「セント・オールバンズの戦い (1461年)」の版間の差分
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|commander2=[[マーガレット・オブ・アンジュー|マーガレット王妃]]<br />[[ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公)|サマセット公]]<br />[[ヘンリー・ホランド (第3代エクセター公)|エクセター公]]<br />[[ヘンリー・パーシー (第3代ノーサンバランド伯)|ノーサンバランド伯]]<br />[[ジョン・タルボット (第3代シュルーズベリー伯)|シュルーズベリー伯]]<br />[[トマス・コートニー (第6代デヴォン伯)|デヴォン伯]]<br />[[ジョン・クリフォード (第9代クリフォード男爵)|クリフォード男爵]]<br />[[トマス・ド・ルーシュ (第9代ルーシュ男爵)|ルーシュ男爵]]<br />[[ジョン・グレイ・オブ・グロービー|フェラーズ男爵]]{{KIA}}<br />[[アンドリュー・トラロップ]]<br />ほかスコットランド兵 |
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(第2次)'''セント・オールバンズの戦い'''(Second Battle of St Albans)は、[[薔薇戦争]]中の[[1461年]]2月 |
(第2次)'''セント・オールバンズの戦い'''(Second Battle of St Albans)は、[[薔薇戦争]]中の[[1461年]][[2月17日]]、[[セント・オールバンズ]]の街の近くで行われた戦闘。 |
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== 戦闘の背景 == |
== 戦闘の背景 == |
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== 戦闘の様子 == |
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ランカスター派の進軍は、[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|リチャード・ネヴィル]]指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバンズの近くで妨げられた。ウォリック伯は防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。弟のモンターギュ男爵[[ジョン・ネヴィル (初代モンターギュ侯)|ジョン・ネヴィル]]は捕虜となり、ウォリック伯は辛うじて戦場から離脱、マーチ伯との合流を図り西へ退却した。 |
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この戦いは従来と違い下級兵士の犠牲が多く、戦死した貴族はランカスター派のフェラーズ男爵{{仮リンク|ジョン・グレイ・オブ・グロービー|en|John Grey of Groby|label=ジョン・グレイ}}([[エリザベス・ウッドヴィル]]の最初の夫)のみであった。 |
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== 戦闘の結果 == |
== 戦闘の結果 == |
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この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]](戦場 |
この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]](戦場から遠ざけられ、木の下で笑いながら歌っていたとされる)はランカスター派に連れ戻された。ヘンリー6世の護衛役だったボンヴィル男爵[[ウィリアム・ボンヴィル (初代ボンヴィル男爵)|ウィリアム・ボンヴィル]]と{{仮リンク|トーマス・キリエル|en|Sir Thomas Kyriell}}は、翌日の[[2月18日]]にマーガレットと話し合った[[エドワード・オブ・ウェストミンスター|エドワード]][[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]]の命令で処刑された。 |
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だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。ランカスター派による略奪行為の噂のためロンドン市民が城門を閉ざし、マーガレットが躊躇したからである。マーチ伯がモーティマーズ・クロスの戦いで勝利したニュースもその原因となり、ランカスター派はヨーク派の襲撃を避け北へ撤退した。 |
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マーチ |
代わってマーチ伯とウォリック伯が[[3月2日]]にロンドンに入り、マーチ伯がイングランド王エドワード4世として宣告された。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2018年1月17日 (水) 12:38時点における版
セント・オールバンズの戦い | |
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戦争:薔薇戦争 | |
年月日:1461年2月17日 | |
場所:イングランド、ハートフォードシャーのセント・オールバンズ | |
結果:ランカスター派の勝利 | |
交戦勢力 | |
ヨーク家 | ランカスター家 |
指導者・指揮官 | |
ウォリック伯 モンターギュ男爵(捕虜) ボンヴィル男爵 サー・トーマス・キリエル ほかブルゴーニュ傭兵500 |
マーガレット王妃 サマセット公 エクセター公 ノーサンバランド伯 シュルーズベリー伯 デヴォン伯 クリフォード男爵 ルーシュ男爵 フェラーズ男爵 † アンドリュー・トラロップ ほかスコットランド兵 |
戦力 | |
10,000以下 | 15,000以下 |
損害 | |
4,000 | 2,000 |
(第2次)セント・オールバンズの戦い(Second Battle of St Albans)は、薔薇戦争中の1461年2月17日、セント・オールバンズの街の近くで行われた戦闘。
戦闘の背景
ヨーク公リチャードは1460年12月のウェイクフィールドの戦いで戦死し、後を継いだ18歳になる息子のマーチ伯エドワード(後のエドワード4世)は、その直前に西で行われたモーティマーズ・クロスの戦いに参加していて忙しかった。となるとマーガレット王妃率いるランカスター派にとってとるべき道は明確である。ランカスター派はロンドンを強襲するため、南進を開始した。
戦闘の様子
ランカスター派の進軍は、ウォリック伯リチャード・ネヴィル指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバンズの近くで妨げられた。ウォリック伯は防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。弟のモンターギュ男爵ジョン・ネヴィルは捕虜となり、ウォリック伯は辛うじて戦場から離脱、マーチ伯との合流を図り西へ退却した。
この戦いは従来と違い下級兵士の犠牲が多く、戦死した貴族はランカスター派のフェラーズ男爵ジョン・グレイ(エリザベス・ウッドヴィルの最初の夫)のみであった。
戦闘の結果
この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王ヘンリー6世(戦場から遠ざけられ、木の下で笑いながら歌っていたとされる)はランカスター派に連れ戻された。ヘンリー6世の護衛役だったボンヴィル男爵ウィリアム・ボンヴィルとトーマス・キリエルは、翌日の2月18日にマーガレットと話し合ったエドワード王太子の命令で処刑された。
だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。ランカスター派による略奪行為の噂のためロンドン市民が城門を閉ざし、マーガレットが躊躇したからである。マーチ伯がモーティマーズ・クロスの戦いで勝利したニュースもその原因となり、ランカスター派はヨーク派の襲撃を避け北へ撤退した。
代わってマーチ伯とウォリック伯が3月2日にロンドンに入り、マーチ伯がイングランド王エドワード4世として宣告された。