「セント・オールバンズの戦い (1461年)」の版間の差分

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(第2次)'''セント・オールバンズの戦い'''(Second Battle of St Albans)は、[[薔薇戦争]]中の[[1461年]]2月22日、[[セント・オールバンズ]]の街の近くで行われた戦闘。
(第2次)'''セント・オールバンズの戦い'''(Second Battle of St Albans)は、[[薔薇戦争]]中の[[1461年]][[2月17]]、[[セント・オールバンズ]]の街の近くで行われた戦闘。


== 戦闘の背景 ==
== 戦闘の背景 ==
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[[ヨーク公]][[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|リチャード]]は[[1460年]]12月の[[ウェイクフィールドの戦い]]で戦死し、後を継いだ18歳になる息子のマーチエドワード(後の[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]])は、その直前に西で行われた[[モーティマーズ・クロスの戦い]]に参加していて忙しかった。となると[[マーガレット・オブ・アンジュー|マーガレット王妃]]率いる[[ランカスター朝|ランカスター派]]にとってとるべき道は明確である。ランカスター派は[[ロンドン]]を強襲するため、南進を開始した。


== 戦闘の様子 ==
== 戦闘の様子 ==
ランカスター派の進軍は、[[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォック伯]]指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバンズの近くで妨げられた。ウォリックは防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。
ランカスター派の進軍は、[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバンズの近くで妨げられた。ウォリックは防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。弟のモンターギュ男爵[[ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)|ジョン・ネヴィル]]は捕虜となり、ウォリック伯は辛うじて戦場から離脱、マーチ伯との合流を図り西へ退却した。

この戦いは従来と違い下級兵士の犠牲が多く、戦死した貴族はランカスター派のフェラーズ男爵{{仮リンク|ジョン・グレイ・オブ・グロービー|en|John Grey of Groby|label=ジョン・グレイ}}([[エリザベス・ウッドヴィル]]の最初の夫)のみであった。


== 戦闘の結果 ==
== 戦闘の結果 ==
この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]](戦場にいたといっても恐木の下で歌でも歌っていたのであろうが)はランカスター派に連れ戻された。だが、ロドンへ進軍は強行されなかった。ラカスター派による略奪行為のうわさのためロ市民がその城門が閉ざしたようでため王妃は躊躇した。またマチ公エドワードがモーティマーズ・クロス戦い勝利したニュースもその原因となった。
この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]](戦場遠ざけられ、木の下で笑いながら歌っていたとされる)はランカスター派に連れ戻された。リー6世護衛役だったヴィル男爵[[ウィリアム・ボヴィル (初代ボヴィル男爵)|ウィリアム・ボンヴィル]]と{{仮リンク|トーマス・キリエル|en|Sir Thomas Kyriell}}は翌日[[2月18日]]にマーガレットと話合っ[[エドワード・オブ・ウェストミンスタ|エドワード]][[プリンス・オブ・ウェ|王太子]]命令処刑された。

だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。ランカスター派による略奪行為の噂のためロンドン市民が城門を閉ざし、マーガレットが躊躇したからである。マーチ伯がモーティマーズ・クロスの戦いで勝利したニュースもその原因となり、ランカスター派はヨーク派の襲撃を避け北へ撤退した。


マーチ公エドワードとウォリック伯[[3月2日]]にロンドンに入り、マーチ公エドワードがイングランド王として宣告された。
代わってマーチとウォリック伯[[3月2日]]にロンドンに入り、マーチがイングランド王エドワード4世として宣告された。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2018年1月17日 (水) 12:38時点における版

セント・オールバンズの戦い
戦争薔薇戦争
年月日1461年2月17日
場所イングランドハートフォードシャーセント・オールバンズ
北緯51度45分18秒 西経0度20分9.6秒 / 北緯51.75500度 西経0.336000度 / 51.75500; -0.336000
結果:ランカスター派の勝利
交戦勢力
ヨーク家 ランカスター家
指導者・指揮官
ウォリック伯
モンターギュ男爵(捕虜)
ボンヴィル男爵 処刑
サー・トーマス・キリエル 処刑
ほかブルゴーニュ傭兵500
マーガレット王妃
サマセット公
エクセター公
ノーサンバランド伯
シュルーズベリー伯
デヴォン伯
クリフォード男爵
ルーシュ男爵
フェラーズ男爵 
アンドリュー・トラロップ
ほかスコットランド兵
戦力
10,000以下 15,000以下
損害
4,000 2,000
薔薇戦争
セント・オールバンズの戦い (1461年) の座標 TL147073
セント・オールバンズの戦い (1461年) 座標: TL147073)場所

(第2次)セント・オールバンズの戦い(Second Battle of St Albans)は、薔薇戦争中の1461年2月17日セント・オールバンズの街の近くで行われた戦闘。

戦闘の背景

ヨーク公リチャード1460年12月のウェイクフィールドの戦いで戦死し、後を継いだ18歳になる息子のマーチ伯エドワード(後のエドワード4世)は、その直前に西で行われたモーティマーズ・クロスの戦いに参加していて忙しかった。となるとマーガレット王妃率いるランカスター派にとってとるべき道は明確である。ランカスター派はロンドンを強襲するため、南進を開始した。

戦闘の様子

ランカスター派の進軍は、ウォリック伯リチャード・ネヴィル指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバンズの近くで妨げられた。ウォリック伯は防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。弟のモンターギュ男爵ジョン・ネヴィルは捕虜となり、ウォリック伯は辛うじて戦場から離脱、マーチ伯との合流を図り西へ退却した。

この戦いは従来と違い下級兵士の犠牲が多く、戦死した貴族はランカスター派のフェラーズ男爵ジョン・グレイ英語版エリザベス・ウッドヴィルの最初の夫)のみであった。

戦闘の結果

この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王ヘンリー6世(戦場から遠ざけられ、木の下で笑いながら歌っていたとされる)はランカスター派に連れ戻された。ヘンリー6世の護衛役だったボンヴィル男爵ウィリアム・ボンヴィルトーマス・キリエルは、翌日の2月18日にマーガレットと話し合ったエドワード王太子の命令で処刑された。

だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。ランカスター派による略奪行為の噂のためロンドン市民が城門を閉ざし、マーガレットが躊躇したからである。マーチ伯がモーティマーズ・クロスの戦いで勝利したニュースもその原因となり、ランカスター派はヨーク派の襲撃を避け北へ撤退した。

代わってマーチ伯とウォリック伯が3月2日にロンドンに入り、マーチ伯がイングランド王エドワード4世として宣告された。

参考文献