「石井蔵人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
4行目: 4行目:


== 来歴 ==
== 来歴 ==
蔵人忠清は、[[肥前国]][[佐賀城]]主[[龍造寺氏]]の重臣[[肥前石井氏|石井氏]]の四男家の生まれであるが、[[龍造寺隆信]]の命により、石井一族の惣領に任ぜられ、一族を率いた。それに伴い石井氏では、嫡男家の当主を「宗家」とし、実質的に一族を代表して采配を執る者を「惣領」とすることになった。
石井蔵人忠清は、[[肥前国]][[佐賀城]]主[[龍造寺氏]]の重臣[[肥前石井氏|石井氏]]の四男家(駿河守筋)の生まれであるが、[[龍造寺隆信]]の命により、石井一族の惣領とされ、一族を率いた。


[[永禄]]5年([[1565年]])、龍造寺隆信が、[[肥前国]][[三根郡]]中野城主[[馬場鑑周]]を攻めた際、龍造寺軍配下の石井隊が先陣となって奮戦した。しかし、隆信が重用した側近の勇将[[石井忠修|石井源次郎]]らが戦死し、戦後、隆信は源次郎の死を惜しんで、哀愁の感状をしたため、石井の惣領である蔵人忠清に贈っている(『北肥戦誌』)。
[[永禄]]5年([[1565年]])、龍造寺隆信が、[[肥前国]][[三根郡]]中野城主[[馬場鑑周]]を攻めた際、龍造寺軍配下の石井隊が先陣となって奮戦した。しかし、隆信が重用した側近[[石井忠修|石井源次郎]]らが戦死し、戦後、隆信は源次郎の死を惜しんで、哀愁の感状をしたため、石井の惣領である蔵人忠清に贈っている(『北肥戦誌』)。


[[元亀]]元年([[1570年]])、[[今山の戦い]]でも、[[大友親貞]]戦死後、蔵人忠清は石井隊を率いて、[[納富信景]]隊に合流し、敗残大友軍の掃討にあたっている(『北肥戦誌』)。
[[元亀]]元年([[1570年]])、[[今山の戦い]]でも、[[大友親貞]]戦死後、蔵人忠清は石井隊を率いて、[[納富信景|納富信景]]隊に合流し、敗残大友軍の掃討にあたっている(『北肥戦誌』)。


蔵人忠清が病死すると、一族の惣領は、家連枝の[[石井茂成|石井修理亮茂成]]がつとめ、茂成没後は、二男家の[[石井孝成|石井兵庫助孝成]]が引き継いでいる
蔵人忠清が病死すると、一族の惣領は、石井嫡男(和泉守筋)連枝の[[石井茂成|石井修理亮茂成]]が引き継ぎ、茂成石井寄合衆の大組頭となった


蔵人忠清の嫡男[[石井景弘|但馬守景弘]]とその子孫は、[[佐賀藩]]においても、旧惣領の由緒により重んじられた(『佐賀藩諸家差出戦功書』)。
蔵人忠清の嫡男[[石井景弘|但馬守景弘]]とその子孫は、[[佐賀藩]]においても、旧惣領の由緒により重んじられた(『佐賀藩諸家差出戦功書』)。


{{DEFAULTSORT:いしい たたきよ}}
{{DEFAULTSORT:いしい たたきよ}}

2018年3月21日 (水) 04:09時点における版

 
石井 忠清/石井 蔵人
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
死没 慶長14年1月21日1609年2月24日
戒名 清徳院日利
官位 蔵人(受領名)
主君 龍造寺隆信政家鍋島直茂
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井忠本、母:倉町家光の娘
兄弟 忠喬忠清忠晴
景弘忠昌忠増、蔵人、石井重次
テンプレートを表示

石井 忠清/石井 蔵人(いしい ただきよ/いしい くろうど)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将肥前国戦国大名龍造寺氏の重臣。 肥前国佐嘉郡飯盛城石井駿河守忠義の四男駿河守忠本の次男。母は倉町蔵人家光の娘。同じ諱の石井和泉守忠清は伯父にあたる。

来歴

石井蔵人忠清は、肥前国佐賀城龍造寺氏の重臣石井氏の四男家(駿河守筋)の生まれであるが、龍造寺隆信の命により、石井一族の惣領とされ、一族を率いた。

永禄5年(1565年)、龍造寺隆信が、肥前国三根郡中野城主馬場鑑周を攻めた際、龍造寺軍配下の石井隊が先陣となって奮戦した。しかし、隆信が重用した側近石井源次郎らが戦死し、戦後、隆信は源次郎の死を惜しんで、哀愁の感状をしたため、石井の惣領である蔵人忠清に贈っている(『北肥戦誌』)。

元亀元年(1570年)、今山の戦いでも、大友親貞戦死後、蔵人忠清は石井隊を率いて、納富信景隊に合流し、敗残大友軍の掃討にあたっている(『北肥戦誌』)。

蔵人忠清が病死すると、一族の惣領は、石井嫡男家(和泉守筋)連枝の石井修理亮茂成が引き継ぎ、茂成が石井寄合衆の大組頭となった。

蔵人忠清の嫡男但馬守景弘とその子孫は、佐賀藩においても、旧惣領の由緒により重んじられた(『佐賀藩諸家差出戦功書』)。