罵ったので、その夏に衛の[[石買]]と孫蒯は曹を攻撃し、重丘を占領した。
殤公5年([[紀元前554年|前554年]])夏、孫林父が衛軍を率いて斉を攻撃した。
 
殤公6年([[紀元前553年|前553年]])6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、寧殖が[[卒去]]し、その後を子の[[喜]](悼子)が継いだ。
 
殤公7年([[紀元前552年|前552年]])冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した<ref>この会合では[[欒盈]]をかくまわないことを相談し合った。</ref>。このとき、斉の[[荘公光|荘公]]と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である[[羊舌キツ|羊舌肸(叔向)]]に注意された。
殤公11年([[紀元前548年|前548年]])5月、殤公はふたたび晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、斉を攻撃した。その秋、斉との和約が成立し、諸侯は重丘で盟を結んだ。そのころ、衛の先君である献公が夷儀に入った。
 
殤公12年([[紀元前547年|前547年]])、先君の献公が何度か寧喜に帰国を求めたため、2月に喜と右宰の穀は政敵である孫一族を攻撃し、殤公と[[太子]]の角を殺して献公を迎えた<ref>『史記』では「孫林父が喜に敗れて晋に出奔すると、晋の[[平公 (晋)|平公]]に献公の復位を求めた。これを聞いた斉の[[景公 (斉)|景公]]も献公と共に晋へ赴き、献公の復位を求めた。そこで晋の平公は衛を攻撃して殤公と喜を捕え、献公をふたたび衛君の座に就かせた。」とあり、殤公が殺されたとは書いていない。</ref>。
 
== 脚注 ==
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